微小位相差論 理論から写真論へ。

微小位相差論――写真による存在の再構築

新川芳朗
京都芸術大学大学院 芸術研究科 写真映像領域
2025年


 
Altered Landscape  

Photographed in 2023 

Created in 2025 

Yoshiro Shinkawa 

 

序論:概念を創るということ

写真は何を記録するのか。この問いに対して、私は40年の実践を経て、通常とは異なる答えに到達した。写真は光を記録するのでもなく、時間を固定するのでもない。写真は存在の重層性を露わにする装置である。

本論文で提示する「微小位相差」は、証明を求める理論ではない。それは新しい概念の創造である。ドゥルーズとガタリが述べたように、哲学の仕事は概念を創ることにある(Deleuze & Guattari, 1991)。私は写真家として、写真という特異な行為を通じてのみ可能な概念を創る。

時間は存在しない。少なくとも、私たちが信じているような直線的な時間は。過去も未来も、今ここに重なり合って存在している。写真を撮るという行為は、この重なりから一つの層を選び取り、定着させることである。しかし定着されなかった他の層は消えたのではない。それらは微小な位相差を持って、なお存在し続けている。

信憑性という問題についても同様である。AI時代において、何が「本物の写真」で何が「偽物」なのかという問いは無意味になった。しかしこれは写真の危機ではない。むしろ、写真が常に持っていた本質――意図の提示という本質――が、ようやく明らかになったに過ぎない。

本論文の目的は、この見方を写真史に残すことである。それは後世の誰かが、写真について考える時の一つの参照点となるだろう。


第1章:見ることの考古学

1.1 幼年期の直観

私の思考の起点は、幼少期に見上げた星空にある。宇宙の果てには何があるのか。大人たちは「無」だと言った。しかし私には、果ての向こうにさらに宇宙が広がっているとしか思えなかった。

この直観は長く言語化できなかった。しかし写真を撮り始めてから、それは具体的な形を取り始めた。ファインダーを覗く時、私が見ているのは「今」ではない。私が見ているのは、無数の「今」が重なり合った厚みである。

1.2 写真という装置

カメラは何を捉えるのか。従来の写真論は、これを「光の記録」と定義してきた(Sontag, 1977; Barthes, 1980)。しかしこの定義は、写真という行為の核心を見逃している。

写真が捉えるのは光ではない。写真が捉えるのは選択である。

シャッターを切る瞬間、写真家は無限の可能性から一つを選び取る。しかし選ばれなかった可能性は消滅するのではない。それらは別の位相として、選ばれた現実と微小な差異を持って共存し続ける。

これは量子力学における波動関数の収縮を想起させる。しかし私が主張するのは、物理学的な対応関係ではない。むしろ逆である。量子力学が数式で記述しようとしているものを、写真は視覚的に、直接的に提示できる。

1.3 連続撮影という方法

2016年より、私は同一地点で定点的に撮影を続けてきた。仮に1秒間隔で1時間なら撮影されたコマ数は3600枚になる。

これらの画像を並べて見る時、何が起こるか。

各コマは明確に「異なる瞬間」を示している。雲の形が変わり、光の角度が変わり、波の形状が変わっている。しかし同時に、地平線、防波堤、遠くの山並みといった不変要素により、それらは「同一の場所」であることが保証されている。

結果として観察者は、矛盾した認識に直面する。これは同じ場所である。しかし同時に、これらは異なる時間である。ならば、同じ場所に異なる時間が共存しているのではないか。

この認識こそが、微小位相差の直接的体験である。


第2章:微小位相差という概念

2.1 概念の定義

微小位相差とは、同一の時空座標上に、無限に近い微小なずれを持って複数の状態が重層的に存在するあり方を指す。

この定義において重要なのは、以下の三点である:

  1. 同一性と差異の共存
    完全に同一でもなく、完全に分離してもいない。微小だがゼロではない差異がある。
  2. 重層性
    一つの状態が他の状態を排除するのではない。すべての状態が同時に存在している。
  3. 観察の相対性
    どの状態を「現実」として認識するかは、観察者の位相に依存する。

2.2 時間の再考

通常、私たちは時間を直線として理解する。過去から現在へ、現在から未来へと、一方向に流れる連続体として。この理解は、ニュートン以来の物理学に深く根ざしている。

しかし写真を通して世界を見る時、この理解は崩れる。

連続撮影された画像群において、どれが「過去」でどれが「現在」なのか。それは並べ方に依存する。時系列に並べれば、左から右へ時間が流れるように見える。しかしランダムに配置すれば、時間の方向性は失われる。重ねて表示すれば、すべての時間が同時に存在する。

ここから導かれるのは、時間とは存在そのものの性質ではなく、観察者が構築する秩序だということである。時間は「ある」のではない。時間は「作られる」のである。

微小位相差論において、時間は厚みを持つ。任意の瞬間 t は、実際には [t-δ, t+δ] という幅を持つ。この幅の中に、無数の微小に異なる状態が重なり合っている。私たちが「今」と呼ぶものは、この重なり合いの総体である。

2.3 エントロピーの相対性

熱力学第二法則は、閉じた系においてエントロピーは増大すると述べる。秩序から無秩序へ。これが時間の矢を定義すると考えられてきた。

しかし微小位相差の観点からは、これは観察者の位相選択の結果である。

ある位相系列を追跡すれば、確かにエントロピーは増大する。コップから溢れた水は床に広がり、元には戻らない。しかし別の位相系列では、水は床から集まりコップに戻る。両方の系列が同時に存在している。私たちが前者のみを「現実」として認識するのは、私たちの観察が特定の位相に固定されているからである。

宇宙全体では、エントロピーの増大も減少もない。すべての状態が微小位相差で共存しており、方向性は存在しない。

2.4 運動の起源

では、なぜ運動が存在するのか。

完全な同一性(δ=0)は静止を意味する。すべてが完全に同じであれば、変化は起こらない。逆に、完全な分離(δ→∞)は相互作用の不在を意味する。二つの存在が無限に離れていれば、互いに影響を与えることはできない。

運動、変化、そして生命が可能であるのは、微小だがゼロではない位相差が存在するからである。この微妙な差異こそが、宇宙に動性を与える。


第3章:写真史への介入

3.1 「それは=かつて=あった」の解体

ロラン・バルトは、写真の本質を「ça-a-été(それは=かつて=あった)」と定義した(Barthes, 1980)。写真は、過去に確かに存在したものの痕跡である。この定義は、写真の記録性と過去性を強調する。

しかし微小位相差論は、この定義を根本から覆す。

写真が示すのは「かつてあった」のではない。写真が示すのは「今もある」である。より正確に言えば、写真が示すのは「かつて」と「今」と「これから」が微小位相差で重なり合っている状態である。

バルトが「過去」と呼んだものは、単に私たちが選択した一つの位相に過ぎない。他の位相では、それは「現在」であり「未来」である。

3.2 決定的瞬間の不可能性

アンリ・カルティエ=ブレッソンは、「決定的瞬間(moment décisif)」という概念を提唱した。すべての要素が完璧に配置される、唯一の瞬間。写真家の仕事は、その瞬間を捉えることである。

しかしこの考えは、瞬間が単一で分割不可能だという前提に立っている。微小位相差論は、この前提を否定する。

どんな瞬間も厚みを持つ。「決定的瞬間」と呼ばれるものは、実際には無数の微小に異なる瞬間の重なり合いである。写真家が捉えるのは、この重なり合いから選択された一つの位相であり、それは唯一のものではない。

同じ場所に立ち、0.1秒後にシャッターを切れば、別の「決定的瞬間」が得られる。両方が等しく「決定的」である。あるいは、どちらも決定的ではない。

3.3 New Topographicsの限界と超克

1975年、「New Topographics: Photographs of a Man-Altered Landscape」展は、写真の新しい方向性を示した(Adams et al., 1975)。ロバート・アダムス、ルイス・ボルツ、スティーブン・ショアらは、人間が変容させた風景を客観的に、感情を排して記録した。

この試みは重要だったが、限界も持っていた。彼らの写真は問題を可視化したが、解決を提示することはできなかった。写真家は傍観者として、変化を記録するのみであった。

微小位相差論は、この限界を超える可能性を示す。なぜなら、もし現実が微小位相差で重層的に存在しているならば、写真家は単に「ある現実」を記録するのではなく、「どの位相の現実を選択するか」という能動的行為を行っているからである。

そしてこの選択は、観察者の意識に影響を与える。観察者は、提示された位相を通じて、他の可能な位相の存在を感知する。写真は、見えている現実だけでなく、見えていない他の現実の可能性をも示唆する。


第4章:実践としての写真――Altered Landscape

4.1 変容する風景

私が住む熊本は、急速に変化している。

2023年、TSMCの半導体工場建設により、広大な畑が消失した。2016年の熊本地震により、阿蘇大橋は崩落し、再建された。新しいマンションが建ち、古い家屋が取り壊される。コンビニが出現し、商店街が消える。

この変化を、私は記録してきた。しかしそれは単なるドキュメンタリーではない。

「Altered Landscape」シリーズにおいて、私は変化の重層性を提示しようとしている。同じ場所を異なる時間に撮影した画像を並置することで、観察者は複数の時間層が共存していることを認識する。畑であった場所に工場が建っている。しかし画像の中では、畑も工場も同時に存在している。

これは単なる比較ではない。微小位相差論においては、畑も工場も、実際に同じ場所に異なる位相として共存している。写真は、この共存を可視化する。

4.2 技法としての古典

このシリーズでは、自作の古典レンズと改良された古典技法を使用している。

なぜ古典技法なのか。それは、デジタル写真の完璧さが、実は位相の単一化をもたらすからである。現代のレンズは極めて鮮明で、画像処理は極めて正確である。しかしその完璧さは、他の可能性を排除する。

古典技法の「不完全さ」は、実は位相の多重性を保持する。ピントの甘さ、収差、粒子の粗さ。これらは欠陥ではなく、微小位相差が画像に現れる通路である。

4.3 観察者の変容

「Altered Landscape」を見る人々は、しばしば奇妙な感覚を報告する。画像は明確に「記録」であり、何も操作されていない。しかし同時に、何か「ずれている」感覚がある。

この感覚こそが、微小位相差の体験である。観察者は、提示された位相を見ながら、同時に他の位相の存在を感じ取っている。見えているものと見えていないものが、微小な差異で重なり合っていることを、直感的に理解している。

写真は、この理解を言語化することなく、直接的に伝達する。


第5章:行為としての写真――環境再生農業

5.1 記録から実践へ

2015年、私は写真家としての活動と並行して、無農薬・無肥料の稲作を始めた。当初は1反(約1000㎡)の試験的栽培だったが、2025年現在、5町(約5ヘクタール)まで拡大している。

なぜ写真家が農業を行うのか。

New Topographicsの写真家たちは、環境破壊を記録したが、それを止めることはできなかった。ユージン・スミスは水俣病を世界に知らしめたが、水俣病を治すことはできなかった。写真の限界がそこにある。

しかし微小位相差論は、異なる可能性を示唆する。もし現実が微小位相差で重層的であるならば、「環境が破壊された現実」と「環境が再生された現実」は、微小な差異で共存しているはずである。

写真家の仕事は、後者の位相を選択し、定着させることである。そしてその選択は、単に画像を撮ることだけでは不十分である。身体を動かし、土を耕し、実際にその位相を物理的に実現する必要がある。

5.2 生物多様性の回復

無農薬・無肥料の田んぼでは、驚くべき変化が起こる。

最初の年、田んぼには雑草が繁茂した。慣行農法の農家たちは首を振った。しかし2年目、3年目と続けるうちに、田んぼの生態系が変化し始めた。

トンボが戻ってきた。カエルが鳴き始めた。タニシが増え、ミジンコが泳いだ。土壌微生物が活性化し、稲は化学肥料なしで健康に育つようになった。5年目には、ホタルが飛ぶようになった。

これは単なる「自然回帰」ではない。これは、別の位相の現実の顕在化である。

慣行農法の田んぼと私の田んぼは、物理的には隣接している。しかし生態学的には、全く異なる位相に存在している。両方の位相が同じ場所に共存しており、どちらが「現実」として現れるかは、人間の選択に依存している。

5.3 写真と農業の統合

私にとって、写真を撮ることと稲を育てることは、同じ行為の異なる側面である。

写真は、微小位相差を視覚的に提示する。農業は、微小位相差を物理的に実現する。両方とも、無数の可能性から一つの位相を選択し、定着させる行為である。

そしてどちらも、観察者(あるいは食べる人)の意識を変容させる。写真を見ることで、人は世界が重層的であることに気づく。無農薬の米を食べることで、人は別の農業が可能であることに気づく。

この気づきが、新しい位相の選択を可能にする。


第6章:AI時代における写真の再定義

6.1 真正性の危機

2020年代、拡散モデル(Stable Diffusion, DALL-E, Midjourney等)の登場により、写真の定義は根本的に揺らいだ。

AIは、実在しない被写体の「写真」を生成できる。カメラを使わず、光を記録せず、しかし視覚的には写真と区別がつかない画像を作り出す。

これは写真の危機なのか。

従来の定義――「写真は光の記録である」――に従えば、確かに危機である。しかし微小位相差論は、別の視点を提供する。

6.2 意図の記録としての写真

写真の本質は、光の記録ではない。写真の本質は、意図の記録である。

誰かが、何かを見せたいと思う。その意図が、画像として定着される。これが写真である。

カメラを使うか、AIを使うか、あるいは絵筆を使うかは、本質的な違いではない。重要なのは、ある位相が選択され、提示されることである。

AI生成画像も、この意味では「写真」である。それは生成者の意図――こう見せたい、こう感じさせたいという意図――を記録している。

6.3 写真家の新しい役割

では、カメラによる写真とAI生成画像の違いは何か。

それは、物理的世界との接触の有無である。

カメラによる写真は、光という物理的実体と接触した結果である。そこには、撮影者の意図だけでなく、世界の偶然性も刻まれている。風が吹き、雲が動き、予期しない何かが画面に入り込む。この偶然性が、カメラ写真に独特の質感を与える。

AI生成画像には、この偶然性がない(あるいは、偶然性すらも計算されている)。すべてが意図の範囲内にある。

微小位相差論の観点からは、これは次のように解釈できる:カメラ写真は、撮影者の位相と世界の位相が干渉した結果である。AI生成画像は、生成者の位相のみが反映された結果である。

どちらが優れているかではない。それらは異なる種類の画像であり、異なる目的に適している。

6.4 真正性という幻想

「この写真は本物か、AIか」という問いは、実は意味がない。

なぜなら、カメラ写真もすでに「作られた」ものだからである。構図の選択、露出の決定、現像処理、プリント。すべてが撮影者の意図による操作である。「ありのままの現実」を写した写真など、存在したことがない。

AI時代が明らかにしたのは、写真が常に持っていた性質――構築性、操作性、意図性――である。

ブロックチェーンや電子署名による「真正性」の保証は、技術的には可能かもしれない。しかしそれが保証するのは、「この画像が特定のカメラで撮影された」という事実だけであり、「この画像が真実を伝えている」ことではない。

微小位相差論においては、真正性という概念そのものが相対的である。すべての画像は、ある位相から見た現実を提示している。その位相が「正しい」か「間違っている」かは、判定不可能である。


第7章:概念の継承――写真史への遺産

7.1 証明を求めない思考

本論文で提示した微小位相差論は、実証的に証明できるものではない。

それは科学的理論ではなく、哲学的概念である。あるいは、写真実践から生まれた世界観である。

ニーチェの「永劫回帰」、ベルクソンの「持続」、ドゥルーズの「差異と反復」。これらの概念も、実証的に証明されたわけではない。しかしそれらは、世界を理解するための強力な道具となった。

微小位相差論も、同じ役割を果たすことを目指す。

7.2 後世への問いかけ

私がこの概念を提示するのは、それが「正しい」からではない。それが有用かもしれないからである。

いつか誰かが、写真について考える時。時間について考える時。存在について考える時。この概念が、思考の一つの足場となるかもしれない。

「新川という写真家が、こんなことを言っていた。馬鹿げているかもしれないが、面白い見方だ。試しにこの視点から世界を見てみよう」

そう思ってもらえれば、それで十分である。

7.3 概念の開放性

微小位相差論は、完成された体系ではない。それは開かれた概念である。

他の人が、この概念を使って別の何かを考えるかもしれない。あるいは、この概念を批判し、より良い概念を作るかもしれない。

概念は、創った人間の所有物ではない。概念は、思考の共有財産である。

私は40年の写真実践を通じて、この概念に到達した。しかしこれは終点ではなく、出発点である。


結論:存在の再構築

写真とは何か。この問いに、私は次のように答える。

写真とは、微小位相差で重層的に存在する世界から、一つの位相を選択し、定着させ、提示する行為である。

この定義は、以下の含意を持つ:

  1. 時間の再定義
    時間は流れない。時間は厚みを持って共存する。
  2. 現実の複数性
    唯一の現実は存在しない。無数の位相が重なり合っている。
  3. 観察の能動性
    見ることは、選択することである。そして選択は、世界を変える。
  4. 真正性の相対化
    本物も偽物もない。あるのは、異なる位相の提示である。
  5. 行為としての写真
    写真は記録ではなく、介入である。

AI時代において、写真は「光の記録」という定義から解放される。しかしこれは写真の終わりではない。これは、写真が本来持っていた可能性の顕在化である。

写真家の仕事は、これからも続く。しかしそれは「真実を記録する」仕事ではない。それは「可能性を提示する」仕事である。そして場合によっては、「可能性を実現する」仕事である。

私の環境再生農業は、この最後の点の実践である。写真を撮ることと稲を育てることは、同じ行為の二つの側面――両方とも、微小位相差から一つの現実を選び取り、定着させる行為――である。

本論文で提示した概念が、写真史に小さな足跡を残すことを願う。それは証明された真理ではなく、提案された視点である。しかし時に、新しい視点こそが、世界を変える力を持つ。

40年の実践を通じて、私はこの視点に到達した。そして今、それを言葉にして、後世に託す。


参考文献

Adams, R., et al. (1975). New Topographics: Photographs of a Man-Altered Landscape. International Museum of Photography.

Barthes, R. (1980). La Chambre claire: Note sur la photographie. Gallimard.

Batchen, G. (1999). Burning with Desire: The Conception of Photography. MIT Press.

Bergson, H. (1896). Matière et mémoire. Félix Alcan.

Bohm, D. (1980). Wholeness and the Implicate Order. Routledge.

Deleuze, G., & Guattari, F. (1991). Qu'est-ce que la philosophie? Minuit.

Merleau-Ponty, M. (1945). Phénoménologie de la perception. Gallimard.

Merleau-Ponty, M. (1964). Le Visible et l'invisible. Gallimard.

Sontag, S. (1977). On Photography. Farrar, Straus and Giroux.

新川芳朗 (2016-2025). 有明海干潟連続撮影シリーズ. 未発表作品.

新川芳朗 (2015-2025). 環境再生農業実践記録. 私家資料.


図版リスト(最終稿にて挿入予定)

  • Fig. 1-8: 有明海干潟連続撮影シリーズ(2016-2025)
  • Fig. 9-20: Altered Landscape シリーズ(2015-2025)
  • Fig. 21-25: 環境再生農業記録(2015-2025)

謝辞

40年の写真実践を支えてくれたすべての人々に感謝する。特に、私の理論を「馬鹿げている」と一蹴せず、「面白い」と言ってくれた人々に。概念は、対話の中で育つ。


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