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青稲褒むるばかり 218話

あおいねほむるばかり 褒むるは褒めるの古語 この意味はこの地方において数千年の人の稲作歴史で培った知恵そのもの。 忘れるなかれ。  もし私が稲作の本を書くとするなら、もっとも大切な農事歴最初の章だと考えてます。    青稲褒むるばかり  むかし、よしろうという若い百姓がいた。 ある年の春、よしろうは誰よりも早く田植えを済ませた。 「早く植えれば、きっと立派な稲が育つはずだ」 夏になると、よしろうの田んぼは青々として勢いがよく、村人たちは皆、感心した。よしろうは鼻高々だった。 ところが秋になると、よしろうの田んぼに病気が広がり、ウンカの大群が襲ってきた。収穫の米は粒が小さく、品質も悪かった。 村の古老が言った。 「よしろうよ、青々として立派に見えても、それが本当に良いものとは限らん。自然には自然の時がある。それを守ってこそ、良い実りが得られるのだ」 よしろうは深く頭を下げた。 翌年から、太郎は適期に田植えをするようになり、秋には立派な米が実った。

そして老人がいなくなった

茶原にて、記憶と老いをめぐる考察 私の圃場あたりは「茶原(ちゃばる)」と呼ばれている。かつて茶畑が広がっていたのだろう。そう考えると、今ここが田んぼになっているのは、案外最近のことなのかもしれない。向かう山は「山原(やんばる)」という。昔から、米は茶原より山原がうまいという言い伝えがある。だがその山原も、二年前に田んぼは解散し、消滅した。 記憶を辿れば、茶原の丘――かつて門出保育園があった場所――は、確かに茶畑だった。子供の頃、寺の大典先生がそう話してくれた。その土地は寺の所有だったが、尋常小学校ができるということで、無料で寄贈したのだという。そうした話は、今では誰も語らない。語る人がいなくなったのではない。聞く人がいなくなったのだ。 現代において、老人は隔離されている。私は強くそう思う。彼らの話を聞く機会が、日常から消えてしまった。かつて何気なく耳にした住職の話、土地の由来、暮らしの知恵――そうした伝承は、今や閉ざされている。 問題の核心は、施設の是非でも、家の事情でもない。なぜ現代人は、助けを必要とするまでに老化するのか。昔は寿命が短かったかもしれないが、それは総体的な話であり、元気な方は九十を過ぎても矍鑠としていた。彼らは若者を叱り、若者に知恵を授けた。老いは、社会の中で役割を持ち続ける時間だった。 今、老いは「終わり」へと向かうだけの時間になってしまったのだろうか。 老人がいなくなったのではない。彼らの声が、社会の耳から消えたのだ。 これはどういう現象なのか。疑い、案を講じること――それも、私の仕事かもしれないと今日考えていた。

大名の如く 212話

お爺さんが転ばれる。お爺さん大丈夫ですか。ああ大丈夫たい。ちょっと足を捏ねたっだろ。どぎゃんしました新川さん。かくかくしかじか。。そうですか。お聞きしたいんですが、お爺さんが子供の頃の新川はどんな生活してました?あー新川さんは隣りは庄屋さんばってん新川さんは大名のごて暮らしとらしたばい。アハハ。大名ですか。それはなんとも。そうですか。もう大丈夫ですか。ではお元気で。 よーよー大名てなんやねん。となりが庄屋でうちが大名?よう分からんが、、まあ気配はわかるわ。家は代々農家とちがう。家には太刀  小太刀 脇差 ほんで白い鞘の太刀がもう一本あったと父は言うた。室町時代建立の梵字六地蔵はこの地、争いに明け暮れ荒廃した頃、此処たどり着いた初代の新川と何人かの衆が寄りよって荒れ暮れる世を鎮めるために建立したと記されてる。嗚呼、、回想して思うわ。そうどすか。お爺はん。元気なうちに聞けて良かったどすえ。ぼく様のこれからの仕事が見えてきましたわ。おおきに。

雷神現る 大正女子不二子の説法譚 211話

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 風神雷神図(俵屋宗達)寛永年間(1624年~1645年)   障子のうちに青くひらめきしは、雷神の影にて候。おそろしや、おそろしや。やがて空裂けるごとき響きとともに、どどーんと轟音天地を揺がし、地鳴り地響き四方にとどろく。しばし経て、烈風吹き荒び、大雨しきりに注ぎ、田の水路は忽ち氾濫を致す。 その後やうやく稲刈りの折となれど、たわわに実りし稲は倒伏し、雨脚のため刈り取りは延引す。百姓ら「嗚呼、もしや水口を早く閉じ置かば……」と口惜しみ嘆けども、悔恨すでに後の祭りなり。 されば秋の嵐はいづれ来たるや、人智の及ばぬ天の御業と申すべきか。