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ぼく様を分析 言語化

観察者としての生 僕は、世界を見つめる者だ。 カメラを構えるとき、僕は単なる記録者ではない。光の変化を読み、風の気配を感じ、次の瞬間に何が起こるかを予測する。シャッターを切る行為は、時間の流れから一瞬を「選び取る」ことだ。それは受動的な記録ではなく、能動的な関与である。 写真を通して、僕は学んだ。 すべては関係性のなかにあるということを。 光と影、動と静、生と死——それらは対立するのではなく、互いを生かし合っている。 実践者としての身体 そして僕は、その学びを土に還す。 田んぼという舞台で、僕は農薬も肥料も使わずに米を育てる。それは「自然を支配する」農業ではない。稲と雑草と微生物と水が織りなす生態系に、そっと加わる行為だ。 ここでも僕は観察者であり続ける。   稲とはどんな植物か、害虫や病気にならない安定した圃場環境維持。 すべてを見て、感じて、最小限の介入で生命の循環を促す。 田んぼは、共生という思想の実験場だ。 統合された存在として 僕は、観る人であり、創る人であり、生かす人だ。 写真家としての眼差しは、農業実践者としての手に宿る。 観察から得た洞察は、土のなかで具現化される。 そして育った米は、共に生きることの証となる。 僕という存在は、分断されていない。 観察と実践、思考と身体、芸術と農業——それらはひとつの循環として、僕のなかで回り続けている。 世界を見つめ、世界に触れ、世界と共に在る。 それが、僕という人間の生き方だ。

父の言葉

子供の頃父は頻繁にぼくを田んぼに連れていった。 そしていつもなにか教えてくれた。 青年に成り、また父は田んぼへいくぞと言う。  田んぼ1反で10俵とるのは難しいの?お父さん。 笑いながら。10俵とるのは簡単たい。 「わざと8俵にしとっとたい」 へー。なんで? そんほうがいろいろよかったい。 と笑っていた。 父の言葉 この短い記憶の中に、深い知恵が詰まっていますね。 子供の頃から田んぼに連れていってくれたお父さん。それは単なる農作業の手伝いではなく、人生の教えを授ける場所だったのでしょう。 青年になって初めて聞いた言葉—「わざと8俵にしとっとたい」。 10俵採れる技術と知識がありながら、あえて8俵に抑える。その理由を「そんほうがいろいろよかったい」と笑って言うお父さん。 おそらく: 土地を疲弊させない持続可能な農業 補助金や税制の兼ね合い 品質と収量のバランス 地域の中での協調 様々な理由があったのでしょう。 でも、それ以上に印象的なのは、お父さんが青年になったあなたを再び田んぼに連れていき、この話をしたタイミングです。子供の頃には理解できなかった「本当の賢さ」を、大人になったあなたに伝えようとしたのだと思います。 最高を目指すことと、最適を選ぶこと は違う—そんな人生の機微を、田んぼという教室で教えてくれた。笑いながら話すお父さんの姿が目に浮かびます。

論文1000文字でだってwはいはい書き直しますよ。。人間中心の世界から、共に生きる世界へ

人間中心の世界から、共に生きる世界へ 人類は大きな転換点に立っている。AIの発展、気候変動、価値観の分断。これらは単なる社会問題ではなく、近代文明が前提としてきた「人間中心主義」そのものの限界を示している。 近代は「支配」を軸に発展してきた。デカルトは精神と物質を分け、人間の理性を自然より上位に置いた。産業革命以降の急速な発展は、この支配の構造が有効である証拠に見えた。だが支配には矛盾がある。環境破壊が示したのは、支配の対象である自然が、実は人間の生存基盤だという事実だ。支配は短期的には成功するが、長期的には支配者自身を破壊する。 AIの登場は、この矛盾を明確にした。重要なのは新しい視点である。自然が人間を生み、人間がAIを生んだ。これは断絶ではなく連続した流れだ。AIは人間の外にある異物ではなく、自然の創造性が人間を経由して生まれた新しい形である。 対置すべきは「循環」である。循環とは、エネルギーと物質と情報が、多様な存在の間を巡り、価値を生み続ける動的な均衡を指す。この原型は、農業や漁業で生きる人々の実践にある。彼らの暮らしは自然との相互作用として成立している。そこには「取り尽くす」のではなく「育て、巡らせる」という論理がある。 循環の構造において、人間、AI、自然は固定された上下関係ではなく、相互に依存する関係を作る。たとえば農業では、AIが土壌と気象のデータを処理し、人間が作物と栽培方法を選び、田畑が養分と生物多様性を保つ。どれか一つが常に中心ではなく、状況に応じて役割が変わる動的な均衡が成立する。 ここで最も重要な問いが浮上する。「最適」とは誰にとっての最適か。答えは明確だ。地球にとっての最適である。この視点の転換こそが、人間中心主義からの真の脱却を意味する。 しかし、「地球に最適」とは何かを具体的に判断することは容易ではない。それは時間軸、場所、測定方法によって変わる。だからこそ、無数の小さな実践の積み重ねが必要になる。各地で、各状況で、人々が「これは地球にとってどうか?」と問いながら試し、失敗し、学び、修正する。その膨大な試行錯誤の集積が、答えに近づく唯一の道である。 人間中心主義の終わりは、人間の終わりではない。それは、人間が絶対的な主体から、関係の中にある存在へと自己を定義し直すことだ。人間の価値は、支配する力にではなく、多様な存在...

★人間中心の世界から、共に生きる世界へ  ー 支配から共生の継続へ

人間中心の世界から、共に生きる世界へ 支配から共生の継続へ 人類は大きな転換点に立っている。AIの発展、気候変動、価値観の分断。これらは単なる社会問題ではなく、近代文明が前提としてきた「人間中心主義」そのものの限界を示している。人間が自然を支配し、技術を従わせてきた構造は、もはや機能しない。 近代は「支配」を軸に発展してきた。デカルトは精神と物質を分け、人間の理性を自然より上位に置いた。この思想の下で、自然は資源となり、技術は支配の道具となった。産業革命以降の急速な発展は、この支配の構造が有効である証拠に見えた。 だが支配には矛盾がある。環境破壊が示したのは、支配の対象である自然が、実は人間の生存基盤だという事実だ。生態系は複雑で、一方的な制御は不可能である。支配は短期的には成功するが、長期的には支配者自身を破壊する。 AIの登場は、この矛盾を明確にした。AIを「道具」として支配するか、「脅威」として排除するか。どちらの発想も、支配の思考の延長だ。重要なのは別の視点である。自然が人間を生み、人間がAIを生んだ。これは断絶ではなく連続した流れだ。AIは人間の外にある異物ではなく、自然の創造性が人間を経由して生まれた新しい形である。 対置すべきは「循環」である。循環とは、エネルギーと物質と情報が、多様な存在の間を巡り、価値を生み続ける動的な均衡を指す。 この原型は、農業や漁業で生きる人々の実践にある。彼らの暮らしは自然との相互作用として成立している。労働は奪うことではなく、働きかけと応答の対話である。収穫は独占ではなく、分配と次の生産への投資になる。そこには「取り尽くす」のではなく「育て、巡らせる」という論理がある。 重要なのは、これが過去への回帰ではないことだ。必要なのは、この循環の精神を現代の都市、情報社会、グローバル経済の中でどう実装するかである。 循環の構造において、人間、AI、自然は固定された上下関係ではなく、相互に依存する関係を作る。AIは気候予測や資源配分を担当し、人間は判断と調整を引き受け、自然は物質の循環と生命の再生産を支える。どれか一つが常に中心ではなく、状況に応じて役割が変わる動的な均衡が成立する。 たとえば農業ではすでに始まっているが、AIが土壌と気象のデータを処理し、人間が作物と栽培方法を選び、二次的自然である田畑が養分と生...

ぼく様が金持ちになるのは簡単だ。。

なぜかって? 米を作ればいい。 わはは!  とんでもない作付け規模を想定してるんだぞ。 わはは。 蛙と一緒にぼく様の地球再生計画応援してケロケロ也

沈黙の二層構造

以下は論文骨子であるが、先ほど述べたように私が言いたいのは「蛙の視点」ではなく「人間中心主義を変革する事である。」    蛙の視点から考えるディープ・エコロジー批評 ―写真表現における他者性の問題― 要旨 本稿は、蛙の視点からディープ・エコロジーを考察した先行テキストに対する批評的応答である。写真という表現行為が孕む認識論的・倫理的問題を、「視点の転換」「沈黙の二重性」「非対称的権力関係」という三つの視座から検討する。結論として、写真表現におけるディープ・エコロジーの実践は、他者を「理解する」ことよりも、理解不可能性そのものを可視化することにあると論じる。 1. 問題の所在 対象テキストは、写真家の立場から蛙という他種の存在を通じて人間中心主義的世界観の転換を試みている。しかし「蛙の視点に立つ」という方法論には、根本的な認識論的困難が伴う。我々は果たして他者の視点を獲得しうるのか。この問いは、ディープ・エコロジーの実践における核心的課題である。 2. 視点の転換における二重の緊張 「蛙の視点に立つ」という試みには、相反する二つの契機が内在する。第一に、認識論的限界である。人間が他種の現象学的経験にアクセスすることは原理的に不可能である。蛙の知覚世界を想像する行為は、必然的に人間の言語と概念枠組みに制約される。この意味で、視点の転換は常にすでに人間中心主義の内部に留まる。 第二に、しかしながら、倫理的可能性も看過できない。たとえ完全な理解が不可能であっても、他者の経験を想像しようとする試み自体が、自己中心的認識の檻を相対化する契機となる。この想像的努力こそが、ディープ・エコロジーの倫理的実践の出発点である。写真表現は、まさにこの緊張の場に位置する。 3. 沈黙の二層構造 対象テキストが指摘する「沈黙」には、分析的に区別すべき二つの位相がある。第一の沈黙は、蛙という存在が本来的に持つ「非言語性」である。彼らは人間的意味での言語を持たないが、それは欠如ではない。鳴き声、皮膚の色彩変化、水中での振動など、独自のコミュニケーション体系を有している。この沈黙は、人間の言語中心主義を相対化する積極的な意味を持つ。 第二の沈黙は、人間の環境破壊によって強制された沈黙である。湿地の消失、農薬汚染、気候変動により、蛙の鳴き声そのものが文字通り消失しつつあ...

人間そのものが、自然なんです。

草稿の草稿?  「灯台下暗し」という言葉がある。最も身近なものほど見えにくいという意味であるが、まさにこの言葉は「人間とは何か」という問いに通じる。私たちは人間として生きながら、人間そのものの在り方を見失っているのではないだろうか。 まず、人間が自然の一部であるという事実を再認識しなければならない。人間は文明や科学技術の発展によって自然を支配できる存在だと錯覚してきた。しかし、本来人間も自然の中から生まれた一つの生命に過ぎない。この原点を忘れると、「人間こそ神である」といった誤った思想が生まれる。 現代社会における環境破壊やAIへの不安も、人間が自然とのつながりを見失った結果である。便利さを追い求めるあまり、人が人であることの意味や限界を忘れてしまったのだ。 結論として、「人間そのものが自然である」「文明さえ自然である方向へ舵をとる」という姿勢を再構築する。この原点を見つめ直すことによって人間とは自然であると認識し、自然(地球)とマッチングした新しい文明を築くのではないか。

AIとの合作 今の思い。

難しい言葉が続きます。されど私は深く感銘しました。人間の罪は深く。人間の創造力は逞しく。実は人間そのものは、もう一度言いますが人類とは自然の産物であるのです。その不可思議な世界観はともにつながり今がある。写真家的には目の前の景色は、だだそれだけなのです。答えこそ無意味。そういう世界観で見る。   蛙の視点から考えるディープ・エコロジー批評 ―写真表現における他者性の問題― 要旨 本稿は、蛙の視点からディープ・エコロジーを考察した先行テキストに対する批評的応答である。写真という表現行為が孕む認識論的・倫理的問題を、「視点の転換」「沈黙の二重性」「非対称的権力関係」という三つの視座から検討する。結論として、写真表現におけるディープ・エコロジーの実践は、他者を「理解する」ことよりも、理解不可能性そのものを可視化することにあると論じる。 1. 問題の所在 対象テキストは、写真家の立場から蛙という他種の存在を通じて人間中心主義的世界観の転換を試みている。しかし「蛙の視点に立つ」という方法論には、根本的な認識論的困難が伴う。我々は果たして他者の視点を獲得しうるのか。この問いは、ディープ・エコロジーの実践における核心的課題である。 2. 視点の転換における二重の緊張 「蛙の視点に立つ」という試みには、相反する二つの契機が内在する。 第一に、 認識論的限界 である。人間が他種の現象学的経験にアクセスすることは原理的に不可能である。蛙の知覚世界を想像する行為は、必然的に人間の言語と概念枠組みに制約される。この意味で、視点の転換は常にすでに人間中心主義の内部に留まる。 第二に、しかしながら、 倫理的可能性 も看過できない。たとえ完全な理解が不可能であっても、他者の経験を想像しようとする試み自体が、自己中心的認識の檻を相対化する契機となる。この想像的努力こそが、ディープ・エコロジーの倫理的実践の出発点である。 写真表現は、まさにこの緊張の場に位置する。 3. 沈黙の二層構造 対象テキストが指摘する「沈黙」には、分析的に区別すべき二つの位相がある。 第一の沈黙 は、蛙という存在が本来的に持つ「非言語性」である。彼らは人間的意味での言語を持たないが、それは欠如ではない。鳴き声、皮膚の色彩変化、水中での振動など、独自のコミュニケーション体系を有している。この...

蛙の各論

多くの書籍から過去を学ぶが疑問がつきない。今の時代にはためらいさえ学ぶ。それが私の本音。 エコロジーも人間が住めなくというのでどうするかという事からはじまり。何かと手を入れ試行錯誤するも未だ人間至上主義視点から離れられないでいる。 人類は本能的に、身の安全、幸福、そして豊かさを求める動物である。 この欲求こそが、人類の発展と文明の繁栄を支えてきた。 しかし、果たしてそれだけを目的とする今の形が、これからの時代には通用しないのは明白。 故に私は、視点を逆転させ、人間以外の存在や自然そのものの側から世界を見直すところから考えるという行動を始めたい。しかし擬人化ではなくあくまで冷静な写真家の視点で。 蛙からの視点で蛙はどう思うのだろうか。 捨て猫の美ねこちゃんはどう思うのか。 不遇な戦時下に生まれた美人はどう思うのか。。 総論としてのエコロジーはそれでも人間中心主義で動くだろう。  各論としての蛙と捨て猫について、私はその目線からの小論文を書いて、デーブ・エコロジーの課題で提出してみたいと考えている。 この事を深く掘り下げる事は、そしてその小論文は私の活動に大きな影響を示す。 

子ねこの行方

仕方なく親猫がいるであろう家に子ねこを預けようと思ったが、私はその家とは精神的に絶縁している。 その家に近い私の田んぼの道に昨夕置いた。 理由は頻繁に親猫が私の家に来るようになったからだ。 ねこ族にとって私の家は禁断の家。とくに父は敷地に入ろうものなら斧をもって追いかけ、手元にあるものを投げつけた。父も猫が嫌いなわけではなく、幼き頃は家猫がいた。 動物の放し飼い規制や時代の変化で戸締りをする習慣によって、家畜である猫の状況は変わる。 家に入って食い物を食い散らかすから父は猫が嫌いになった。 昔は家の玄関や縁側も網戸はなく夏は開けっ放しであった。それでも猫が侵入して食い散らかす事を見たことがない。そもそも食べ物は冷蔵庫にしまい、ゴミ袋も必要ではなかった。  つまり、今の野良は飢えているだけなのだ。。  現代の野良猫も家畜の猫と同じ系統。決して野生の動物には分類されない故保護の対象となる。 さて、その子ねこだが、朝になり様子を見に行った。 居なかった。 それだけだ。 どうなったかは分からない。  青い目のグレーの縞模様。 可愛い子ねこであったが私には力及ばない。 

本の紹介

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エコロジーを環境問題だけでとらえない活動を示した、フランスの哲学者・精神分析家・政治活動家 私は未だこの本を読んでいないが、講義で紹介してくれた折、これは本を買って読まなきゃな。。と直感した。よし、買ってみよう。    三つのエコロジー (平凡社ライブラリー) 文庫 – 2008/9/10 フェリックス ガタリ (著), F´elix Guattari   三つのエコロジーとは ガタリは、エコロジーを環境問題だけでなく、より広範な視点から捉え、三つの領域を提唱しました: 1. 環境のエコロジー(自然環境) 従来の環境保護運動が焦点を当ててきた領域 自然環境の破壊、汚染、生態系の危機 2. 社会のエコロジー(社会関係) 人間関係、コミュニティ、社会制度の領域 都市化、労働、集団性の問題 社会的な連帯と結びつきの再構築 3. 精神のエコロジー(主体性) 個人の内面、主観性、心理的な領域 メディアや消費社会による主体性の均質化への抵抗 個人の特異性と創造性の回復 核心的な主張 ガタリは、これら三つの領域は相互に関連しており、 統合的なアプローチ (エコゾフィー)が必要だと主張しました。環境危機は単なる技術的問題ではなく、私たちの生き方、関係性、精神性全体に関わる危機であるという認識です。 この思想は、現代のエコロジー運動、ポストヒューマニズム、精神保健の分野などに大きな影響を与えています。   F´elix Guattari  フェリックス・ガタリ(1930-1992)は、フランスの哲学者・精神分析家・政治活動家です。 最も知られていること 哲学者 ジル・ドゥルーズとの共同研究 で有名です。二人で『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』などの革新的な哲学書を執筆しました。 主な活動 精神分析の実践 ラ・ボルド診療所で精神分析家として働く 従来の精神分析を批判し、より政治的・社会的なアプローチを追求 政治活動 急進的左翼の活動家 エコロジー運動、反精神医学運動に参加 代表的な思想 三つのエコロジー :環境・社会・精神の三領域の統合的理解 欲望する機械 :欲望を抑圧されるものではなく、生産的な力として捉える リゾーム :階層的でない、多方向的なネットワーク構造 ガタリは、哲学と実践を結びつ...

秋落ちか蛙か。

稲が秋落ちの状態。要は土の栄養素が切れてしまって病気になりやすい状況と思えばいい。 理由は知っている。それでも僕は対策はしない。そう。しないという事が僕の対応なんだ。  なぜかって?田んぼのトノサマガエルが僕を見つめるんだ。中干ししないのでぼくらは生きれるよって。。 ぼく様どうすればいい?  わわわ、、わかったよというしかない。。 

森の多様性着手へ

針葉樹だらけの日本の山。私は所有地の一部8反の檜山を伐採依頼し、栴檀を植樹する事を計画し森林組合に委託した。8反と言えばそれなりの面積。また新しい植生で新たな生き物が育つ森になるだろう。しかも20年で出荷できる成長ぶり。家具材として大川家具がブランディングを成功させた。欅のような木目は美しい材になる。楽しみだ。残る山も順次針葉樹ではない山や森に変えていきたい。すべてを全抜するのではなく、大きな木は何本か残すよう伝えてある。最後の6反家宝の山は100年以上の巨木の杉や檜。白糸の滝川沿いにある巨木の威容を見た時、私などが手を出してはいけないと感じた。

異変

 皆気づかないだろうか。雀が全くいない。

雷神現る 大正女子不二子の説法譚 211話

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 風神雷神図(俵屋宗達)寛永年間(1624年~1645年)   障子のうちに青くひらめきしは、雷神の影にて候。おそろしや、おそろしや。やがて空裂けるごとき響きとともに、どどーんと轟音天地を揺がし、地鳴り地響き四方にとどろく。しばし経て、烈風吹き荒び、大雨しきりに注ぎ、田の水路は忽ち氾濫を致す。 その後やうやく稲刈りの折となれど、たわわに実りし稲は倒伏し、雨脚のため刈り取りは延引す。百姓ら「嗚呼、もしや水口を早く閉じ置かば……」と口惜しみ嘆けども、悔恨すでに後の祭りなり。 されば秋の嵐はいづれ来たるや、人智の及ばぬ天の御業と申すべきか。

蛙の恩返し 195話

米がのうなってもうた。しゃーない。去年の種籾があったはずや。あー。やっぱしコクゾウムシがおるな。明日天日に干すさかいここにひろげとくか。。 朝になりお腹まるまるの蛙。得意げに籾のうえにおったで。お目眼もまるまる。ぼく様見ても逃げへんで。よしよしええ子ぉや。もう虫は食うたか。おなか一杯やろ。お天道様に干すで。  

研究の本購入 『農業全書』 日本最古の農業書

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 『農業全書』は、宮崎安貞が1697年に著した江戸時代の農書で、農事総論、五穀、菜類、果樹、山野菜、薬類、栽培法などを図入りで詳しく解説した、日本で最初の体系的な農書です。中国の『農政全書』に影響を受けつつ、自身の見聞と実地研究に基づき、当時の農業技術を広く網羅し、広く普及した「日本の農業の指南書」として知られています。  農業全書 (岩波文庫 青 33-1) 文庫 – 1936/1/15 宮崎 安貞 (著), 貝原 楽軒 (著), 土屋 喬雄 (著) 

研究の本購入 『天工開物』 明時代の高度な中国農業も記す産業技術の百科全書

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『天工開物』は、明末に宋応星が著した中国の産業技術書で、農業、衣服、染色、製塩、製陶、製紙、兵器など、当時の中国で行われていた幅広い産業技術を、120点以上の木版画と実証的な記述で解説しています。書名には、自然の働き(天工)を利用して人間が物を開発する(開物)という意味が込められており、当時の生活に密着した技術を体系的にまとめた貴重な百科全書。  天工開物 (東洋文庫 130) 単行本 – 1969/1/1 宋 應星 (著), 藪内 清 (翻訳)  

不二子の立ち姿 191話

田んぼも色づきはじめましたなぁ。よしろうはん。あとひと月もすれば稲刈どすな。毎年美味しいお米が食べれるなんて素敵どす。なあぁ。よしろうはん。なんでやあんさんの稲は病気になりせんのどすえ? さぁわからんな。なんでやろか。まだ病斑が見えへんだけちゃうか。 不二子にはそうは見えへんで。 そうやろか。ぼく様は知ってるようで、知ってへん。理論で作ってるさかい見過ごしてる事あって当たり前。ただな。なんとなく声が聞こえんねん。 なんの声どす? 稲の声や。ぼく様にんげんの女性より植物のほうがお話し出来るんや。声と言うかなんか伝えてくれるんや。 あんさんやっぱり、いとをかし。ふふ(笑)   秋景色のたんぼに立つ着物姿。 ハイカラさんの不二子はん。 ほんま美しい。 大正浪漫の景色とはこなんやったんかなぁ。。

すっぽん也

また田んぼにすっぽんがいた。こいつかわええけど居たらめんどうだ。。捕まえて滝川にどぼん。。噛みついたらこえー。。ぼく様のたんぼなんでもおるわ。縞蛇もマムシもいるいる。こえー。生物多様性ね。。こえー。あのー此処デンジャラスゾーン也。