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曼殊沙華は、なぜ日本にあるのか Why Does Manjushage Exist in Japan?

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My Nepalese friend told me that it can be found everywhere in their country, while my friend from Myanmar said they had never seen it. From these differences, I began to speculate that its presence in Japan may have some connection to Buddhism and its transmission from Nepal. ネパールの友人は「母国ではどこにでもある」と言い、ミャンマーの友人は「見たことがない」と言いました。そこから、私は日本におけるその存在が、仏教とネパールからの伝来に何らかの関係があるのではないかと推測しました。 曼殊沙華は、なぜ日本にあるのか Why Does Manjushage Exist in Japan? 秋になると、田んぼの畦や墓地の周辺に突然、赤い花が現れる。曼殊沙華(まんじゅしゃげ)。一般には彼岸花と呼ばれる花である。 Every autumn, red flowers suddenly appear along rice fields and around cemeteries. They are called Manjushage in Japan, more commonly known as Higanbana , the red spider lily. ふと気になった。 I began to wonder about this flower. ネパールにはヒガンバナがある。しかし、ミャンマーには、少なくとも現在のところ、ヒガンバナ( Lycoris radiata )の確かな自生分布は確認しにくい。一方、日本には広く存在している。 The red spider lily ( Lycoris radiata ) is found in Nepal. Yet, at least according to currently available records, there is no clear evidence of the same species occurring naturally in ...

らーめんららめん。ぼく様流。。

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  カップ麺ではない、日本製のインスタント麺の作り方。 実は、最初から水の状態で麺を入れるんですよ(笑)

微小であることと、存在しないことは違う

微小であることと、存在しないことは違う 写真家にとって、シャッター速度は時間を切り取るための基本的な道具だ。 現在の市販デジタルカメラでも、非常に高速なシャッター速度が使われている。 しかし、科学の世界まで目を向けると、時間の尺度はさらに極端になる。超高速撮影では、 フェムト秒(10⁻¹⁵秒)級 の時間を扱うことさえできる。 1フェムト秒は、1秒の1000兆分の1だ。 もちろん、これは通常の写真撮影とは異なる科学的な撮影技術である。しかし、写真がどこまで小さな時間を切り取ることができるのかを考える上では、とても興味深い。 僕たちは普段、このような時間差を体感することはできない。 しかし、体感できないことと、存在しないことは同じではない。 例えば光は、1メートル進むのに約3.3ナノ秒を必要とする。 僕たちにはまったく感じられない時間だ。 それでも、光が1メートルを移動するには、確実にその時間を必要とする。 物理学では、目的によっては、このような極めて小さな差を近似によって無視することがある。 しかし、それは差そのものが存在しないという意味ではない。 微小であることと、存在しないことは違う。 僕は写真家として、この違いを重要だと考えている。 写真とは、そもそも光を記録するものだからだ。 光が有限の速度で進む以上、異なる場所から届く光には、それぞれ異なる時間がある。 通常の写真では、それを意識することも、直接見ることもできない。 だからといって、その差を最初から「無視できるもの」として扱う必要があるのだろうか。 僕は、違うものは違うと考えている。 もちろん、ここで一般相対性理論や光の有限速度を使って、僕の「微小位相差論」を物理学的に証明しようとしているわけではない。 物理学が示しているのは、時間には実際に微小な差が生じうるということだ。 僕が考えている「微小位相差」は、それをそのまま物理学の概念として扱うものではない。 問題は、そこから先にある。 物理的には存在する微小な差を、写真はいかにして知覚可能なものにできるのか。 一枚の写真の中では、その差が見えないこともある。 しかし、二枚の写真を並べ、その間にわずかな「間」をつくることで、それまで見えなかった差が、観者の知覚の中に立ち上がることがある。 僕にとって双構図は、そのための一つの方法である。 差そのものを直接写すので...

高さが違えば、時間も違う――「現在」は本当に一つなのか Different Heights, Different Times — Is There Really Only One Present?

  高さが違えば、時間も違う――「現在」は本当に一つなのか Different Heights, Different Times — Is There Really Only One Present? 私たちは普段、時間は誰にとっても同じように流れていると思っている。 We normally think that time flows in the same way for everyone. しかし、実際にはそうではない。 But in reality, that is not the case. アインシュタインの一般相対性理論によれば、高さの違いによって時間の進み方はわずかに変わる。地球の中心から遠い、高い場所ほど重力の影響が弱くなり、時計はほんの少し速く進む。 According to Einstein’s general theory of relativity, the passage of time changes slightly depending on height. At higher places, farther from the center of the Earth, the influence of gravity is weaker, and clocks run slightly faster. 例えば、地上0 mに住む人と、地上100 mに住む人を考えてみる。 For example, consider a person living at 0 m above sea level and another person living at 100 m. 100年間で、その差は約0.03秒になる。 Over 100 years, the difference would be about 0.03 seconds. たった0.03秒。 Only 0.03 seconds. 日常生活では、とても感じることのできない差だ。 In everyday life, this is a difference that we could never feel. しかし、これは理論上の想像ではなく、実際に存在する時間の差である。 However, this is not merely a theoretical imagination. I...

微小位相差論の基礎的考え方

  時間の微小な差異と「現在」の複数性 Micro-Phase Differences in Time and the Plurality of the Present 日本語 高度の異なる場所では、時間の進み方がわずかに異なる。これは一般相対性理論が示す、重力による時間の遅れという物理的事実である。地表から高い場所ほど重力ポテンシャルが高く、時計はより低い場所にある時計よりもわずかに速く進む。高層マンションの上階で過ごした時間の分だけ、その人の固有時間は地上で過ごした人よりもわずかに先行し、その後同じ場所に戻ったとしても、すでに積算された差は消えない。 この物理的事実がまず示しているのは、時間が宇宙のどこでも均質に流れる単一の軸ではないということである。ここでの目的は、この物理学的事実そのものを論じることではない。この事実を手がかりとして、時間を単一の軸として捉える日常的な感覚そのものを問い直すことにある。 物理学が示す時間差は、人間の知覚が捉えられる規模をはるかに下回る。したがって、ここで本論が論じようとする「現在の複数性」は、物理学的な時間差そのものではない。物理学はあくまで、時間が均質な単一の実体ではないという発想への入り口として位置づけられる。本論の対象は、知覚と経験のレベルで生じている複数性である。 人間にとっての「現在」は、時計が指し示す時刻とは別の層で構成されている。それは過去の記憶、身体の状態、経験、知覚、そして対象との関係によって成り立っている。同じ対象を同じ場所で見ていたとしても、それぞれの人間が積み重ねてきた記憶と経験は異なるため、そこに現れる「現在」もまた完全には一致しない。 ここに「微小位相差」という考え方を置く。「現在」を一つの点として捉えるのではなく、複数の人間、複数の経験の中に、それぞれわずかに異なる現在が存在すると考える。過去・現在・未来は完全に分離された三つの領域ではなく、微小な差異を伴いながら重なり合っている。 これは「一人は過去を見て、もう一人は未来を見ている」という単純な意味ではない。誰もが「現在」にいながら、その現在そのものが人によって完全には同一ではない、という考えである。 写真を見るという行為は、この微小位相差が最も明確に現れる場面である。鑑賞者は同じ画像を見ながら、同一の現在を経験しているとは限らない。写真...

お米の販売価格について

お米の販売価格について 今年より、新たな販売ルートを確保することとなり、販売価格を改定させていただくことになりました。 一般のお客様への販売価格は、以下の通りです。 つきあかり 5kg 5,000円 30kg 30,000円 にこまる 5kg 3,000円 30kg 18,000円 なお、直販以外の店頭での販売価格につきましては、店舗によって異なりますが、上記価格のおおむね2割増し程度を予定しております。 私は、「無農薬だから価格が高くなる」という考え方は、あまり好ましく思っておりません。 ただ、今年はトラクターの故障により、作業の一部を委託するなど、例年にはなかった費用が発生しました。そうした諸経費を含め、今後も無理なく生産を続けていくために、今回の価格設定とさせていただきました。 事情をご理解いただけましたら、ぜひご注文いただければ幸いです。 なお、 昨年までから継続してご購入いただいているお客様につきましては、これまでと同じ価格で据え置きたいと考えております。 尚つきあかりの新品種は収穫量が低いため1kg1000円と致します。 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

AI

なぜAIを敵視するのかわからないな。 相手は機械。 その人しだい。 便利だし。 見極める必要はかなりあるけど。 ±プラスだ。 

ほんとうに

話す相手すらいないここを出ようと思う。 世の中はもっと広いのに。 

日々の食材つくり

茄子の柴漬け、茄子ときゅうりの味噌漬け、乾燥バジル、バジルペーストフレッシュ冷凍保存、アレンジバジルペーストフレッシュ冷凍保存などなど。 友人が言うには僕の料理はパワーが違うという。 それは当然そうかもしれない。殆んどが自家製か無農薬の野菜やオーガニックの食材だからだ。 素材の力が違うから出来上がりも違う。 今日は大豆を今煮ている。 普通にイタリア産のサンマルツァーノトマト缶。鶏の手羽の肉と出汁で作るスープ。 仕上げは先ほどのバジルペーストと田んぼのミントを使う。  ああそうだった。きょうはうまいキャベツをブロックカットで入れてしまえ! 

バイオメタン、触媒、そして二酸化炭素

昨夜、バーで友人と酒を飲んでいた。 向かいには博士がいて、エンジニアがいて、教授がいて、そして何人かの、いわゆるエリートたちがいた。 酒が進むにつれて、話はいつの間にかバイオメタンへ移っていった。 有機物から生まれたメタンをどう利用するか。 触媒をどう使うか。 メタンを炭素と水素の世界へ分解し、さらに二酸化炭素をどう扱うか。 酔っているのに、頭の中だけは妙に明晰だった。 メタンは CH₄ 二酸化炭素は CO₂ どちらも炭素を含んでいる。 けれど、その炭素の置かれている状態はまったく違う。 メタンは、まだ大きなエネルギーを抱えている。 一方、二酸化炭素は燃焼の果てにある、いわば炭素の終着点だ。 その二つを眺めながら、ふと思った。 もしかすると、問題は「二酸化炭素をどう減らすか」だけではないのではないか。 炭素を追い出すのではなく、 炭素をもう一度、別の物質の中へ戻してやる。 メタンから水素を取り出し、炭素を分離する。 二酸化炭素もまた、ただ捨てるのではなく、別の反応系へ戻す。 触媒とは、不思議な存在だ。 自分自身は大きく変化しないまま、分子の進む道を変えてしまう。 人間が力ずくで物質を変えるのではなく、 分子が本来持っている可能性の中から、別の道を選ばせる。 そんなことを考えていた。 酒の酔いが、身体から少しずつ抜けていく。 その感覚が、昨夜はとても気持ちよかった。 頭の中にあったものが、ゆっくりと整理されていく。 バーの照明。 グラスの中の酒。 博士の話。 エンジニアの現実的な視点。 教授の言葉。 そして、触媒という小さな存在。 科学の話をしているはずなのに、いつの間にか、それは炭素の旅の話になっていた。 植物が二酸化炭素を取り込み、 生物がそれを有機物へ変え、 発酵によってメタンになり、 人間がそれを燃料として使う。 そして燃焼すれば、また二酸化炭素になる。 炭素は消えていない。 姿を変えながら、循環している。 昨夜の酔いの中で、私はその循環を妙に美しいものとして感じていた。 科学は、ときどき文学よりも詩的だ。 そして、彼らの日常会話はなんて素敵なんだろうか。。 分子一つの動きの中に、 地球の歴史と、生物の時間と、人間の欲望が重なっている。 そんなことを考えながら飲む酒は、 酔いが醒めていく瞬間さえ、気持ちよかった。 昨夜の記憶をここに留めておく。 

鈴虫とコクマルガラス

早朝に街でタバコを吹かす。 小さな街の雑音。 でも気配は既に成熟している街の感触。 辛島公園近くの石のベンチ 。 なんだか鈴虫が眠たそうに鳴いていた。 ラフカディオ・ハーンを思い出す。 こんな小さなスペースに、鈴虫は居た。 音を聞き位置を測定すると、少なくともすぐ近くに2匹は鳴いている。 長い単音の1匹 、2回連続の1匹。 交互に会話するかのように鳴く。 そこへコクマルガラスが不安定に飛んできた。 片足が動いていない。 いつものように僕はカラス語を喋る。 カーと1回、カラスはキョロキョロ見回す。 これは僕的な観測では「ここだよ」 という意味。 次に、カーカーカーと3回 。 カラスは必ず逃げる。 これも僕の解釈だが「危険だよ」 の意味。 さあ。本当は知らないけど、 まあこれでもカラスの生態研究は高校生の頃から始めた。 統計では、正解です(笑)  早朝の街の気配も悪くない。     

無施肥について 確かめるべき可能性

近年の米の品種には多収米が多く、それ故、適切な施肥があってはじめて、その収量を発揮できる。 これは逆に言えば、無施肥では収量が低くなるということであり、これまでの栽培経験からも、それを実感している。 一方、古代米に近い品種になるほど、施肥を行わなくても立派に育つ傾向がある。 今年の赤米「神丹穂」がその一例である。 同じ無施肥圃場に、多収・良食味米である「つきあかり」と一緒に植えているが、つきあかりは予想以上に分げつ数も穂長も少ない。一方、神丹穂は立派に育ち、平均で30本ほどの分げつがあり、穂長も23cmほどに達している。 この結果を見ると、無施肥圃場を維持するためには、「京都旭」など、古い系統の品種を再び栽培することも検討する価値がある。 無施肥の最大の魅力は、やはり食味である。 炭水化物の表面に付着するタンパク質が極端に少なくなるため、香りがよく、甘すぎず、食感もすばらしい。また、米が古くなっても、食味の低下が緩やかに進む。 無施肥には、収量だけでは評価できない、捨てがたい魅力がある。

無施肥について 来年度より方針転換

本来、僕は「無施肥」について否定的な意見を持っている。 有機物であっても、作物が養分として吸収し、収穫物として田んぼの外へ持ち出せば、補給しない限り地力は少しずつ低下していく。 この考えを、僕は実際の田んぼで10年間検証してきた。 田植えでは大きな地力低下は見られなかったが8俵以上の収穫は到底見込めない。 ところが、直播きでは明らかに地力が落ちた。 さらに興味深いことが分かった。 直播きの田んぼに有機物肥料を与えると、慣行農法以上に稲がよく育つのである。 つまり、問題は「無施肥でも育つか」ではない。 無施肥では、直播きによって持ち出される養分を補いきれなかった。 これは僕が以前から考えていた「無施肥への否定的な見方」を、実際の栽培結果が裏付けた形になる。 だから、僕は無施肥に戻るのではなく、次の段階へ進む。 それが**「超低投入施肥」**である。 ただし、肥料を大量に入れるつもりはない。 施肥で怖いのは、過剰な窒素による生育の乱れや虫の発生である。 そこで、直播きの苗が20cmを超えた段階で、ペレット鶏糞をドローンで散布する。 量は通常の施肥量の半分以下を考えている。 必要な養分を、必要な時期に、必要な量だけ補う。 僕が目指しているのは、無施肥という「ゼロ」ではない。 かといって、慣行農法のように肥料を投入することでもない。 10年間の無施肥栽培で地力低下を確認したからこそ、どこまで肥料を減らしても生産力を維持できるのかを、これから実証してみたい。 それが、僕の考える「超低投入施肥」である。

ぼく様

あまりにもあまりにも詰まらなさ過ぎて。 もういちど 睡眠薬を飲んで寝よう。 ほんとに此処はどうにかしてる。。 

阿保みたいやわ

この部落で話す人は3人しかいない。 床屋の叔父さんと一廉の奥方さま、庄屋の奥方様。  多くて4人。 たまにもうひとり。 ぼく様がどれだけ呆れてるか知るわけないだろう。  

のうない悪態語録

けっこう辛辣なごろくを脳内のぼく様はつぶやいている。 狭い世界や呆れた人と話すと目が笑っていないと言われるぼく様の脳内には、 ●×■▲?×と言っている。 とてもじゃないけど暴露できない? 「うわ!来やがった。隣のばばあだ。FUCKな面しやがって、俺と合うな。おととい来やがれ。うう、見てやがる、どなんして逃げようか。嗚呼もめんどいわ。」 序の口編、、 でもこんなことでもつぶやかないと脳内でこんがらがってしまう。 美しいものは美しい。 醜いものは醜い。 そう感じることまで、いちいち取り繕う必要はない。 ……と、ぼく様は脳内で今日も悪態をついているるる。。  

脳細胞の修復

七日が過ぎた。 気ままに過ごした。 それでもノイズは相変わらず聞こえてくるが、 やっと落ち着く。 さて。 そろそろ次へと行動しなければね。 そうそう。 爪が伸びてきたので、 ギターの音が鳴り出した。 毎日相当な時間をギターと過ごす。 弾きながら見える世界ってあるんだね。  

Dreams are true while they last, and do we not live in dreams? 夢は、それが続いているあいだは真実である。

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My favorite quote by Alfred, Lord Tennyson Dreams are true while they last, and do we not live in dreams? The sun, the moon, the stars, the seas, the hills and the plains— Are not these, O Soul, the Vision of Him who reigns? Is not the Vision He, tho' He be not that which He seems? Dreams are true while they last, and do we not live in dreams?  私のすきな言葉  この言葉を探し当てた中学3年生の頃、それがその後今の今まで如何に私の支えになったであろうか計り知れない。 「夢は、それが続いているあいだは真実である。 そして、私たちは夢の中に生きているのではないだろうか?」 太陽、月、星々、海々、丘々、そして平原―― これらは、ああ、魂よ、君臨する御方の幻ではないのか? その幻こそが彼なのではないか。 たとえ彼が、見えているそのものではないとしても? 夢は、それが続いているあいだは真実である。 そして、私たちは夢の中に生きているのではないだろうか?

Theory of Micro-Phase Differences “The Present” and the Multiplicity of Perception in Photography

  Theory of Micro-Phase Differences “The Present” and the Multiplicity of Perception in Photography Kyoto University of the Arts, Graduate School of Arts Department of Art Studies, Photography and Moving Image Yoshiro Shinkawa 1. Introduction — Is There Only One “Present”? We ordinarily think of the “present” as a single temporal point. The past has already passed, the future has not yet arrived, and only the present exists as what is actually present. But does the present that we actually experience really exist as a single point? For example, suppose that we photograph a landscape in front of us. The photograph appears to record the moment at which it was taken. Yet, by the time we look at the photograph, the moment of exposure and the moment of viewing have already become different. Furthermore, a certain amount of time is required for the light emitted or reflected by the object to reach the camera. Thus, in the act of viewing a photograph, multiple temporalities are involved: ...

微小位相差論――写真における「現在」と知覚の複数性

  微小位相差論――写真における「現在」と知覚の複数性 京都芸術大学大学院 芸術研究科 芸術専攻 写真映像領域 新川芳朗 1.はじめに――「現在」は一つなのか 私たちは通常、「現在」を一つの時間的な点として考えている。過去はすでに過ぎ去り、未来はまだ到来しておらず、現在だけが現に存在している。しかし、私たちが実際に経験している現在は、本当に一点として成立しているのだろうか。 たとえば、目の前にある風景を撮影したとする。その写真は撮影された瞬間を記録しているように見える。しかし、写真を見る時点では、撮影された時刻と鑑賞している時刻はすでに異なっている。さらに、対象から発せられた光が撮影装置に到達するまでにも時間が必要であり、写真を見るという行為においても、撮影時、光の到達時、記録時、現像・表示時、鑑賞時という複数の時間が関係している。 もちろん、ここから直ちに「物理的な光の遅延が、人間の意識における時間経験を決定する」と結論することはできない。物理学における時間と、現象学における時間は異なる水準に属するからである。本論は両者を一つの因果的な理論へ統合することを目的としない。 むしろ問題にしたいのは、現在が完全に一致した一つの点として与えられるわけではないということである。物理的観測においても、知覚においても、写真を見る経験においても、現在は複数の条件や位相の関係によって成立している。 本論では、この問題を「微小位相差」という概念によって捉える。 微小位相差とは、単純な時間差ではない。それは、異なる二つの状態がほとんど同一でありながら完全には一致せず、その差異が知覚の中で関係づけられることで生じる状態である。 この概念は二つの側面を持つ。一つは、現在を単一の時間点ではなく、複数の位相が重なり合う知覚的・関係的な場として捉える理論的側面である。もう一つは、その構造を写真によって可視化する実践的側面である。 本論では後者を「双構図」と呼ぶ。双構図とは、二枚の写真を単純に並べることではない。二枚の写真が十分な同一性を保持しながら、完全には一致しないように配置することで、両者の差異そのものを鑑賞者に経験させる方法である。 ここで重要になるのが「第三の画面」という問題である。しかし、この第三の画面は第三の写真でも、AとBの間に存在する第三の像でもない。本論ではそれを、二つ...