兎の餅つき
月の表面には、海と呼ばれる暗い部分が広がっている。溶岩が冷えて固まった平原で、模様そのものに意味はない。だが人はそこに、必ず何かの姿を見てしまう。 日本と韓国では、この模様は餅をつく兎として語られてきた。仏教説話に由来する話で、老人に身を捧げた兎を神が哀れみ、月に甦らせたのだという。中国では同じ兎が、臼で薬草を挽いているとされる。同じ兎という主題でも、何をしているかは土地によって変わる。 モンゴルでは犬に見立てられる。インドネシアでは編み物をする女性、ベトナムでは木の下で休む男性だという。インドではワニ、南アメリカ、とりわけアマゾン川流域のブラジルでもワニに見立てられる。力を持ち、恐れられる存在としての川の生き物が、月にもそのまま投影されている。 ヨーロッパに目を移すと、北ヨーロッパでは本を読む老婆、南ヨーロッパと中国の一部では大きな鋏を持つ蟹、東ヨーロッパでは女性の横顔、ドイツでは薪を担ぐ男とされる。アラビアでは吠える獅子、カナダの先住民の伝承ではバケツを運ぶ少女が語られる。ニュージーランドのマオリの間では、月の神を怒らせて月に連れ去られたロナという女性の姿だとされ、ポリネシアやメラネシアの多くの地域では、三つの石の上で火を使って料理をする人の姿として語り継がれている。 地球から見える月の面は常に同じである。したがって、これらはすべて同一の模様に対する解釈にすぎない。兎も、蟹も、老婆も、ワニも、網膜に届く光の配置としては同じものを指している。違うのは、見る側がどのような物語の型をあらかじめ持っているかということだけだ。兎のいない土地では兎は見えず、ワニの棲む川のそばでは月にもワニが棲みつく。土地の生態系、伝承、生活の記憶が、そのまま参照枠となって像を規定している。 これは、対象そのものの物理的な差異がどれほど小さくても、見る側の参照枠が異なれば立ち上がる像はまったく別のものになるという事態の、もっとも日常に定着した例だと言える。月の模様という一つの不変の実体に対して、無数の像が並列に存在し、しかもそのどれもが、それぞれの土地では自明なものとして受け取られている。像の複数性は誤認の結果ではなく、参照枠の複数性がそのまま反映されたものである。 満月を見上げるとき、そこに映るのは月の地形ではなく、見る者が属する文化の型そのものだと言ってもよい。 ...