第11章 雨の前に 536話
不二子はんは田んぼの縁に立って、素足で土の端を踏んだ。 表土二センチほどは乾いとる。指で押しても硬い、水の気配はないでもないが。 けど苗は、もう十センチほどまで伸びとる。 不二子はんはしゃがみ、指先で土を少し掘った。 乾いた層の下は、わずかに温度が違う。 根は下にも横にも伸びはじめとる。 苗も青い。水が届いとるいうことや。 稲の根は伸びながら、水分のある層へ入り込む。 表面だけ見ても、分からんことがある。 「上だけ見ても、分からんもんやな。生きれるわ、帰ってきたらよしろうはんに伝えよう」 不二子はんは立ち上がった。 カエルが鳴き出した。 村では昔から、カエルが鳴いたら雨やと言う。 不二子はんは、そういう言い伝えを肌で知っていた。 理由はある。 カエルは皮膚から水分をやり取りする生き物や。空気の湿り気や温度の変化を受けやすい。 気圧そのものを読んどる太古からの生き物や。 雨の前に起こる環境の変化は人間より優秀やという。 鳴き声が増える日と、天気の崩れる日が重なることはある。 風が変わった。 有明の向こうから、湿り気を含んだ風が流れてくる。 不二子はんは目を閉じた。 土の匂いがした。 雨の前や雨上がりに感じる、あの匂いや。 土の中には細菌や放線菌がおる。そういう微生物が作る成分のひとつに、ジオスミンいう物質があるがその匂いという。 人間は、この匂いに案外敏い。 雨を予知しとるんやない。 ただ、雨の前に起きとる変化を受け取っとる。 カエルの鳴き方。 風の重さ。 土の匂い。 苗はもう、その準備を終えとるように見えた。 後ろから声がした。 「見えへんもんほど働いとることあるさかいな」 振り向くと、よしろうはんが立っとった。 黒いズボン。 艶のある青いシャツ。 黒いハット。 そして足元は、いつもの黒いローファーやった。 田んぼに来る格好やない。 せやけど本人は、何年も変えへん。 不二子はんは足元を見た。 「またその靴ですか」 よしろうはんも見下ろした。 「ええ靴やで」 「田んぼ用には見えませんえ」 よしろうはんは少し笑うた。 「みんな変や思うとる」 畦を軽く踏んだ。 「革は表面だけや。水で流したら汚れは落ちる」 不二子はんは黙って聞いた。 「ローファーは繊維の靴や長靴より...