投稿

注目の投稿

無施肥について 確かめるべき可能性

近年の米の品種には多収米が多く、それ故、適切な施肥があってはじめて、その収量を発揮できる。 これは逆に言えば、無施肥では収量が低くなるということであり、これまでの栽培経験からも、それを実感している。 一方、古代米に近い品種になるほど、施肥を行わなくても立派に育つ傾向がある。 今年の赤米「神丹穂」がその一例である。 同じ無施肥圃場に、多収・良食味米である「つきあかり」と一緒に植えているが、つきあかりは予想以上に分げつ数も穂長も少ない。一方、神丹穂は立派に育ち、平均で30本ほどの分げつがあり、穂長も23cmほどに達している。 この結果を見ると、無施肥圃場を維持するためには、「京都旭」など、古い系統の品種を再び栽培することも検討する価値がある。 無施肥の最大の魅力は、やはり食味である。 炭水化物の表面に付着するタンパク質が極端に少なくなるため、香りがよく、甘すぎず、食感もすばらしい。また、米が古くなっても、食味の低下が緩やかに進む。 無施肥には、収量だけでは評価できない、捨てがたい魅力がある。

無施肥について 来年度より方針転換

本来、僕は「無施肥」について否定的な意見を持っている。 有機物であっても、作物が養分として吸収し、収穫物として田んぼの外へ持ち出せば、補給しない限り地力は少しずつ低下していく。 この考えを、僕は実際の田んぼで10年間検証してきた。 田植えでは大きな地力低下は見られなかったが8俵以上の収穫は到底見込めない。 ところが、直播きでは明らかに地力が落ちた。 さらに興味深いことが分かった。 直播きの田んぼに有機物肥料を与えると、慣行農法以上に稲がよく育つのである。 つまり、問題は「無施肥でも育つか」ではない。 無施肥では、直播きによって持ち出される養分を補いきれなかった。 これは僕が以前から考えていた「無施肥への否定的な見方」を、実際の栽培結果が裏付けた形になる。 だから、僕は無施肥に戻るのではなく、次の段階へ進む。 それが**「超低投入施肥」**である。 ただし、肥料を大量に入れるつもりはない。 施肥で怖いのは、過剰な窒素による生育の乱れや虫の発生である。 そこで、直播きの苗が20cmを超えた段階で、ペレット鶏糞をドローンで散布する。 量は通常の施肥量の半分以下を考えている。 必要な養分を、必要な時期に、必要な量だけ補う。 僕が目指しているのは、無施肥という「ゼロ」ではない。 かといって、慣行農法のように肥料を投入することでもない。 10年間の無施肥栽培で地力低下を確認したからこそ、どこまで肥料を減らしても生産力を維持できるのかを、これから実証してみたい。 それが、僕の考える「超低投入施肥」である。

ぼく様

あまりにもあまりにも詰まらなさ過ぎて。 もういちど 睡眠薬を飲んで寝よう。 ほんとに此処はどうにかしてる。。 

阿保みたいやわ

この部落で話す人は3人しかいない。 床屋の叔父さんと一廉の奥方さま、庄屋の奥方様。  多くて4人。 たまにもうひとり。 ぼく様がどれだけ呆れてるか知るわけないだろう。  

のうない悪態語録

けっこう辛辣なごろくを脳内のぼく様はつぶやいている。 狭い世界や呆れた人と話すと目が笑っていないと言われるぼく様の脳内には、 ●×■▲?×と言っている。 とてもじゃないけど暴露できない? 「うわ!来やがった。隣のばばあだ。FUCKな面しやがって、俺と合うな。おととい来やがれ。うう、見てやがる、どなんして逃げようか。嗚呼もめんどいわ。」 序の口編、、 でもこんなことでもつぶやかないと脳内でこんがらがってしまう。 美しいものは美しい。 醜いものは醜い。 そう感じることまで、いちいち取り繕う必要はない。 ……と、ぼく様は脳内で今日も悪態をついているるる。。  

脳細胞の修復

七日が過ぎた。 気ままに過ごした。 それでもノイズは相変わらず聞こえてくるが、 やっと落ち着く。 さて。 そろそろ次へと行動しなければね。 そうそう。 爪が伸びてきたので、 ギターの音が鳴り出した。 毎日相当な時間をギターと過ごす。 弾きながら見える世界ってあるんだね。  

Dreams are true while they last, and do we not live in dreams? 夢は、それが続いているあいだは真実である。

イメージ
My favorite quote by Alfred, Lord Tennyson Dreams are true while they last, and do we not live in dreams? The sun, the moon, the stars, the seas, the hills and the plains— Are not these, O Soul, the Vision of Him who reigns? Is not the Vision He, tho' He be not that which He seems? Dreams are true while they last, and do we not live in dreams?  私のすきな言葉  この言葉を探し当てた中学3年生の頃、それがその後今の今まで如何に私の支えになったであろうか計り知れない。 「夢は、それが続いているあいだは真実である。 そして、私たちは夢の中に生きているのではないだろうか?」 太陽、月、星々、海々、丘々、そして平原―― これらは、ああ、魂よ、君臨する御方の幻ではないのか? その幻こそが彼なのではないか。 たとえ彼が、見えているそのものではないとしても? 夢は、それが続いているあいだは真実である。 そして、私たちは夢の中に生きているのではないだろうか?

Theory of Micro-Phase Differences “The Present” and the Multiplicity of Perception in Photography

  Theory of Micro-Phase Differences “The Present” and the Multiplicity of Perception in Photography Kyoto University of the Arts, Graduate School of Arts Department of Art Studies, Photography and Moving Image Yoshiro Shinkawa 1. Introduction — Is There Only One “Present”? We ordinarily think of the “present” as a single temporal point. The past has already passed, the future has not yet arrived, and only the present exists as what is actually present. But does the present that we actually experience really exist as a single point? For example, suppose that we photograph a landscape in front of us. The photograph appears to record the moment at which it was taken. Yet, by the time we look at the photograph, the moment of exposure and the moment of viewing have already become different. Furthermore, a certain amount of time is required for the light emitted or reflected by the object to reach the camera. Thus, in the act of viewing a photograph, multiple temporalities are involved: ...

微小位相差論――写真における「現在」と知覚の複数性

  微小位相差論――写真における「現在」と知覚の複数性 京都芸術大学大学院 芸術研究科 芸術専攻 写真映像領域 新川芳朗 1.はじめに――「現在」は一つなのか 私たちは通常、「現在」を一つの時間的な点として考えている。過去はすでに過ぎ去り、未来はまだ到来しておらず、現在だけが現に存在している。しかし、私たちが実際に経験している現在は、本当に一点として成立しているのだろうか。 たとえば、目の前にある風景を撮影したとする。その写真は撮影された瞬間を記録しているように見える。しかし、写真を見る時点では、撮影された時刻と鑑賞している時刻はすでに異なっている。さらに、対象から発せられた光が撮影装置に到達するまでにも時間が必要であり、写真を見るという行為においても、撮影時、光の到達時、記録時、現像・表示時、鑑賞時という複数の時間が関係している。 もちろん、ここから直ちに「物理的な光の遅延が、人間の意識における時間経験を決定する」と結論することはできない。物理学における時間と、現象学における時間は異なる水準に属するからである。本論は両者を一つの因果的な理論へ統合することを目的としない。 むしろ問題にしたいのは、現在が完全に一致した一つの点として与えられるわけではないということである。物理的観測においても、知覚においても、写真を見る経験においても、現在は複数の条件や位相の関係によって成立している。 本論では、この問題を「微小位相差」という概念によって捉える。 微小位相差とは、単純な時間差ではない。それは、異なる二つの状態がほとんど同一でありながら完全には一致せず、その差異が知覚の中で関係づけられることで生じる状態である。 この概念は二つの側面を持つ。一つは、現在を単一の時間点ではなく、複数の位相が重なり合う知覚的・関係的な場として捉える理論的側面である。もう一つは、その構造を写真によって可視化する実践的側面である。 本論では後者を「双構図」と呼ぶ。双構図とは、二枚の写真を単純に並べることではない。二枚の写真が十分な同一性を保持しながら、完全には一致しないように配置することで、両者の差異そのものを鑑賞者に経験させる方法である。 ここで重要になるのが「第三の画面」という問題である。しかし、この第三の画面は第三の写真でも、AとBの間に存在する第三の像でもない。本論ではそれを、二つ...