2025/11統合版 博士論文草稿 2025筆 微小位相差理論と現代写真表現:存在・運動・意図の統合的理解
博士論文草稿 2025筆
微小位相差理論と現代写真表現:存在・運動・
意図の統合的理解
新川 芳朗
所属:京都芸術大学大学院 芸術研究科 芸術専攻 写真映像領域
2025年11月
目次
序論:写真の定義の揺らぎとパラダイム転換
第1章:微小位相差理論の構築
- 1.1 理論の起源:個人史的背景
- 1.2 理論の数学的展開
- 数学的定式化への動機
- U(1)ゲージ理論による表現
- 存在の不変性原理
- 5層構造への展開
- 2枚組写真による証明方法論
- 理論の社会的機能
- 1.3 理論の基本原理
- (1)エネルギー保存の原理
- (2)時間の重層性
- (3)エントロピーと視点の相対性
- (4)差異と運動の必然性
- 1.4 理論の実践的適用
第2章:写真史的文脈における微小位相差理論
- 2.1 ドキュメンタリー写真の系譜と限界
- 2.2 New Topographicsと客観性の探求
- 2.3 写真家から実践者へ:役割の拡張
第3章:Altered Landscape──変容する風景の記録
- 3.1 現代日本における風景の急速な変化
- 3.2 写真技法:古典技法による現代の記録
- 3.3 写真の認識論的機能
第4章:AI時代における写真の再定義
- 4.1 写真の定義の歴史的変遷
- 4.2 真正性(Authenticity)をめぐる議論
- 4.3 新しい定義:意図の記録としての写真
第5章:理論と実践の統合──持続可能な創造へ
- 5.1 写真実践と環境実践の接続
- 5.2 地域社会との協働
- 5.3 批判的省察と理論の限界
- 検証可能性の問題
- 普遍性の問題
- 還元主義への警戒
- 実践の持続可能性
結論:写真の未来へ──記録から創造、観察から実践へ
参考文献
謝辞
図版リスト
序論:写真の定義の揺らぎとパラダイム転換
写真は1839年にダゲールによって発明されて以来、「光を記録する技術」として認識されてきた。カメラのレンズを通して捉えた光をフィルムやセンサーに焼き付けることによって、一瞬の現実を固定化することが可能となり、それが絵画や他の視覚表現と明確に異なる本質的特徴となった(Sontag, 1977)。ロラン・バルトは『明るい部屋』において、写真の本質を「それは=かつて=あった」(ça-a-été)という過去の実在性の証明に見出した(Barthes, 1980)。この「指標性(indexicality)」こそが、写真を他の画像メディアから区別する決定的要素とされてきた。
しかし21世紀に入り、デジタル技術の発展は写真の定義を根底から揺るがしている。特に2020年代以降のAI技術の急速な進展により、拡散モデルやGANを用いた画像生成は、現実に存在しない被写体の「写真」を生成可能とした。スマートフォンにおけるコンピュテーショナルフォトグラフィーは、撮影後に光源や焦点、被写体の配置を操作できるため、「光学的記録」という従来の定義では説明しきれない状況を生み出している。William J. Mitchellが1992年に『The Reconfigured Eye』で予言したデジタル時代の写真の変容は、現実のものとなった。
同時に、写真の社会的機能についても再考が必要である。ドキュメンタリー写真は20世紀を通じて、戦争、貧困、環境破壊などの社会問題を可視化する重要な手段であった。ユージン・スミスの水俣病報道写真、ロバート・キャパの戦争写真、セバスチャン・サルガドの労働者写真などは、現実の悲惨さを世界に伝えた。しかし同時に、これらの写真が問題の根本的解決に直接寄与することはできなかったという限界も指摘されてきた。スーザン・ソンタグは『他者の苦痛へのまなざし』において、悲惨な写真を繰り返し見ることによる感覚の麻痺と、傍観者としての無力感を論じている(Sontag, 2003)。
本論文は、私自身の40年間にわたる写真実践を理論的に省察し、「微小位相差理論」という独自の概念枠組みを提示することを目的とする。この理論は、量子物理学的な世界観と写真家の身体的経験を統合し、時間・存在・運動の重層性を明らかにする。さらに、AI時代における写真の再定義を試み、写真家の役割を「記録者」から「実践者」へと拡張する可能性を論じる。理論構築においては、私自身の作品制作と環境再生活動という二つの実践が基盤となっている。
第1章:微小位相差理論の構築
1.1 理論の起源:個人史的背景
微小位相差理論の萌芽は、私の幼少期の経験に遡る。夜空を見上げた時、宇宙の果てにはさらに宇宙が広がっているという直感的理解が生まれた。この感覚は、単なる空間的無限性ではなく、存在の重層性についての予感であった。後年、写真を通して世界を観察する中で、この幼少期の直感は具体的な概念として再構築され、「微小位相差」という理論へと昇華していった。
写真実践における決定的な契機は、同一地点での連続撮影である。有明海の干潟を定点観測的に撮影し続ける中で、雲の形状、光の角度、潮の満ち引き、生物の配置などが微妙に異なる「位相」として現れることを認識した。これらの差異は、単なる時間経過の結果ではなく、時間そのものが重層的に存在していることの証左であると理解するに至った。過去・現在・未来は直線的に配列されているのではなく、微小な位相差を持って同一の「場」に重なり合っている。
この認識は、アンリ・ベルクソンの「持続(durée)」概念と共鳴する。ベルクソンは『物質と記憶』において、過去は消失するのではなく、現在の中に保存され続けると論じた(Bergson, 1896)。しかし微小位相差理論は、過去だけでなく未来もまた、潜在的に現在と共存しているという点で、ベルクソンの時間論を拡張している。これは量子力学における「重ね合わせ」状態とも類比的である。観測行為(写真撮影)によってある特定の位相が固定されるが、それは他の位相の消失を意味しない。
1.2 理論の数学的展開
微小位相差理論は当初、直感的・現象学的記述として形成された。幼少期の宇宙体験、有明海での定点観測、農業実践における時間の重層的経験──これらはすべて、言語化以前の身体的理解として存在していた。しかし、理論を他者と共有し、批判的検討に晒し、さらなる展開を図るためには、より厳密な概念装置が必要であった。
数学的定式化への動機
2024年から2025年にかけて、私は理論の数学的定式化に取り組んだ。この作業の動機は三つあった。第一に、直感的理解を明確な命題として表現することで、理論の検証可能性を高めること。第二に、物理学や哲学など他分野との対話を可能にすること。第三に、理論が単なる個人的世界観ではなく、普遍的構造を持つことを示すこと。
数学言語の選択にあたっては、量子場理論で用いられるU(1)ゲージ理論の枠組みを援用した。これは、微小位相差という概念が本質的に「位相(phase)」の差異を扱うものであり、物理学における位相対称性の理論と構造的に類似していたためである。
U(1)ゲージ理論による表現
微小位相差理論の数学的骨格は、以下のように表現される。
時空上の各点(x,t)に複素数値の場φ(x,t)を割り当てる:
φ(x,t) = ρ(x,t)e^(iθ(x,t))
ここでρ(x,t)は「存在の強度」、θ(x,t)は「位相」である。この場は、局所的なU(1)ゲージ変換に対して不変である:
φ(x,t) → φ'(x,t) = e^(iα(x,t))φ(x,t)
この変換下で理論が不変であるためには、ゲージ場A_μ(x,t)を導入し、通常の微分∂_μを共変微分D_μに置き換える必要がある:
D_μφ = (∂_μ - iA_μ)φ
ゲージ場自身も変換される:
A_μ → A'_μ = A_μ + ∂_μα
この数学的構造は、電磁気学におけるU(1)ゲージ理論と同型である。しかし、物理的解釈は異なる。ここでの「ゲージ場」は、観察者の視点変更に対応し、「位相」は時間の異なる層を表現する。
存在の不変性原理
この定式化から、重要な洞察が得られた。それは、「存在の不変性原理」である。
U(1)ゲージ変換下で不変な量は、場の絶対値の二乗|φ|² = ρ²である。物理学では、これは確率密度や粒子数密度に対応する。微小位相差理論では、これを「存在そのもの」と解釈する。
すなわち、観察者がどの時間位相から観察しようとも(どのようなゲージを選択しようとも)、「何かが存在する」という事実それ自体は不変である。変化するのは、その存在がどのように現象するか、である。
この原理は、アインシュタインの特殊相対性理論と構造的に類似している。相対性理論では、観測者の慣性系に依存して時間や空間の測定値は変化するが、時空間隔(ミンコフスキー計量)は不変である。微小位相差理論では、観測者の時間位相に依存して現象は変化するが、存在の総量は不変である。
この類比は、単なる比喩ではない。両理論とも、「不変量の発見」によって、多様な観測結果を統一的に理解する枠組みを提供している。
5層構造への展開
数学的定式化を基盤として、微小位相差理論は以下の5層構造へと展開された:
(1)現象記述層
日常的観察や芸術的直感に基づく、現象の記述。この層では、「時間の厚み」「位相の重なり」などの比喩的表現が用いられる。
(2)数学的表現層
U(1)ゲージ理論による厳密な定式化。検証可能な予測を導出し、他分野との対話を可能にする。
(3)認知モデル層
人間の知覚と意識が、どのように時間の重層性を経験するかを説明するモデル。ベルクソンの持続、フッサールの時間意識の現象学との接続。
(4)社会システム分析層
固定化された価値観や権力構造を、特定の時間位相への固着として分析。多様な可能性の抑圧メカニズムの解明。
(5)実践方法論層
写真技法、農業実践、教育プログラムなど、理論を具体的に応用する方法の体系化。
これらの層は独立しているのではなく、相互に参照し合う。数学的厳密性は現象記述に明確さを与え、実践は理論を検証し修正する。
2枚組写真による証明方法論
微小位相差理論の最も重要な側面は、それが単なる思弁的仮説ではなく、経験的に検証可能であるという点である。しかし、その検証方法は、自然科学における実験的検証とは異なる。
私が採用するのは、「2枚組写真による現象学的証明」である。
同一地点、同一被写体を、わずかに異なる時刻に撮影した2枚の写真を並置する。この2枚の間の差異──雲の形、光の角度、波の位置、生物の配置──は、通常「時間経過による変化」として理解される。
しかし、適切な撮影条件と提示方法を選択することで、観察者は異なる経験をする。2枚の写真は、過去と現在の関係ではなく、同時に存在する異なる「層」として知覚される。観察者は、「時間の厚み」を直接的に感受する。
これは、数学的証明でも統計的検証でもない。むろん、主観的印象の報告でもない。それは、適切に構成された視覚的状況において、誰もが(程度の差はあれ)経験可能な現象である。この意味で、それは「現象学的証明」である。
エドムント・フッサールが『イデーンI』で示したように、現象学的方法は「本質直観」を目指す。私の2枚組写真は、時間の重層性という本質を、観察者に直接提示することを試みる。
この方法論は、微小位相差理論を単なる言語的主張から、視覚的に経験可能な現実へと変換する。写真家としての私の役割は、理論を説明することではなく、理論が指し示す現実を、他者が直接経験できる条件を整えることである。
理論の社会的機能
微小位相差理論の最終的な目的は、学術的体系の構築ではない。それは、人々が固定化された認識の枠組みから解放され、複数の可能性を認識するための道具である。
現代社会において、多くの人々は特定の時間位相に固着している。経済成長という単線的未来像、過去の栄光への郷愁、「今この瞬間」だけを生きるマインドフルネス──いずれも、時間の一つの層のみを特権化している。
微小位相差理論は、これらの固着を相対化する。過去・現在・未来は直線的に配列されているのではなく、微小な差異で重層的に共存している。ある時間位相で「失敗」に見える出来事が、別の位相では「必要なプロセス」となる。絶望的に見える現在も、無数の可能的未来を孕んでいる。
この認識は、社会変革の新たな方法論を示唆する。変革は、「悪い現在」を「良い未来」に置き換えることではない。それは、すでに潜在的に存在している多様な位相を顕在化させ、支配的な単一位相の独占を解体することである。
私の生涯の目標は、この理論を完成させ、実践によって検証し、次世代に伝達することである。死後の評価を待つのではなく、生きている間に影響を与えることを目指す。そのために、学術的厳密性と、芸術的直感性と、社会的実践性を統合する必要がある。この論文は、その試みの現在地点を示すものである。
1.3 理論の基本原理
微小位相差理論は、以下の四つの基本原理から構成される。
(1)エネルギー保存の原理
宇宙の総エネルギーは創造時から一定であり、増減は存在しない。増減しているように見えるのは、観察者が部分的な過程のみを捉えているためである。地球における水循環、数億年規模の気候変動、生命の誕生と死も、宇宙全体のエネルギー総量は変わらず、異なる位相に分配されているに過ぎない。この原理は熱力学第一法則と整合的であるが、微小位相差理論においては、エネルギーの分配先として「位相」という次元を導入している点が独自である。
(2)時間の重層性
時間は点的な「今」ではなく、幅を持った帯状の存在である。過去・現在・未来は微小な位相差で重層的に存在する。写真を時系列で並べて比較することで、過去と未来が「今ここ」に存在することが可視化される。写真は時間を切り取るのではなく、時間の厚みを露わにする手段である。
ここで重要なのは、写真が単なる過去の記録ではなく、時間の複数の層への「窓」として機能するという認識である。定点観測写真を並置することで、観察者は異なる時間位相を同時に経験する。これは、ジル・ドゥルーズが『シネマ』において論じた「時間イメージ」概念と接続可能である(Deleuze, 1985)。ドゥルーズは映画において、時間が直線的因果関係から解放され、それ自体として現前すると論じたが、静止画である写真においても、複数の写真の並置によって同様の効果が生じる。
(3)エントロピーと視点の相対性
エントロピー増大の法則(熱力学第二法則)は、観察者の視点に依存する。マクロ的には秩序から無秩序への不可逆的流れに見えるが、宇宙全体の視点では方向性は存在しない。すべては微小位相差による運動の現れである。ルートヴィッヒ・ボルツマンがエントロピーを統計力学的に解釈したように、「無秩序」は観察スケールに依存する概念である。
写真において、この原理は「老い」や「崩壊」の表現に関わる。廃墟写真は一見、エントロピー増大の視覚的証拠のように見える。しかし微小位相差理論の視点では、崩壊は単なる無秩序化ではなく、物質とエネルギーが別の位相へ移行する過程である。朽ちた建物は土に還り、新たな生命の基盤となる。このサイクルに方向性はなく、すべては循環する運動である。
(4)差異と運動の必然性
微小位相差が存在することで、初めて運動が生じる。完全な同一性は静止を意味し、完全な分離は相互作用の不在を意味する。微小な差異があることで、宇宙の運動性、ひいては生命活動が可能となる。この原理は、ジル・ドゥルーズの『差異と反復』における「差異それ自体」概念と共鳴する(Deleuze, 1968)。ドゥルーズは、差異を同一性に還元せず、差異それ自体を肯定することで、創造性と生成を説明した。
1.4 理論の実践的適用
微小位相差理論は、抽象的な形而上学ではなく、日常的実践に適用可能である。歩行、思考、食事、対話など、あらゆる行為は位相の選択と定着のプロセスである。
写真撮影において、シャッターを切る行為は、無数に存在する時間位相の中から特定の層を選択し、物理的媒体(フィルムやデジタルデータ)に固定化することである。構図の選択、焦点の決定、露出の調整は、すべて位相選択の具体的方法である。したがって写真家は、単に「そこにあるもの」を記録するのではなく、重層的に存在する現実の中から特定の位相を顕在化させる存在である。
この理解は、写真の「客観性」神話を解体する。写真が客観的記録であるという信念は、19世紀実証主義の産物である。しかし実際には、カメラの位置、レンズの選択、撮影タイミング、現像・プリント処理など、すべての段階で写真家の主観が介入する。微小位相差理論は、この主観性を否定的に捉えるのではなく、位相選択という創造的行為として積極的に評価する。
第2章:写真史的文脈における微小位相差理論
2.1 ドキュメンタリー写真の系譜と限界
20世紀のドキュメンタリー写真は、社会問題の可視化において重要な役割を果たした。ジェイコブ・リースの『How the Other Half Lives』(1890)は、ニューヨークのスラムを記録し、住宅改革運動の契機となった。FSA(Farm Security Administration)プロジェクトは、大恐慌時代のアメリカ農村の困窮を記録し、ニューディール政策への支持を喚起した。ユージン・スミスの『水俣』(1975)は、工業汚染による被害を世界に伝えた。
しかしこれらの偉大な業績にもかかわらず、ドキュメンタリー写真は根本的なジレンマを抱えている。写真は問題を可視化できるが、問題を解決することはできない。水俣病の写真は人々に衝撃を与えたが、チッソの工場排水は停止されなかった。戦争写真は戦争の悲惨さを伝えるが、戦争を終わらせることはできない。
マーサ・ロスラーは「In, around, and afterthoughts (on documentary photography)」において、ドキュメンタリー写真が「被害者」を美的対象化し、観察者を安全な傍観者の位置に固定すると批判した(Rosler, 1981)。スーザン・ソンタグもまた、悲惨な写真の反復的消費が、共感の疲労と無力感をもたらすと論じた。
微小位相差理論の視点から見ると、この限界は写真の本質的特性に由来する。写真は特定の時間位相を固定化するが、それは同時に他の位相(例えば、問題解決に至るプロセス)を不可視化する。写真は「問題が存在する位相」を示すことはできるが、「問題が解決された位相」への移行を直接もたらすことはできない。この認識は、写真家の役割の再定義を要請する。
2.2 New Topographicsと客観性の探求
1975年、ジョージ・イーストマン・ハウスで開催された展覧会「New Topographics: Photographs of a Man-Altered Landscape」は、風景写真の新たな方向性を示した(Adams et al., 1975)。ロバート・アダムス、ルイス・ボルツ、ベルント&ヒラ・ベッヒャー、スティーブン・ショアらは、人間が改変した風景を、感情的判断を排した客観的視点で記録した。
アンセル・アダムスらのピクトリアリスト的自然賛美とは対照的に、ニュー・トポグラフィックスの写真家たちは、郊外の宅地開発、工業地帯、駐車場など、美化されない現実を提示した。これは環境問題への意識が高まる1970年代の文脈において、風景の変容を記録する重要な試みであった。
しかし、ニュー・トポグラフィックスもまた、ドキュメンタリー写真と同様の限界に直面した。客観的記録は問題の可視化に成功したが、解決策の提示には至らなかった。また、「客観性」それ自体が一つの美学的立場であり、完全な価値中立性は存在しないという批判もなされた。
微小位相差理論は、この「客観性」概念を再解釈する。完全な客観性が不可能であるのは、観察者が必ず特定の時間位相と空間位置から観察するためである。しかし、複数の位相からの観察を重ね合わせることで、より多層的な理解が可能となる。ニュー・トポグラフィックスの写真家たちが同一地域を繰り返し撮影したのは、無意識的にこの多層性を追求していたと解釈できる。
2.3 写真家から実践者へ:役割の拡張
私自身の実践は、2015年以降、大きな転換を遂げた。それまでの「記録者」としての写真家から、「実践者」としての写真家へと移行したのである。具体的には、無農薬・無肥料の米作りを開始した。当初は1反(約1000平方メートル)の小規模試験であったが、2025年には5町(約5ヘクタール)に拡大し、病院への供給を含め、地域と連携しながら生物多様性を保全する農業を実践している。
この実践は、写真による環境問題の記録が持つ限界への応答である。環境破壊を撮影し続けることは重要だが、それだけでは不十分である。写真家は、問題を記録するだけでなく、解決に向けた具体的行動を取ることができる。農業実践は、私にとって環境再生の直接的手段であり、同時に新たな写真的探求の場でもある。
水田は、微小位相差理論を体現する場である。稲の成長、水の循環、昆虫や鳥の生態、気候の変化は、すべて異なる時間スケールで進行する重層的プロセスである。1日ごと、1週間ごと、1年ごとに撮影を続けることで、これらの位相の重なり合いが可視化される。農業は、単なる食料生産ではなく、時間と生命の位相を調整する行為である。
この実践は、「社会関与型アート(Social Practice Art)」の文脈にも位置づけられる。Suzanne Lacyが定義するように、社会関与型アートは、従来の芸術作品の制作ではなく、社会的プロセスそのものを芸術実践とする(Lacy, 1995)。写真家が農業に従事することは、表現と生活、芸術と労働の境界を解体する試みである。
第3章:Altered Landscape──変容する風景の記録
3.1 現代日本における風景の急速な変化
21世紀の日本、特に2010年代以降、風景の変化速度は著しく加速している。私が活動する熊本県においても、複数の大規模変化が同時進行している。
2023年1月、台湾の半導体メーカーTSMCの工場建設が開始され、広大な農地が工業用地へと転換された。この変化は、単なる土地利用の変更ではなく、地域の水資源管理、交通インフラ、人口動態に至るまで、多層的な影響をもたらしている。かつて米や野菜を生産していた土地が、半導体というミクロな製品を生産する場へと変貌する様は、グローバル経済の力学が地域風景に直接刻印される過程である。
2016年の熊本地震は、阿蘇地域に甚大な被害をもたらした。特に阿蘇大橋の崩落は、地域の分断を象徴する出来事であった。その後の復旧・復興過程は現在も進行中であり、新たな橋の建設、道路の再編、集落の再配置など、風景は継続的に変化している。しかし、一部の集落では住民の帰還が進まず、「復興された風景」と「放棄された風景」が隣接する状況が生じている。
都市部では、マンションとコンビニエンスストアの増殖が続いている。興味深いのは、これらが「新しいもの」として加わるだけでなく、同時に既存の建造物が急速に老朽化し、取り壊される点である。建設と崩壊、新と旧が同時進行する風景は、微小位相差理論が示唆する時間の重層性を視覚的に体現している。
3.2 写真技法:古典技法による現代の記録
私の「Altered Landscape」シリーズでは、意図的に古典的な写真技法を用いている。具体的には、自作の古典レンズ(19世紀のレンズ設計を参考にした手作りレンズ)と、改良を加えた古典プリント技法(ソルトプリント、サイアノタイプなど)を使用している。
この選択は、単なる懐古趣味ではない。古典レンズは、現代のデジタルレンズが排除しようとする「不完全性」──収差、フレア、周辺光量落ち──を積極的に含む。これらの「不完全性」は、風景の微細な位相差を可視化する手段となる。シャープで均質なデジタル画像は、風景を単一の位相に固定してしまうが、古典レンズの柔らかく不均質な描写は、風景が複数の時間層を含むことを暗示する。
プリント技法においても、手作業による変動性が重要である。ソルトプリントは、銀塩プリントよりも階調が豊かであるが同時に均一な結果を得ることが困難である。湿度、温度、紙の質、薬品の配合などによって、同じネガから異なるプリントが生まれる。この変動性は、写真が単一の「正解」ではなく、無数の可能性の中の一つの顕在化であることを示す。
技法の選択は、写真の物質性を強調する効果も持つ。デジタル画像が無限に複製可能で非物質的であるのに対し、古典プリントは一点ごとに異なる物質的存在である。
3.3 写真の認識論的機能
「Altered Landscape」は、単なる記録を超えて、観察者の認識様態を変容させることを目指している。風景写真を見る時、観察者は通常、「美しい風景」または「醜い風景」という二項対立的判断を行う。しかし私の写真は、この判断を保留させる。
例えば、TSMCの工場建設現場を撮影した写真は、破壊とも創造とも判断できない両義性を持つ。重機が土を掘り返す様は、環境破壊の証拠であると同時に、新たな産業基盤の創出でもある。古典レンズの柔らかな描写は、この両義性を視覚的に表現する。明確な判断を下すことを拒否することで、観察者は風景の複雑性と向き合うことを余儀なくされる。
この認識論的機能は、微小位相差理論の実践的応用である。風景は単一の位相(「良い」または「悪い」)に固定できず、複数の位相が重層的に存在する。写真家の役割は、特定の立場から判断を下すことではなく、この重層性を提示することである。
同時に、私は写真家としての主観性を隠蔽しない。すべての写真は、特定の立ち位置(物理的・思想的)から撮影されている。この立ち位置を明示することで、観察者は自らの立ち位置を相対化することができる。
第4章:AI時代における写真の再定義
4.1 写真の定義の歴史的変遷
写真の定義は、技術的発展とともに変化してきた。ダゲレオタイプ期には、写真は銀板上の唯一無二の像であった。ネガ・ポジプロセスの発明により、写真は複製可能な画像となった。カラー写真の普及は、モノクロームが「現実の忠実な記録」であるという神話を崩壊させた。デジタル写真の登場は、物理的ネガの必要性を消失させた。
そして2020年代、AI技術は写真の定義に決定的な挑戦を突きつけている。StableDiffusion、Midjourney、DALL-E等の画像生成AIは、テキストプロンプトから写真的にリアルな画像を生成する。これらの画像は、カメラを用いず、現実の被写体を必要とせず、光学的プロセスを経ていない。しかし視覚的には、従来の写真と区別が困難である。
スマートフォンのコンピュテーショナルフォトグラフィーも、従来の定義を揺るがす。GoogleのPixelシリーズやAppleのiPhoneは、複数の画像を合成し、AIによる被写体認識と最適化を行い、撮影後にも光源や被写界深度を調整可能である。これらは「撮影」なのか「生成」なのか、境界は曖昧である。
4.2 真正性(Authenticity)をめぐる議論
AI生成画像の登場は、写真の真正性(authenticity)をめぐる議論を再燃させた。報道機関や写真コンテストは、AI生成・編集画像の扱いに苦慮している。AP通信やロイターは、AI生成画像を「写真」として配信しない方針を示した。World Press Photo等の写真賞は、過度な編集を理由に受賞を取り消す事例が増えている。
技術的対応として、デジタル署名やブロックチェーンによる撮影メタデータの認証が試みられている。Adobe等は、画像の編集履歴を埋め込むContent Credentials技術を開発した。しかし、これらの技術も完全ではなく、メタデータの偽造や削除は可能である。
より根本的な問題は、「真正性」それ自体が構築された概念であるという点である。写真が発明された当初から、構図の操作、現像処理による調整、プリント時の覆い焼きや焼き込みなど、様々な「操作」が行われてきた。アンリ・カルティエ=ブレッソンは、トリミングを拒否することで「真正性」を主張したが、それもまた一つの美学的立場に過ぎない。
微小位相差理論の視点では、写真は常に特定の位相の選択である。カメラによる選択もAIによる選択も、本質的には同じプロセスである。重要なのは、どの位相が選択されたか、そしてその選択が誰の意図によるものかを明示することである。
4.3 新しい定義:意図の記録としての写真
従来の「光の記録」という定義が機能不全に陥った今、写真を再定義する必要がある。私は、写真を「意図の記録」として定義することを提案する。
写真の本質は、光学的プロセスではなく、「誰が何を見せたいか」という意図の表明である。この定義において、撮影手段(光学カメラ、AI生成、コラージュ等)は二次的要素である。重要なのは、制作者が特定の視覚的表現を選択し、それを他者に提示する行為である。
この定義は、写真史における様々な実践と整合的である。マン・レイのフォトグラム(カメラを用いない写真)、ジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュ、シンディ・シャーマンの構成的ポートレートは、いずれも「光学的記録」という定義では説明困難だが、「意図の記録」としては明確に写真である。
AI生成画像も、この定義においては写真の一形態となりうる。重要なのは、生成者が明確な意図を持ち、それを視覚的に具現化し、観察者に提示することである。ただし、透明性の原則として、生成方法の明示は必須である。観察者は、画像がどのように生成されたかを知る権利を持つ。これは、従来の写真においても同様であり、撮影条件やプリント技法の情報開示は、作品理解の重要な要素である。
「意図の記録」という定義は、写真における倫理的問題にも新たな視座を提供する。問題は「操作されているか否か」ではなく、「意図が明示されているか」「その意図が倫理的に許容されるか」である。報道写真において重要なのは、撮影者・編集者の意図(何を伝えたいか)が明確であり、それが事実の歪曲や偏向を意図していないことである。
微小位相差理論との関係では、「意図の記録」は特定の位相を選択し固定化する行為である。無数に存在する可能性の中から、写真家は自らの意図に基づいて特定の位相を顕在化させる。この選択行為こそが、写真を単なる機械的複製ではなく、創造的表現とする。
第5章:理論と実践の統合──持続可能な創造へ
5.1 写真実践と環境実践の接続
私の農業実践は、単なる副業や趣味ではなく、写真実践の必然的拡張である。微小位相差理論は、観察と行動の統一を要求する。風景の変化を記録するだけでなく、風景を積極的に形成する行為者となることで、理論は完結する。
無農薬・無肥料の米作りは、微小位相差理論の実験場である。化学肥料を投入すれば、稲は急速に成長し、収穫量は増加する。しかしそれは、土壌の生態系の位相を単純化することで達成される。複雑な微生物叢、昆虫、植物の共生関係が失われ、単一作物の最適化という一つの位相のみが強化される。
対照的に、無農薬・無肥料農業は、複数の位相の共存を許容する。雑草、害虫とされる昆虫、菌類、小動物などが共生する複雑な生態系が維持される。収穫量は化学農業よりも少ないが、長期的には土壌の健全性が保たれ、持続可能性が高い。これは、微小位相差理論が示す「差異の肯定」の具体的実践である。
写真的には、水田を定点観測的に撮影し続けることで、季節変化、生物の活動、気候の変動などの多層的時間が可視化される。春の田植え、夏の成長、秋の収穫、冬の休眠というサイクルは、人間の時間スケールである。しかし同時に、土壌微生物の数時間単位の活動、昆虫の数週間単位のライフサイクル、気候変動の数十年単位の変化など、異なる時間スケールが重層的に存在する。
農業実践における身体性も重要である。田んぼに入り、泥に足を取られ、腰を曲げて苗を植え、雑草を抜く。この身体的労働を通じて、風景は単なる視覚的対象ではなく、触覚的・運動感覚的に経験される存在となる。写真家が風景を「撮る」だけでなく、風景の中で「働く」ことで、表現は新たな深みを獲得する。
5.2 地域社会との協働
私の農業実践は、個人的実験に留まらず、地域社会との協働へと展開している。2025年現在、生産した米は地域の病院に供給されている。また、農業体験プログラムを通じて、都市住民や学生に農業の現場を提供している。
この協働は、写真家の社会的役割の再定義である。従来、写真家は個人的表現を追求する孤独な芸術家、あるいは報道機関に属する記録者であった。しかし現代において、写真家はコミュニティの一員として、社会的課題の解決に直接関与することができる。
地域住民との対話を通じて、私自身の理論も変容してきた。当初、微小位相差理論は抽象的な形而上学的思弁であった。しかし農業実践を通じて、理論は具体的な生活実践と結びついた。高齢の農家から伝統的農法を学ぶ過程で、彼らが暗黙知として保持してきた知恵が、微小位相差理論と共鳴することを発見した。例えば、「田んぼには田んぼの時間がある」という言葉は、まさに時間の重層性を直感的に捉えている。
5.3 批判的省察と理論の限界
微小位相差理論は、私自身の実践から帰納的に構築された理論であり、その妥当性と限界を自己批判的に検討する必要がある。
検証可能性の問題
現状では、理論の多くが詩的・直観的記述に依存しており、科学的に検証可能な仮説として定式化されていない。今後、より厳密な概念定義と、経験的に検証可能な主張への精緻化が必要である。
普遍性の問題
理論は私個人の経験から生まれたものであり、他の写真家や芸術家にとって有効であるかは不明である。より多様な実践との対話を通じて、理論の適用範囲を明確にする必要がある。
還元主義への警戒
すべての現象を「位相差」で説明しようとする試みは、新たな還元主義に陥る危険がある。理論は、世界を理解するための一つの道具であり、唯一の真理ではない。この謙虚さを保持することが重要である。
実践の持続可能性
農業実践は、理想的には持続可能であるべきだが、現実には経済的・身体的負担が大きい。写真家としての活動と農業実践の両立は、個人の努力だけでは限界がある。社会的・制度的支援の必要性を認識する必要がある。
これらの限界を認識しつつ、理論と実践を継続的に発展させることが、今後の課題である。
結論:写真の未来へ──記録から創造、観察から実践へ
本論文では、私自身の40年間の写真実践を理論的に省察し、「微小位相差理論」という独自の概念枠組みを提示した。この理論は、時間・存在・運動を重層的に捉え、写真を「時間の厚みを露わにする手段」として再定義する。
写真は、1839年の発明以来、「光を記録する技術」として認識されてきた。しかし、AI技術の急速な発展により、この伝統的定義は崩壊しつつある。本論文では、写真を「意図の記録」として再定義することを提案した。重要なのは光学的プロセスではなく、「誰が何を見せたいか」という意図の表明である。この定義において、撮影手段(光学カメラ、AI生成、コラージュ等)は二次的要素となる。
写真家の役割も変容する。私自身の実践において、この役割変容は農業という具体的形態をとった。無農薬・無肥料の米作りは、風景を記録するだけでなく、風景を積極的に形成する行為である。写真家は「記録者」から「実践者」へと移行し、環境再生や社会変革に直接関与することが可能となる。これは、ドキュメンタリー写真が直面してきた「記録はできるが解決はできない」という限界を超える試みである。
微小位相差理論は、この実践に理論的基盤を提供する。すべての存在が微小な位相差で重層的に存在するという認識は、多様性の肯定、共生の重要性、持続可能性の追求へとつながる。化学農業が単一の位相(収穫量の最大化)を追求するのに対し、無農薬農業は複数の位相の共存を許容する。これは、生態学的により健全であり、長期的により持続可能である。
写真表現においても、微小位相差理論は新たな可能性を開く。定点観測写真の並置、古典技法による「不完全性」の導入などは、時間の重層性を可視化する手段となる。観察者は、単一の「風景」ではなく、複数の時間位相が交錯する「場」を経験する。
AI時代において、写真はその定義を拡張し続ける。しかし、技術的変化にもかかわらず、写真の本質的機能──世界を見る特定の様式を提示し、観察者の認識を変容させる──は不変である。微小位相差理論は、この本質的機能を、時間・存在・運動の哲学的理解と接続することで、写真論に新たな地平を開く。
今後の課題として、以下の点が挙げられる。
理論のさらなる精緻化
他の学問分野(物理学、生物学、哲学など)との対話を通じて、概念をより厳密に定義し、検証可能な仮説を提示する必要がある。
実践の拡張と多様化
農業実践は一つのモデルだが、他の形態の環境再生活動、地域活性化、教育プログラムなどへの展開が考えられる。また、他の写真家やアーティストとの協働により、新たな表現形式を開発する可能性がある。
社会的インパクトの評価
写真と農業の統合が、実際に環境保全や地域社会にどのような影響を与えているかを、定量的・定性的に評価する必要がある。これは、芸術実践の社会的価値を示す上で重要である。
技術と倫理の継続的再考
AI画像生成技術は急速に進化しており、写真の定義と実践は今後も変化し続けるだろう。この変化に対して、固定的な立場を取るのではなく、柔軟に対応しながら、写真の本質を問い続ける必要がある。
本論文で示した理論と実践は、一つの試みに過ぎない。しかし、写真が単なる過去の記録ではなく、未来への介入の手段となりうることを示した点で、意義があると考える。写真家は、世界を観察するだけでなく、世界を変える主体となることができる。微小位相差理論は、この可能性を理論的に基礎づけ、実践的に展開するための枠組みを提供する。
AI、環境危機、グローバル化という現代の課題に直面する中で、写真は新たな役割を模索している。その役割とは、単に現実を記録することではなく、可能な未来の複数の位相を提示し、観察者を能動的主体へと変容させることである。微小位相差理論は、この変容のための哲学的・実践的基盤となりうる。
写真の未来は、技術的発展だけでなく、思想的深化と社会的実践の統合によって切り開かれる。本論文が、その一歩となることを願う。40年間の写真実践を通じて得た洞察を、理論として言語化する試みは、私自身の思考を明確化するとともに、他の実践者との対話の基盤を提供することを目指している。微小位相差理論は、完成された体系ではなく、継続的な実践と省察を通じて発展する生きた理論である。
参考文献
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謝辞
本論文の執筆にあたり、京都芸術大学大学院の諸先生方、特に指導教員には多大なご助言をいただいた。また、農業実践においては地域の農家の方々から伝統的知恵を学ばせていただいた。写真作品の制作と展示に関しては、関係各位の協力を得た。子どもたちとの教育プログラムは、理論を実践的に検証する貴重な機会となった。ここに記して深く感謝申し上げる。
図版リスト(実際の論文では図版を挿入)
図1:有明海定点観測シリーズ(2016-2025)
図2:TSMCパターンランド建設現場の変遷(2023-2024)
図3:無農薬水田の季節変化(2024年4-11月)
図4:阿蘇大橋崩落と再建(2016, 2020, 2024)
図5:古典レンズによる風景描写の比較
図6:定点観測写真の並置による時間の可視化
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