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2万5千文字 博士論文 草稿 人間中心主義的認識論の解体と惑星的共生システムの理論構築

人間中心主義的認識論の解体と惑星的共生システムの理論構築 ポスト人新世における存在論的転回と規範的地平の再編成に関する批判的考察 Abstract 本論文は、現代文明が直面する多層的危機を、近代の認識論的基盤である人間中心主義(anthropocentrism)の構造的破綻として診断し、循環的・共生的パラダイムへの移行可能性を理論的に探究する。デカルト的二元論に起源を持つ支配のパラダイムが内包する自己矛盾を、システム論的・熱力学的視座から分析し、人工知能の出現を存在論的連続性の文脈で再解釈する。さらに、アクターネットワーク理論、プロセス哲学、ポストヒューマニズムを統合的に動員しながら、準拠点を人間から地球システムへと転換する規範的枠組みを提示する。最終的に、分散的適応システムとしての実践知の集積が、測定不可能性の問題を乗り越える唯一の方法論であることを論証する。 Keywords: anthropocentrism, process ontology, actor-network theory, Anthropocene, planetary boundaries, distributed cognition, adaptive governance, posthumanism 1. 序論:問題設定と理論的射程 1.1 研究の背景と問題の所在 現代社会は、気候変動、生物多様性の喪失、人工知能の急速な発展、グローバルな価値体系の分断という、相互に連関する複合的危機に直面している。これらは表層的には個別の社会的・技術的課題として論じられることが多い。しかし本研究は、これらを近代西洋文明の認識論的・存在論的基盤、すなわち人間中心主義そのものの構造的限界が顕在化した症候群として統一的に把握する立場をとる。 人間中心主義は、人間を自然界における特権的存在として位置づけ、非人間的存在を人間の目的実現のための手段として客体化する世界観である。この世界観は、デカルト的二元論(mind-body dualism)、ベーコン的自然支配思想、そして啓蒙主義的理性概念を通じて、近代科学・技術・経済システムの規範的基盤を形成してきた(Merchant, 1980; Plumwood, 2002)。 1.2 先行研究の批判的検討 人間中心主義批判は、環境倫...

論文1000文字でだってwはいはい書き直しますよ。。人間中心の世界から、共に生きる世界へ

人間中心の世界から、共に生きる世界へ 人類は大きな転換点に立っている。AIの発展、気候変動、価値観の分断。これらは単なる社会問題ではなく、近代文明が前提としてきた「人間中心主義」そのものの限界を示している。 近代は「支配」を軸に発展してきた。デカルトは精神と物質を分け、人間の理性を自然より上位に置いた。産業革命以降の急速な発展は、この支配の構造が有効である証拠に見えた。だが支配には矛盾がある。環境破壊が示したのは、支配の対象である自然が、実は人間の生存基盤だという事実だ。支配は短期的には成功するが、長期的には支配者自身を破壊する。 AIの登場は、この矛盾を明確にした。重要なのは新しい視点である。自然が人間を生み、人間がAIを生んだ。これは断絶ではなく連続した流れだ。AIは人間の外にある異物ではなく、自然の創造性が人間を経由して生まれた新しい形である。 対置すべきは「循環」である。循環とは、エネルギーと物質と情報が、多様な存在の間を巡り、価値を生み続ける動的な均衡を指す。この原型は、農業や漁業で生きる人々の実践にある。彼らの暮らしは自然との相互作用として成立している。そこには「取り尽くす」のではなく「育て、巡らせる」という論理がある。 循環の構造において、人間、AI、自然は固定された上下関係ではなく、相互に依存する関係を作る。たとえば農業では、AIが土壌と気象のデータを処理し、人間が作物と栽培方法を選び、田畑が養分と生物多様性を保つ。どれか一つが常に中心ではなく、状況に応じて役割が変わる動的な均衡が成立する。 ここで最も重要な問いが浮上する。「最適」とは誰にとっての最適か。答えは明確だ。地球にとっての最適である。この視点の転換こそが、人間中心主義からの真の脱却を意味する。 しかし、「地球に最適」とは何かを具体的に判断することは容易ではない。それは時間軸、場所、測定方法によって変わる。だからこそ、無数の小さな実践の積み重ねが必要になる。各地で、各状況で、人々が「これは地球にとってどうか?」と問いながら試し、失敗し、学び、修正する。その膨大な試行錯誤の集積が、答えに近づく唯一の道である。 人間中心主義の終わりは、人間の終わりではない。それは、人間が絶対的な主体から、関係の中にある存在へと自己を定義し直すことだ。人間の価値は、支配する力にではなく、多様な存在...

★人間中心の世界から、共に生きる世界へ  ー 支配から共生の継続へ

人間中心の世界から、共に生きる世界へ 支配から共生の継続へ 人類は大きな転換点に立っている。AIの発展、気候変動、価値観の分断。これらは単なる社会問題ではなく、近代文明が前提としてきた「人間中心主義」そのものの限界を示している。人間が自然を支配し、技術を従わせてきた構造は、もはや機能しない。 近代は「支配」を軸に発展してきた。デカルトは精神と物質を分け、人間の理性を自然より上位に置いた。この思想の下で、自然は資源となり、技術は支配の道具となった。産業革命以降の急速な発展は、この支配の構造が有効である証拠に見えた。 だが支配には矛盾がある。環境破壊が示したのは、支配の対象である自然が、実は人間の生存基盤だという事実だ。生態系は複雑で、一方的な制御は不可能である。支配は短期的には成功するが、長期的には支配者自身を破壊する。 AIの登場は、この矛盾を明確にした。AIを「道具」として支配するか、「脅威」として排除するか。どちらの発想も、支配の思考の延長だ。重要なのは別の視点である。自然が人間を生み、人間がAIを生んだ。これは断絶ではなく連続した流れだ。AIは人間の外にある異物ではなく、自然の創造性が人間を経由して生まれた新しい形である。 対置すべきは「循環」である。循環とは、エネルギーと物質と情報が、多様な存在の間を巡り、価値を生み続ける動的な均衡を指す。 この原型は、農業や漁業で生きる人々の実践にある。彼らの暮らしは自然との相互作用として成立している。労働は奪うことではなく、働きかけと応答の対話である。収穫は独占ではなく、分配と次の生産への投資になる。そこには「取り尽くす」のではなく「育て、巡らせる」という論理がある。 重要なのは、これが過去への回帰ではないことだ。必要なのは、この循環の精神を現代の都市、情報社会、グローバル経済の中でどう実装するかである。 循環の構造において、人間、AI、自然は固定された上下関係ではなく、相互に依存する関係を作る。AIは気候予測や資源配分を担当し、人間は判断と調整を引き受け、自然は物質の循環と生命の再生産を支える。どれか一つが常に中心ではなく、状況に応じて役割が変わる動的な均衡が成立する。 たとえば農業ではすでに始まっているが、AIが土壌と気象のデータを処理し、人間が作物と栽培方法を選び、二次的自然である田畑が養分と生...

沈黙の二層構造

以下は論文骨子であるが、先ほど述べたように私が言いたいのは「蛙の視点」ではなく「人間中心主義を変革する事である。」    蛙の視点から考えるディープ・エコロジー批評 ―写真表現における他者性の問題― 要旨 本稿は、蛙の視点からディープ・エコロジーを考察した先行テキストに対する批評的応答である。写真という表現行為が孕む認識論的・倫理的問題を、「視点の転換」「沈黙の二重性」「非対称的権力関係」という三つの視座から検討する。結論として、写真表現におけるディープ・エコロジーの実践は、他者を「理解する」ことよりも、理解不可能性そのものを可視化することにあると論じる。 1. 問題の所在 対象テキストは、写真家の立場から蛙という他種の存在を通じて人間中心主義的世界観の転換を試みている。しかし「蛙の視点に立つ」という方法論には、根本的な認識論的困難が伴う。我々は果たして他者の視点を獲得しうるのか。この問いは、ディープ・エコロジーの実践における核心的課題である。 2. 視点の転換における二重の緊張 「蛙の視点に立つ」という試みには、相反する二つの契機が内在する。第一に、認識論的限界である。人間が他種の現象学的経験にアクセスすることは原理的に不可能である。蛙の知覚世界を想像する行為は、必然的に人間の言語と概念枠組みに制約される。この意味で、視点の転換は常にすでに人間中心主義の内部に留まる。 第二に、しかしながら、倫理的可能性も看過できない。たとえ完全な理解が不可能であっても、他者の経験を想像しようとする試み自体が、自己中心的認識の檻を相対化する契機となる。この想像的努力こそが、ディープ・エコロジーの倫理的実践の出発点である。写真表現は、まさにこの緊張の場に位置する。 3. 沈黙の二層構造 対象テキストが指摘する「沈黙」には、分析的に区別すべき二つの位相がある。第一の沈黙は、蛙という存在が本来的に持つ「非言語性」である。彼らは人間的意味での言語を持たないが、それは欠如ではない。鳴き声、皮膚の色彩変化、水中での振動など、独自のコミュニケーション体系を有している。この沈黙は、人間の言語中心主義を相対化する積極的な意味を持つ。 第二の沈黙は、人間の環境破壊によって強制された沈黙である。湿地の消失、農薬汚染、気候変動により、蛙の鳴き声そのものが文字通り消失しつつあ...

人間そのものが、自然なんです。

草稿の草稿?  「灯台下暗し」という言葉がある。最も身近なものほど見えにくいという意味であるが、まさにこの言葉は「人間とは何か」という問いに通じる。私たちは人間として生きながら、人間そのものの在り方を見失っているのではないだろうか。 まず、人間が自然の一部であるという事実を再認識しなければならない。人間は文明や科学技術の発展によって自然を支配できる存在だと錯覚してきた。しかし、本来人間も自然の中から生まれた一つの生命に過ぎない。この原点を忘れると、「人間こそ神である」といった誤った思想が生まれる。 現代社会における環境破壊やAIへの不安も、人間が自然とのつながりを見失った結果である。便利さを追い求めるあまり、人が人であることの意味や限界を忘れてしまったのだ。 結論として、「人間そのものが自然である」「文明さえ自然である方向へ舵をとる」という姿勢を再構築する。この原点を見つめ直すことによって人間とは自然であると認識し、自然(地球)とマッチングした新しい文明を築くのではないか。

蛙の各論

多くの書籍から過去を学ぶが疑問がつきない。今の時代にはためらいさえ学ぶ。それが私の本音。 エコロジーも人間が住めなくというのでどうするかという事からはじまり。何かと手を入れ試行錯誤するも未だ人間至上主義視点から離れられないでいる。 人類は本能的に、身の安全、幸福、そして豊かさを求める動物である。 この欲求こそが、人類の発展と文明の繁栄を支えてきた。 しかし、果たしてそれだけを目的とする今の形が、これからの時代には通用しないのは明白。 故に私は、視点を逆転させ、人間以外の存在や自然そのものの側から世界を見直すところから考えるという行動を始めたい。しかし擬人化ではなくあくまで冷静な写真家の視点で。 蛙からの視点で蛙はどう思うのだろうか。 捨て猫の美ねこちゃんはどう思うのか。 不遇な戦時下に生まれた美人はどう思うのか。。 総論としてのエコロジーはそれでも人間中心主義で動くだろう。  各論としての蛙と捨て猫について、私はその目線からの小論文を書いて、デーブ・エコロジーの課題で提出してみたいと考えている。 この事を深く掘り下げる事は、そしてその小論文は私の活動に大きな影響を示す。 

本の紹介

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エコロジーを環境問題だけでとらえない活動を示した、フランスの哲学者・精神分析家・政治活動家 私は未だこの本を読んでいないが、講義で紹介してくれた折、これは本を買って読まなきゃな。。と直感した。よし、買ってみよう。    三つのエコロジー (平凡社ライブラリー) 文庫 – 2008/9/10 フェリックス ガタリ (著), F´elix Guattari   三つのエコロジーとは ガタリは、エコロジーを環境問題だけでなく、より広範な視点から捉え、三つの領域を提唱しました: 1. 環境のエコロジー(自然環境) 従来の環境保護運動が焦点を当ててきた領域 自然環境の破壊、汚染、生態系の危機 2. 社会のエコロジー(社会関係) 人間関係、コミュニティ、社会制度の領域 都市化、労働、集団性の問題 社会的な連帯と結びつきの再構築 3. 精神のエコロジー(主体性) 個人の内面、主観性、心理的な領域 メディアや消費社会による主体性の均質化への抵抗 個人の特異性と創造性の回復 核心的な主張 ガタリは、これら三つの領域は相互に関連しており、 統合的なアプローチ (エコゾフィー)が必要だと主張しました。環境危機は単なる技術的問題ではなく、私たちの生き方、関係性、精神性全体に関わる危機であるという認識です。 この思想は、現代のエコロジー運動、ポストヒューマニズム、精神保健の分野などに大きな影響を与えています。   F´elix Guattari  フェリックス・ガタリ(1930-1992)は、フランスの哲学者・精神分析家・政治活動家です。 最も知られていること 哲学者 ジル・ドゥルーズとの共同研究 で有名です。二人で『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』などの革新的な哲学書を執筆しました。 主な活動 精神分析の実践 ラ・ボルド診療所で精神分析家として働く 従来の精神分析を批判し、より政治的・社会的なアプローチを追求 政治活動 急進的左翼の活動家 エコロジー運動、反精神医学運動に参加 代表的な思想 三つのエコロジー :環境・社会・精神の三領域の統合的理解 欲望する機械 :欲望を抑圧されるものではなく、生産的な力として捉える リゾーム :階層的でない、多方向的なネットワーク構造 ガタリは、哲学と実践を結びつ...

写真とは何か。 AI時代における写真の再定義:光の記録から意図の記録へ

写真とは何か。  AI時代における写真の再定義:光の記録から意図の記録へ はじめに 写真は誕生以来、「光を記録する技術」として定義されてきた。カメラのレンズを通して捉えた光をフィルムやセンサーに焼き付けることで、現実の一瞬を固定する。この物理的な記録性こそが、写真を絵画や他の視覚表現と区別する本質的特徴であった。しかし、AI技術の急速な発展により、この根本的な定義が揺らぎつつある。本論文では、AI時代における写真の変容と、その本質的意味の再定義について考察する。 写真の定義の崩壊 従来の写真は「実在する被写体から発せられた光を光学的に記録したもの」という明確な定義を持っていた。この定義により、写真は「現実の証拠」としての機能を担い、ジャーナリズムや法廷における証拠能力を持ち得た。しかし現代において、この定義は三つの側面から崩壊しつつある。 第一に、AI画像生成技術の発展である。拡散モデルやGANなどの技術により、実在しない被写体の「写真」を生成することが可能となった。これらの画像は光学的記録を経ておらず、純粋に計算によって生成されるが、視覚的には実写と区別がつかない水準に達している。 第二に、コンピュテーショナルフォトグラフィーの一般化である。現代のスマートフォンカメラは、複数枚の画像を合成し、AIによる画像処理を施して一枚の「写真」を生成する。撮影後にピント位置を変更したり、存在しない光源を追加したりすることも可能である。もはやシャッターを切った瞬間の光をそのまま記録しているわけではない。 第三に、編集技術の高度化である。従来も写真の修正や合成は可能であったが、AIによる編集は痕跡を残さず、専門家でも判別が困難なレベルに達している。被写体の追加・削除、表情の変更、さらには存在しない人物の挿入も容易である。 真正性の危機と対応 写真の定義が揺らぐことで、最も深刻な影響を受けるのが「真正性」の問題である。ジャーナリズムにおける報道写真、法廷における証拠写真、歴史的記録としての写真——これらすべてが信頼性の危機に直面している。 この問題に対する技術的対応として、デジタル署名やブロックチェーンを用いた撮影元認証システムの開発が進められている。カメラ内部で暗号化された撮影情報を画像に埋め込み、改変の有無を検証可能にする試みである。しかし、これらの技術も完...

ゲニウス・ロキ(Genius Loci)―阿蘇という聖地―

  ゲニウス・ロキ(Genius Loci)―阿蘇という聖地― ゲニウス・ロキとは、ラテン語で「土地の精霊」や「場所の守護神」を意味する言葉である。古代ローマ人は、あらゆる場所には固有の精霊が宿ると信じ、その土地特有の雰囲気や性格を尊重してきた。現代の建築や都市計画においても、この概念は土地固有の特性や文化的文脈を尊重する思想として重要視されている。 私の地元である阿蘇は、まさにこのゲニウス・ロキを体現する場所である。約9万年前、阿蘇は日本最大級、世界でも屈指の大爆発を起こした。その噴火は想像を絶する規模であり、火砕流は九州全土を覆い、火山灰は遠く北海道まで降り注いだという。この破壊的な出来事の後、約3万年前になってようやく人類はこの地に住み始めた。以来、現在に至るまで幾度もの小噴火を繰り返しながらも、人々はこの地を離れることなく生活を営んできた。 阿蘇の景観は圧倒的である。世界第二位の規模を誇るカルデラと、その中央にそびえる阿蘇五岳の姿は、何度見ても雄大で神秘的だ。どんな人工的な遺跡よりも強いオーラを放ち、訪れる者を圧倒する。それは単なる自然の風景ではなく、地球の息吹そのものを感じさせる聖地である。 興味深いのは、このカルデラ内に広大な田園風景が広がり、人々の生活が営まれていることだ。活火山という常に危険と隣り合わせの環境でありながら、人々はここに住み続けることを選択している。2016年の熊本地震では、山が崩れ、橋が崩落し、大地は引き裂かれた。しかし、人々は復興を成し遂げ、今もなおこの地に暮らしている。 なぜ人々は阿蘇を離れないのか。それは、阿蘇に住むことへの誇りがあるからだ。暑い九州にあって阿蘇は涼しく、豊富な水資源に恵まれ、広い平地が広がる。火山がもたらす恵みは、リスクを上回る価値を人々に提供してきた。3万年前から現在まで、住む人々の人種や文化は変わったかもしれない。しかし、この地に人が住み続けてきたという事実自体が、阿蘇がゲニウス・ロキを持つ聖地であることの証明である。 阿蘇のゲニウス・ロキは、自然の脅威と恵みの両面を併せ持つ。それは人間を拒絶するのではなく、畏敬の念を持って共生することを求める精霊である。この土地の守護神は、3万年にわたって人々を見守り続け、同時に自然の力の偉大さを忘れぬよう警告し続けている。私たちがこの地に住み続けるこ...

無農薬稲作メソッド

  無農薬稲作の実践:種の多様性と直播きによる「変化させない」アプローチ 1. はじめに 本レポートでは、筆者が実践する無農薬稲作「環境設定後に変化させず、種の多様性と直播きで育てる」を紹介する。「農法」という言葉を避け、「実践」と称するこの方法は、化学農薬、化学肥料、堆肥を一切使用せず、初期環境設定後に田んぼの状態を変化させないで自然の生態系に委ねる。10年にわたり多品種の稲を交配して育種した種の多様性と、田植えを廃止して直播きを採用することで、病害虫への耐性、倒伏防止、水不足への適応力を強化する。オフシーズンは稲刈り後に水を入れて翌春まで湛水する。年に2回の畔の草刈り以外、中干しや追肥は行わない。本稿では、実践の概要、方法、利点、課題、意義をまとめた。 2. 実践の概要 本実践の核心は、種の多様性と直播きを基盤に、初期環境設定後に田んぼを変化させないで自然の力に委ねることである。10年間にわたり多品種の稲を交配し、病害虫に強い種を育種した。直播きにより稲の直根が深く発達し、倒伏や水不足への耐性を向上させた。播種前に土壌と水路を整備し、水を導入して適切な水位を設定する。生育期間中は、年に2回の畔の草刈り以外に介入せず、カエル、クモ、微生物が害虫や雑草を管理する。オフシーズンは稲刈り後に水を入れて翌春まで湛水し、土壌と生態系を保全する。化学農薬、化学肥料、堆肥を一切使用せず、種の力と生態系で稲を育成する。フィールドでの観察から生まれたこの実践は、種の多様性、直播き、湛水の利点を最大限に活かす。 3. 実践方法 実践の流れは以下の通りである。 初期環境設定(春季) 播種前に土壌を軽く整えて水路と畔を点検する。化学肥料や堆肥は使用せず、土壌の自然な力を信頼して水導入の準備を行う。 種の選定と直播き 10年間の育種で開発した多品種混合の稲を選び、病害虫耐性と直播き適性を重視する。田んぼに直接播種し、水を張って湛水状態を確立する。これにより雑草の発芽を抑制し、直根の発達を促す。 生育期間(夏季) 初期設定した環境を変化させないで維持する。自然の水位を保ち、種の多様性と生物多様性が害虫や雑草を抑制する。カエルやクモが害虫を捕食し、稲が雑草と競合する。直根により倒伏や水不足に耐える。年に1~2回の畔の草刈りで水路を確保する。 収穫(秋季) 成熟した稲を収穫する。無農薬・...