もったいない 提出忘れて不合格になった論文 もう単位あるからええけど
① 「AIは統計的、人間は意図的」という図式の陳腐さについて この二項対立は、2010年代後半から現在まで、AI論において繰り返されてきた最も典型的な語り口です。しかし、この図式には少なくとも三つの問題があります。 第一に、現実の単純化です。AIが「ただの統計」であるという理解は、もはや不正確です。大規模言語モデルは、単なるパターンマッチング以上の振る舞いを見せています。文脈を考慮し、推論らしきプロセスを経て、時には訓練データに直接含まれない新しい組み合わせを生成します。一方で、人間の創造性も実は多くの場合、過去の経験の統計的な組み合わせに近いことが認知科学で示されています。つまり、この対比は両者を誤って単純化しているのです。 第二に、思考停止を招く点です。「AIには意図がない、人間にはある」と言った瞬間、議論は終わってしまいます。では意図とは何か? 意図があるように見えるAIの出力と、意図なく作られた人間の作品(偶然や自動筆記など)をどう区別するのか? こうした深い問いが回避されてしまうのです。この図式は、考察を深めるのではなく、安心感を与えるための常套句になっています。 第三に、すでに陳腐化しているという事実です。AI技術が登場するたびに、人間の優位性を語る言説は「次の防衛線」へと後退してきました。チェスでは「直感」、囲碁では「大局観」、そして創作では「意図」へと。しかし毎回、その境界線は曖昧になっていきます。「人間には意図がある」という主張は、将来「AIにも意図らしきものがある」と認めざるを得なくなったとき、次の防衛線を探すための一時的な陣地に過ぎません。 より生産的な議論は、「人間 vs AI」という対立構造そのものを疑うことから始まります。たとえば、AI生成物に感動する人間の経験は本物か? 創作における「オリジナリティ」という概念自体がすでに神話ではないか? あるいは、AIの登場によって初めて、私たちは「人間の創造性」というものを本当に理解できるようになるのではないか? こうした問いの方が、はるかに刺激的で生産的です。 「AIは統計的、人間は意図的」という図式は、安心できる物語ではありますが、もはや知的な議論の出発点としては機能しません。それは思考...