新写真論 微小位相差論 YOSHIRO SHINKAWA
微小位相差論――写真による存在の記述
新川芳朗
京都芸術大学大学院 芸術研究科 写真映像領域
2025年11月18日
微小位相差論,Thinking to Zero,Zero Ground,Altered Landscape,
Photographed in 2016
Created in 2025
YOSHIRO SHINKAWA
序論:概念を創るということ
写真は何を記録するのか。40年の実践を経て、私は通常とは異なる答えに到達した。写真は光を記録するのでもなく、時間を固定するのでもない。写真は存在の重層性を露わにする装置である。
本論文で提示する「微小位相差」は、証明を求める理論ではない。それは新しい概念の創造である。ドゥルーズとガタリが述べたように、哲学の仕事は概念を創ることにある(Deleuze & Guattari, 1991)。私は写真家として、写真という特異な行為を通じてのみ可能な概念を創る。
**時間は存在しない。**少なくとも、私たちが信じているような直線的な時間は。過去も未来も、今ここに重なり合って存在している。写真を撮るという行為は、この重なりから一つの層を選び取り、定着させることである。しかし定着されなかった他の層は消えたのではない。それらは微小な位相差を持って、なお存在し続けている。
第1章:連続撮影という方法論
1.1 実験の設計
2016年より、私は同一地点で定点的に撮影を続けてきた。仮に1秒間隔で1時間撮影すれば、3600枚のコマが得られる。
これらの画像を並べて見る時、何が起こるか。
各コマは明確に「異なる瞬間」を示している。雲の形が変わり、光の角度が変わり、波の形状が変わっている。しかし同時に、地平線、防波堤、遠くの山並みといった不変要素により、それらは「同一の場所」であることが保証されている。
1.2 矛盾の発見
結果として観察者は、矛盾した認識に直面する。
- これは同じ場所である
- しかし同時に、これらは異なる時間である
- ならば、同じ場所に異なる時間が共存しているのではないか
この認識こそが、微小位相差の直接的体験である。
写真が捉えるのは光ではない。写真が捉えるのは選択である。シャッターを切る瞬間、写真家は無限の可能性から一つを選び取る。しかし選ばれなかった可能性は消滅するのではない。それらは別の位相として、選ばれた現実と微小な差異を持って共存し続ける。
第2章:微小位相差の定義
2.1 概念の核心
微小位相差とは、同一の時空座標上に、無限に近い微小なずれを持って複数の状態が重層的に存在するあり方を指す。
この定義において重要なのは、以下の三点である:
1. 同一性と差異の共存
完全に同一でもなく、完全に分離してもいない。微小だがゼロではない差異がある。
2. 重層性
一つの状態が他の状態を排除するのではない。すべての状態が同時に存在している。
3. 観察の相対性
どの状態を「現実」として認識するかは、観察者の位相に依存する。
2.2 量子力学との関係
これは量子力学における重ね合わせを想起させる。しかし私が主張するのは、物理学的な対応関係ではない。むしろ逆である。
量子力学が数式で記述しようとしているものを、写真は視覚的に、直接的に提示できる。シュレーディンガーの猫は思考実験だが、微小位相差は撮影可能である。
第3章:時間の再構成
3.1 時間の厚み
通常、私たちは時間を直線として理解する。過去から現在へ、現在から未来へと、一方向に流れる連続体として。
しかし写真を通して世界を見る時、この理解は崩れる。
連続撮影された画像群において、どれが「過去」でどれが「現在」なのか。それは並べ方に依存する。
- 時系列に並べれば、左から右へ時間が流れるように見える
- ランダムに配置すれば、時間の方向性は失われる
- 重ねて表示すれば、すべての時間が同時に存在する
ここから導かれるのは、**時間とは存在そのものの性質ではなく、観察者が構築する秩序だということである。**時間は「ある」のではない。時間は「作られる」のである。
3.2 時間の非実在性
微小位相差論において、時間は厚みを持つ。任意の瞬間tは、実際には [t-δ, t+δ] という幅を持つ。この幅の中に、無数の微小に異なる状態が重なり合っている。
私たちが「今」と呼ぶものは、この重なり合いの総体である。
過去は消えていない。未来はまだ来ていないのではない。すべては、異なる位相として、今ここに共存している。
3.3 エントロピーの相対性
熱力学第二法則は、閉じた系においてエントロピーは増大すると述べる。秩序から無秩序へ。これが時間の矢を定義すると考えられてきた。
しかし微小位相差の観点からは、これは観察者の位相選択の結果である。
ある位相系列を追跡すれば、確かにエントロピーは増大する。コップから溢れた水は床に広がり、元には戻らない。しかし別の位相系列では、水は床から集まりコップに戻る。
両方の系列が同時に存在している。私たちが前者のみを「現実」として認識するのは、私たちの観察が特定の位相に固定されているからである。
第4章:写真史との対話
4.1 「それは=かつて=あった」の解体
ロラン・バルトは、写真の本質を「ça-a-été(それは=かつて=あった)」と定義した(Barthes, 1980)。写真は、過去に確かに存在したものの痕跡である。
微小位相差論は、この定義を根本から覆す。
写真が示すのは「かつてあった」のではない。写真が示すのは「今もある」である。より正確に言えば、写真が示すのは**「かつて」と「今」と「これから」が微小位相差で重なり合っている状態**である。
バルトが「過去」と呼んだものは、単に私たちが選択した一つの位相に過ぎない。
4.2 決定的瞬間の不可能性
アンリ・カルティエ=ブレッソンは、「決定的瞬間(moment décisif)」という概念を提唱した。すべての要素が完璧に配置される、唯一の瞬間。
**しかしこの考えは、瞬間が単一で分割不可能だという前提に立っている。**微小位相差論は、この前提を否定する。
どんな瞬間も厚みを持つ。「決定的瞬間」と呼ばれるものは、実際には無数の微小に異なる瞬間の重なり合いである。
同じ場所に立ち、0.1秒後にシャッターを切れば、別の「決定的瞬間」が得られる。両方が等しく「決定的」である。あるいは、どちらも決定的ではない。
4.3 写真の客観性という幻想
写真は客観的である――この信念は、写真史を通じて繰り返されてきた。カメラは機械であり、人間の主観を排除する。
しかし微小位相差論において、客観性は存在しない。
なぜなら、どの位相を選択するかは、常に観察者に依存するからである。カメラが「客観的に」記録するのは、写真家が選択した位相であり、その選択はすでに主観的である。
客観性という概念が意味を持つのは、唯一の現実が存在すると仮定する場合のみである。しかし現実が重層的であるならば、客観性は原理的に不可能である。
第5章:AI時代における写真
5.1 真正性の危機
2020年代、拡散モデル(Stable Diffusion, DALL-E, Midjourney等)の登場により、写真の定義は根本的に揺らいだ。
AIは、実在しない被写体の「写真」を生成できる。カメラを使わず、光を記録せず、しかし視覚的には写真と区別がつかない画像を作り出す。
これは写真の危機なのか。
5.2 意図の記録としての写真
従来の定義――「写真は光の記録である」――に従えば、確かに危機である。しかし微小位相差論は、別の視点を提供する。
写真の本質は、光の記録ではない。写真の本質は、意図の記録である。
誰かが、何かを見せたいと思う。その意図が、画像として定着される。これが写真である。
カメラを使うか、AIを使うか、あるいは絵筆を使うかは、本質的な違いではない。重要なのは、ある位相が選択され、提示されることである。
5.3 偶然性の有無
では、カメラによる写真とAI生成画像の違いは何か。
それは、物理的世界との接触の有無である。
カメラによる写真は、光という物理的実体と接触した結果である。そこには、撮影者の意図だけでなく、世界の偶然性も刻まれている。風が吹き、雲が動き、予期しない何かが画面に入り込む。
AI生成画像には、この偶然性がない(あるいは、偶然性すらも計算されている)。すべてが意図の範囲内にある。
微小位相差論の観点からは:
- カメラ写真 = 撮影者の位相と世界の位相が干渉した結果
- AI生成画像 = 生成者の位相のみが反映された結果
どちらが優れているかではない。それらは異なる種類の画像であり、異なる目的に適している。
5.4 真正性という幻想
「この写真は本物か、AIか」という問いは、実は意味がない。
なぜなら、**カメラ写真もすでに「作られた」ものだからである。**構図の選択、露出の決定、現像処理、プリント。すべてが撮影者の意図による操作である。
「ありのままの現実」を写した写真など、存在したことがない。
AI時代が明らかにしたのは、写真が常に持っていた性質――構築性、操作性、意図性――である。
第6章:運動の起源
6.1 なぜ変化が存在するのか
完全な同一性(δ=0)は静止を意味する。すべてが完全に同じであれば、変化は起こらない。
逆に、完全な分離(δ→∞)は相互作用の不在を意味する。二つの存在が無限に離れていれば、互いに影響を与えることはできない。
運動、変化、そして生命が可能であるのは、微小だがゼロではない位相差が存在するからである。
この微妙な差異こそが、宇宙に動性を与える。
6.2 写真における運動の記録
動きをどう写すか――これは写真史における永遠の問いである。
シャッタースピードを速くすれば、運動は凍結される。遅くすれば、ブレとして記録される。しかしどちらの方法も、運動そのものを捉えることはできない。
微小位相差論において、運動とは位相の遷移である。
ある状態から別の状態へ、位相がシフトする。しかしすべての中間状態は、微小位相差として共存している。写真は、この共存を一枚の画像に圧縮する。
ブレた写真が「失敗」ではないのは、それが運動の重層性を可視化しているからである。
第7章:実践への示唆
7.1 撮影における意識
微小位相差論は、撮影行為をどう変えるか。
従来の意識:「決定的瞬間を逃さないように」
新しい意識:「どの位相を選択するか」
シャッターを切ることは、現実を記録することではない。それは、無数の可能な現実から一つを選び取る行為である。
そして選ばれなかった現実も、消えることなく、微小位相差として存在し続けている。
7.2 古典技法の再評価
デジタル写真の完璧さは、実は位相の単一化をもたらす。現代のレンズは極めて鮮明で、画像処理は極めて正確である。
しかしその完璧さは、他の可能性を排除する。
古典技法の「不完全さ」――ピントの甘さ、収差、粒子の粗さ――は、実は位相の多重性を保持する。これらは欠陥ではなく、微小位相差が画像に現れる通路である。
7.3 観察者の変容
微小位相差を意識して撮られた写真を見る時、観察者はしばしば奇妙な感覚を報告する。
画像は明確に「記録」であり、何も操作されていない。しかし同時に、何か「ずれている」感覚がある。
この感覚こそが、微小位相差の体験である。
観察者は、提示された位相を見ながら、同時に他の位相の存在を感じ取っている。見えているものと見えていないものが、微小な差異で重なり合っていることを、直感的に理解している。
結論:写真とは何か
40年の実践を経て、私は次のように答える。
写真とは、微小位相差で重層的に存在する世界から、一つの位相を選択し、定着させ、提示する行為である。
この定義は、以下の含意を持つ:
時間の再定義
時間は流れない。時間は厚みを持って共存する。
現実の複数性
唯一の現実は存在しない。無数の位相が重なり合っている。
観察の能動性
見ることは、選択することである。そして選択は、世界を変える。
真正性の相対化
本物も偽物もない。あるのは、異なる位相の提示である。
写真の本質
写真は光の記録ではなく、意図の記録である。
後世への問いかけ
本論文で提示した概念は、証明を求めない。それは提案された視点である。
私がこの概念を提示するのは、それが「正しい」からではない。それが有用かもしれないからである。
いつか誰かが、写真について考える時。時間について考える時。存在について考える時。この概念が、思考の一つの足場となるかもしれない。
概念は、創った人間の所有物ではない。概念は、思考の共有財産である。
参考文献
Barthes, R. (1980). La Chambre claire: Note sur la photographie. Gallimard.
Bergson, H. (1896). Matière et mémoire. Félix Alcan.
Deleuze, G., & Guattari, F. (1991). Qu'est-ce que la philosophie? Minuit.
Merleau-Ponty, M. (1945). Phénoménologie de la perception. Gallimard.
Sontag, S. (1977). On Photography. Farrar, Straus and Giroux.
謝辞:40年の写真実践を支えてくれたすべての人々に感謝する。特に、私の理論を「馬鹿げている」と一蹴せず、「面白い」と言ってくれた人々に。概念は、対話の中で育つ。

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