投稿

ラベル(不二子はん)が付いた投稿を表示しています

第12章 アルマーとの散歩 563話

幼きアルマーはよしろうはんの後をついて歩く。可愛らしい姿に何度も振り向いてはこっちだと手を差し伸べた。   今歩いてるアルマーは凛とした姿勢でよしろうはんと並行して歩く。 美しいアルマーと歩くよしろうはんは終始笑顔が絶えなかった。 「おとうさん。きょうはあの水源迄歩きましょうか」  ええよ。 「木山川の水源やろ、ちょっと時間かかるで」 はい。 「おとうさんが大丈夫ならあの水源の透き通った美しい水をまた見たい」 よっしゃ。行くか。 はい。 伏流水である水源の水は白糸の滝の水とは違う。澄んだ青い水だ。 そして波打っていなく木々が水面に写っている。 「着きましたね。おとうさん。わたしここがこの辺りでは一番好きなんです」  そうだな。 「アルマーがまだ小学生の頃ここに連れて来た。いつまでも帰ろうとしなかったな」  はい。 帰る姿の様子が違っていた。アルマーの中には子供が宿っていた。 よしろうはんの姿もなかった。 一緒に並ぶのは鰹縞の着物姿で歩く不二子はんであった。  

第12章 時代設定の崩壊 562話

終章の1000話を先に書き記したことで、残る438話は瞬時に時間を位相する。 読みにくいかもしれないが、これが不二子文学となる。。   注釈 562話、拝読しました。 「時代設定の崩壊」という章題が、すでに宣言そのものですね。1000話という終着点を先に書いてしまったことで、残りの438話は線形な時間軸から解放された。物語内の時間が、微小位相差論における「揺れ」と同じ構造をとり始めている。 読みにくさは欠陥ではなく、この文学の本体なのだと思います。読者が「次に何が起きるか」を追う読み方をいったん手放さないと入れない構造になっている。アルマーの百年を書くということは、時間の順序ではなく、位相の重なりとして書くということなのでしょう。 霧の中でよしろうはんが消えた後、今度は時代設定そのものが崩壊する。不二子はんという物語が、自分自身の時間軸を食い始めている感じがします。  

第12章 ふところの想い 562話

よしろうはんの本音は別にあった。 それはもう二度と言葉に言えない。 二度も言ったのだから。 なんだろうな。 なんだろうか。 消えない。

第12章 女の目 561話

女性の目線ほど正直なものはない。 顔には出さないが目が語っている。 よしろうはんは怖いくらい知っている。 不二子はんの目。アルマーの目。いつか紹介したがルネの目。モナリザの目。友人の目。 多くの女性は目を見ない。 それでも気配で分かるのだろうか。 不思議だ。 さて。 程々で。   

第11章 15歳のアルマー 560話

よしろうはんは夢から覚めた。長い夢は自分の死期や成長したアルマーや不二子はんの未来を見ていた。起き上がって彼はこう思った。 「また内容が変わっていたわ。まあ悪いもんでもなかったかもな」  アルマーと不二子は炊事場で楽しげに朝食の準備をしている。いつもの和やかな景色だ。 「おはようさん」 「おはようさんどす。よしろうはん」「お父さんおはようございます」 「おうおう、きょうもええ匂いや、ぼく様がコーヒー淹れるで」 へー 「お父さん。冷たいレモン水が冷蔵庫に冷えてます」 「おーそうか それも頂こう。ありがとなアルマー」 有明海長浜のあさりの貝汁 きゅうりのタタキごま醤油 アジ子の南蛮漬け 畑の野菜のピクルス にこにこ笑うよしろうはん。 べっぴんさんを毎日見て暮らすのはさぞご機嫌なんだろう。 彼は今朝の夢を頭の中でリプレイしていた。 終わりを知れば、いまがどんなに幸せなのか。そしてどんなに大切な時間なのかを感じていた。そしてそれはだれにでも当てはまるものや。知るのも悪ない。

第11章 18年後のアルマーの父 559話

アルマーは父と会った。 父はアルマーと同じ青い目をしていた。 年の頃は八十近い。 小さな礼拝堂の中で、アルマーは静かに跪いた。 おとうさん。 父。 お父上。 なんと呼べばよいのかわからなかった。 神父が先に口を開いた。 「アルマー」 アルマーは顔を上げた。 「お父様……」 神父はしばらく娘を見つめた。 「長い間、会おうともしない父を許してくれ」 アルマーに言葉はなかった。 沈黙だけが礼拝堂を満たした。 長い、長い沈黙だった。 やがてアルマーは言った。 「お父様。私は幸せに暮らしております。これも神とお父様のお導きによるものと思っております。どうかご心配なさらないでください」 神父はうつむき、静かに涙を流した。 それ以上、二人は多くを語らなかった。 別れ際、神父が言った。 「お母さんのマリアも元気だ。私たちは今、一緒に暮らしておる。いつでも訪ねて来なさい」 アルマーは小さく頷いた。 「はい」  

第11章 十七年後 557話

美しい娘になったアルマー。 よしろうはんは毎日笑顔で暮らしていた。 「不二子はん。娘は綺麗やな」  へー 「毎日そればっかりや(笑)」 せやねん 「不二子はん、娘の父親の国 フィンランドへ行かへんか」 へー 「行きましょう」  「息子もそこへ留学させた。美しい国だという。ぼく様も見て見たいわ」 へー 「そうどしたな。19代目は正真正銘の江戸っ子で育ってはる」 「アルマーも17歳か、ええ年頃や。自分のルーツを教えるのもいい」 「まだ、田んぼがあるえ?」 「そやな。そやけど思いついたが吉日。不二子はん。アルマーと先に旅立ってくれ、ぼく様はあとで行くから」 へー 「アルマー、おいでさかい」 「はい。お母様」 「アルマー、あなたの父の国へ行きましょ」 「父?」 そうであった。アルマーは本当の父のことを何も知らなかった。 「おとうさん。私の父はどんな方なんですか?」 そうやな 「神父さんでフィンランドで生まれた方や。アルマー。ぼく様も知らんねん。ごめんな」 「そやからお父さんがうちとフィンランド見てこいと言ってはるねん」 しばらく遠くを見つめるアルマー 「はい、しかし私は行きません。できることなら父に会いたいです。父はこの日本にいますから」 不二子とよしろうはん。 静かにアルマーの心中を見つめていた。

第終章 霧 1000話

よしろうはんは息を引き取った。 しかし不二子はんもアルマーも、目を開けることはなかった。 遺体も遺書も、全て霧のように消えてしまった。

第終章 生還 999話

Biosphere lifespan   よしろうはんが目を開けた。 アルマーが息を呑んだ。不二子はんは動かなかった。 「おとうさん」とアルマーが言う。  「まだおったんか」とよしろうはんは言うた。 「おりますえ」と不二子はんは言うた。「270年、ずっとここに」 よしろうはんはゆっくり起き上がった。窓の外に、庭が見えた。風が草を揺らしていた。 「地球が生きている間は」と、よしろうはんはぽつりと言うた。「人も生きていられる。そういうことやと思う」 100歳のアルマーが手を伸ばした。よしろうはんはその手をやんわり握った。 「心配するな。まだ書き終わっていない」 不二子はんは少し笑うた。 「あしたが、まだ待ってますえ」 風がもう一度、庭を渡った。

第11章 四年後 556話

アルマーもすっかり大きく育ち、不二子とお散歩している。 女の子は小さいうちからよく喋る。 よしろうはんは毎日男の子との違いに驚いたり感心したり。 「不二子はん、なんで女の子はこんなようけ喋るんか?」 へー 「なんでかうちにもわかりませんわ(笑)そやけど女子はしゃべらんいうのはありまへんで」 「そないなもんか」 へー 「前によしろうはんは、なんで女子は甘いもんがすきなんや?聞きはったやろ」 うん 「女子は思うで。なんで甘いのが嫌いなん?わからへん。それと同じどすえ」 ほう 「ま、ええこっちゃ。賑やかで。息子ら帰ってきても黙っとる。兄弟かてそうや。なんも話もせん。まあ、それでええんやけど」 へー 「うちら女子には理解できまへん(笑)」 まだ朝の空気が肌寒い梅雨入りの頃 と或る日の和やかな一日だった。

第11章 マリアの回答 555話

帰郷した不二子はんとよしろうはんは家にも戻らず、そのままマリアに会った。 状況を話すとマリアは深い安堵のため息をついた。 「良かったです。元気で。養子の件は私には決める資格はもうございません。あなた方なら安心です。よろしくお願いいたします」   その日の夕暮れ時に家へ帰った。  不二子はんたちも疲れたようであったが、なにやらにこにこしてはる。 「不二子はん。よかったな」  へー 「うちも嬉しいで。もうひと月もすればここに女の子が居る」 そうやな 「なんども言うけど、女の子が欲しかってん」 へー 「よう知ってます。なんども聞かされましたさかい、肩の荷が降りました」 そう? 「冗談どす。あの子の目を見て決めました。美しい青い目」 そやな。 ふたりはそのまま寝入ってしまった。

第11章 アルマーに会う 554話

教会から長い道のりを歩く。 港には漁師が待っていた。 漁師が言う。 「あんたらの言いよった子どんなら、わかったばい」 不二子とよしろうが見合う。 へー 「ほんまでっか?どこにいはる。その子は」 「小値賀のマリアのお袋さんが預かっとるとよ」 「そうか、お願いがありますえ。案内してもらえんやろか。うちらここは知りまへん」 「よかばい。乗れ乗れ、船ば出すけん」 漁師が案内した先は龍の目の石があるポットホール付近の村だった。 簡素な家に老婆と幼児がいた。 「アルマーや」 よしろうはんが叫んだ。 不二子はすかさずアルマーに近づいた。 青い目の女の子だった。 老婆が聞く。 「あんたたちは、この子とどういうお知り合いですかな」 へー と不二子は答え、いきさつを伝えた。 老婆は考えていた。 「見ての通り、うちも歳ば取ったとです。この子もまだ、うちには慣れとらんとです」 しばらくして続けた。 「娘が望むなら、それでよかですたい。ただ、娘のマリアに聞いてもらえんですやろか」 不二子は 「へえ」 とだけ静かに伝えた。

第11章 野崎島へ 552話

イメージ
ふたりして北へ向かう。 アルマーは何処。 よしろうはんの気持ちは決まっていた。 不二子の想いも定まっていた。 長崎の大村湾に教会があり、アルマーらしき幼子を知っているという。 列車に乗り長崎へ。 白い教会が建っていた。 神父に会い情報を聞く。 おそらく五島列島の 小値賀島 あたりだという。 船に乗り、  小値賀島 へたどり着いた。 地元の漁師に聞いた。 「この地の教会はどこでしゃろか?」  「あれや」  漁師が指さした先は隣りの島やった。 「野崎島に教会はある」  そう漁師が言った。 「連れて行こうか」 漁師が言う。 へー 「お願いいたします」  漁師の船に乗り野崎島へ向かう二人。 ここは無人島になった島という。 青すぎる紺碧の海に白波がざわめいていた。     

第11章 養子 551話

お茶が二杯目になった頃、不二子はんが言うた。 よしろうはん。 なんやろ。 アルマーのことなんですけど。 うん。 うちらが引き取るいうことは、できますやろか。 よしろうはんは茶碗を両手で包んだ。 しばらくそのままでいた。 実はな、僕様も同じこと考えとった。 不二子はんは少し驚いた顔をした。 迎えが来んかったもんは、残りますやろ。 残るな。 残ったもんは、居場所を探しますやろ。 そうやな。 よしろうはんは窓の外を見た。 山は暗うなっとった。 マリアもそうやったな。 不二子はんはゆっくり頷いた。 しばらく二人とも黙っとった。 お茶の音もせんかった。 まずは見つけなあかんな。 よしろうはんが静かに言うた。 そうですね。 不二子はんも静かに答えた。 けれど二人とも、もう探すだけの話ではなくなっていることを知っていた。

第11章 手がかり 549話

修道院は廃墟やった。 石の壁だけが残っとった。 屋根はなかった。 窓枠もなかった。 草が石の間から生えとった。 不二子はんは中に入った。 広場のようなところに出た。 かつては礼拝堂やったのやろ。 祭壇の台座だけが残っとった。 十字架はなかった。 静かやった。 風が通った。 草が揺れた。 それだけやった。 不二子はんは台座の前に立った。 何を祈ればええか分からんかった。 祈らんかった。 ただ立っとった。 隅に小屋があった。 石造りの小さな建物やった。 扉が半分開いとった。 中をのぞいた。 棚があった。 棚の上に箱があった。 埃をかぶっとった。 不二子はんは箱を手に取った。 重かった。 木の箱やった。 蓋を開けた。 帳面が入っとった。 何冊も。 文字は読めんかった。 言葉が違うた。 けれど、名前は読めた。 名前だけは、どこの言葉でも名前やった。 ページをめくった。 めくった。 めくった。 あった。 Maria。 その下に、小さな字で。 Alma。 不二子はんはそのページをしばらく見た。 日付があった。 生年が書いてあった。 それだけやった。 それで十分やった。 糸は続いとった。

第11章 迎える旅 548話

不二子はんは朝早う起きた。 宿の窓から山が見えた。 昨日より近い気がした。 朝飯を食うた。 味噌汁と飯だけやった。 それで十分やった。 荷物をまとめた。 地図を広げた。 山の奥の修道院。 名前も場所もはっきりせん。 それでも方角は分かる。 そこへ向かえばええ。 坂道を登り始めた。 朝の空気は冷たかった。 木々の間から光が差しとった。 歩きながら、不二子はんは考えた。 アルマーはもう大人のはずや。 マリアが死んで、何年経つ。 あの子はどんな顔をしとるやろ。 マリアに似とるやろか。 神父に似とるやろか。 分からん。 会うてみなければ分からん。 道が細うなった。 人の気配がなくなった。 鳥の声だけがした。 それでも不二子はんは歩いた。 足が痛かった。 構わんかった。 昼前に、小さな集落に出た。 老人がひとり、縁側に座っとった。 不二子はんは声をかけた。 この先に修道院はありますか。 老人はしばらく不二子はんを見た。 それから山の上を指さした。 あるにはある。 けど、もう誰もおらんよ。 そうですか。 不二子はんはそう言うた。 それだけ言うた。 それでも足を止めへんかった。 誰もおらんでも、記録は残っとるかもしれん。 記録が残っとるなら、糸は続いとる。 山道はまだ続いていた。

第11章 旅へ 547話

不二子はんは旅に出た。 どこへ行くのか、決めていたわけやない。 ただ、アルマーという娘がおる。 それだけを頼りに歩き始めた。 マリアの子。 神父の子。 そして、よしろうはんが長いこと気にかけていた子。 生きとるらしい。 それだけしか分からん。 けれど、生きとるなら会えるかもしれん。 会えんかもしれん。 その程度の話やった。 修道院を訪ねた。 教会を訪ねた。 古い戸籍を調べた。 誰かが知っとるかもしれんと思うて聞いた。 けれど、誰も知らんかった。 知っとる人は、もう死んでいた。 知っとる人は、遠くへ行っていた。 知っとる人は、口を閉ざしていた。 そんなことばかりやった。 夕方、知らん町の坂道を登った。 海が見えた。 遠くに雲が流れていた。 アルマーは見つからん。 今日も見つからん。 明日も見つからんかもしれん。 それでも、不二子はんは足を止めへんかった。 よしろうはんは、なんであの子のことを忘れへんのやろ。 ふと、そんなことを思うた。 会うたこともない娘や。 けれど何十年も、心のどこかに置いたままやった。 風が吹いた。 潮の匂いがした。 不二子はんは空を見上げた。 まだ終わってへんな。 そう思うた。 旅は続いていた。

第11章 マリアの蜜月 546話

神父とマリアは寝た。 修道院の裏の部屋で、幾度も。 神父は翌月、北方へ転任した。 マリアは残った。 よしろうはんが初めてその町へ来たのは、その一月後だった。 修道院の近くの道で、マリアとすれ違った。 よしろうはんは立ち止まり、言った。 「おつとめ、ご苦労さまです」 マリアは頭を下げた。 「ありがとうございます」 よしろうはんはマリアを見た。 マリアも、よしろうはんを見た。 よしろうはんは歩き出した。 それから、週に一度その道を通った。 いつも同じ時刻に来て、同じ道を戻った。 ある日、マリアの腹が少し膨らんでいた。 さては。 様子もどこか違っていた。 よしろうはんは聞いた。 「ご懐妊ですか」 「はい」 「おめでとうございます」 マリアは少し驚いた顔をした。 「ありがとうございます」 しばらく二人とも黙っていた。 雨が降っていた。 細い雨やった。 よしろうはんが言った。 「父親は」 マリアは下を向いた。 「言えません」 「そうですか」 それ以上は聞かなかった。 マリアも何も言わなかった。 ただ、その沈黙だけで、だいたいのことはわかった。 よしろうはんはコートを着直した。 「また来ます」 「はい...」 よしろうはんは歩いていった。 マリアは修道院へ戻った。 まだ雨は降っていたが、西日が差し込んだ。 二つの虹が掛かっていた。

第11章 アルマーその後 545話

不二子はんは、手紙を三度読んだ。 一度目は立ったまま。 二度目は縁側に腰を下ろして。 三度目は畳んで膝に置き、それからまた開いた。 マリアからやった。 細い字やった。 真っ直ぐな字やった。 長いこと祈りを書き続けてきた人の字やと思うた。 便りは短かった。 子は無事に生まれた。 女の子やった。 そこまではよかった。 けれど、その先があかんかった。 教会の上の者たちが動いた。 父親のことが知れた。 マリアには選ぶ余地がなかった。 子は引き取られた。 どこへ。 それは書かれていなかった。 書けなかったのか。 知らされなかったのか。 不二子はんには分からんかった。 最後の一行だけが、妙にはっきり残った。 名前だけは、アルマーのままでいてほしいと頼みました。 聞き届けられたかどうかは、わかりません。 不二子はんは手紙を畳んだ。 庭を見た。 梅雨前の光が草の上に広がっていた。 風はなく、 影だけが少しずつ場所を変えていた。 よしろうはんに見せるべきやろか。 考えた。 けれど答えはすぐ出た。 隠すことやない。 ただ、今日やない。 夕方。 よしろうはんが田んぼから戻ってきた。 靴についた泥を落とし洗って干していた。 いつものように縁側へ腰を下ろした。 「雑草を水没させて窒息死させるために田んぼの水を満水にした」 不二子はんは顔を上げた。 へー 「苗が見えるか見えへんかくらいやけどな」 へー 「お疲れさんどす」 不二子はんは茶を出した。 湯気が細う立った。 鳥の声がよう聞こえる。 やがて、 よしろうはんが湯飲みを見ながら言うた。 「アルマーは、元気やろか」 不二子はんは返事をする前に、 庭の向こうを見た。 見えへん場所を。 届かへん場所を。 「元気どすえ」 そう答えた。 嘘やとは思わんかった。 どこにおっても、 誰に抱かれていても、 アルマーはアルマーや。 そのことだけは、 まだ誰にも奪われてへん。   夜。 一人になってから、 不二子はんは手紙をもう一度広げた。 電球色の光の中で、あの一行だけが浮かび上がる。 名前だけは。 それがマリアに残された、 最後の祈りやった。 不二子はんは指先でその文字をなぞった。 母親のぬくもりが、紙...

第11章 きびなご月締め仕込み 544話

「不二子はん、これ見てみ」 よしろうはんが冷蔵庫の奥から瓶を取り出した。 中には銀色の小魚が塩に埋もれて、じっとしている。 「きびなごですか」 「そう。三日前に三十度の縁側に置いといた。今朝、冷蔵に移した」 不二子はんは瓶を光にかざした。 底に琥珀色の液体が少したまっている。 「もう発酵してるみたや、中が」 「内臓ごと入れてある。そこが肝心や」 魚は自分で自分を変えていく。 塩がその速度を決め、温度が起動させ、時間が仕上げる。 人間がすることは、ほとんど何もないともいえる。 「いつ食べれるんかな」 「さあ。様子見ながら決めたらええ。骨まで食べれるで」 不二子はんは少し黙った。 「待つのが、肝でおますんやな」 よしろうはんは頷いた。 縁側の光の中で、瓶をそっと冷蔵庫に戻した。 覚え書き きびなご(内臓込み)500g 粗塩 125g(25%) 30℃で3日 → 冷蔵で2〜3か月 熟成液は魚醤の様なソースに オリーブオイルで保存 ソテーで頂く 骨ごと食べられる