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第12章 ばらんすしーと 611話

「資産から負債を引いて残ったもんが純資産。恋も同じで、最後に何が残ったかで決めればええそうどす」 はて? 「よしろうはんは、資産も負債も多そうやな」 「そやねん。入ったもん、みんな綺麗に使うてまうんや」 へー 「そやろな」 ん? なんやねん。。

第12章 アルマーのひとり言 610話

鹿革で磨き上げられた銀板写真。 磨けば磨くほど、精細な像が現れる。 いつかお父さんが教えてくれた。  わたしの今も、そうでありたいな。 アルマーがぽつりと呟いた。 でも、どうして今日という日は、こんなに重いんでしょうか。 雲のせいかしら。 風がないから? いいえ。 そうではなさそうです。 わたしはもう少し、自分に向き合うことが必要なようです。 神様。 そうなんですね。 神様。 わたしは見放されたのです。 その事実はずっと消えないのですね。 それでも、やっとわたしは受け入れられそうです。     

第12章 憧れ 609話

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夕日の中を散歩する。 憧憬に感じた同じ光。  いつの日だったか。 憧れを胸に抱いて歩いていた。 そういえば。そうだった。 余り今も変わらない。 あの河鵜。 なぜいつも一羽で来るのか。 

第12章 飛んで火にいる夏の虫ってね 608話

  「不二子はん。ばいとから帰ってくると、一日が誰かのもんになった気がする」 「案さんは、時間を売ってるさかいな」 ぼく様は黙る。 窓は少しだけ開いていた。 真昼の熱気が流れ込み、蝉の声が遠くから押し寄せる。 そのとき、一匹のキリギリスが部屋へ迷い込んできた。 畳へ降りると、しばらく動かない。 ふいに跳ねたかと思えば、また止まる。 首を振るように触角を揺らし、部屋の中を確かめている。 ぼく様は目で追った。 「外へ帰りたいんやろな」 へー キリギリスは光のほうへ跳ねる。 障子に当たり、畳へ落ちる。 また跳ねる。 今度は柱の陰へ入ってしまった。 「案さんも、よう似てます」 「ぼく様にか」 へー 不二子はんは笑わない。 「案さんは時間が惜しいんどす」 「惜しいな」 ぼく様は何も言わない。 「時間が、案さんから離れていくのが嫌なんどす」 またキリギリスが跳ねた。 今度は障子ではなく、開いた窓のほうへ向かう。 ひと跳びで外へ消えた。 ぼく様は、その小さな後ろ姿を見送る。 「不二子はん」 「なんどす」 「成功する人は、何が違う」 不二子はんは、少し考えた。 「成功する人は、お金を数えてまへん」 「残り時間を数えてます」 ぼく様は黙った。 田んぼの蛙の声が、さっきより少し近く聞こえている。

第12章 わかれなさい。 607話

と或る日の夕刻。   「上手に振る舞う男ほど、始末が悪い」 よしろうはんが言う。 「恋人も、伴侶も同じや。女の願いを聞いてる顔して、一つも叶えへん。そんな男とは別れたほうがええ」 不二子はんは笑った。 「別れるかどうかは知らん」 一拍おいて、続ける。 「せやけど、叶える気もない男は、よう働く。言い訳だけは」 よしろうはんは吹き出す。 「そこまで言うか」 「事実やろ」  

第12章 すてっぷ ばい すてっぷ むーびんぐ あうと 606話

動かないと道はひらけない。当然だ。 よしろうはん。少し身軽になろうと、踊りのステップや肩と腰の動き、手の使い方をチェックする。Funk & Soulの曲を流しながら鏡の前で身体を動かす。 静かな動きのようでいて、身体の中では少しずつ何かが変わっていく。考えているだけでは進まない。動けば、身体も心も、次の一歩を見つけてくれる。 不二子はんは、湯呑みを両手で包みながら、その背中を見ていた。 へー 「案さん、かなり踊れるやん」 よしろうはんの身体は、音を追いかけない。 音が来る前に、もうそこへいる。 肩がほどけ、腰が流れ、指先まで音楽が通り抜けていく。 若いころに覚えた技やない。 何度も人生をくぐり抜けた身体だけが知っている、余白のリズムや。 不二子はんは、そっと笑う。 「人は動けんようになるんやない。動かんようになるだけなんやで」 踊りは見せるためやない。 心にたまった重みを、一歩ずつ床へ返していくこと。 「案さんええ感じやで」 その姿を見ながら、不二子はんは小さくつぶやいた。 「やっぱり案さんは、動いてるときが一番、案さんらしいわ」 ふふ   「飽きひんおとこやこと。案さんは。 また人生、変えはるわ。きっと」  

12章 七夕に最後の田植え 605話

ひさかたの 天の川原に ぬえ鳥の うら嘆けましつ すべなきまでに   (万葉集・柿本人麻呂より)   湛水直播というもんは、うまくいけば楽やけど、外すと見事に外してくれる。 今年は稲よりヒエのほうが元気やった。 これでは話にならん。 もう一度代掻きをして、田植えに切り替えることにした。 七月に入ってからの田植えは遅い。それでも、ヒエを育てるよりは稲を植えたほうがええ。 苗は南の宇城種苗センターで買うた。 ところが、苗の時点で、もういもち病が見えとる。 最近は苗のうちから入っとる年も珍しゅうない。 皆が言うけど、ヒノヒカリという品種は高温化したこの土地では適応してないんやろ。  よしろうはんが、普段から高温に強い「にこまる」を選んどるんも、今となってはよう分かる。 せやから苗の管理中に、竹酢液を百倍に薄め、展着剤を加えて五回散布した。 この濃度なら葉焼けもなく、経験では穂が出る頃までは十分持つ。 問題は、その先や。 穂いもちだけは、人間の都合では決まらん。 雨が続く年もあれば、風がよう通る年もある。 同じ田んぼ、同じ管理でも、出る年は出るし、出ん年は出ん。 百回説明するより、一年育てた田んぼが答えを教えてくれる。 農業は、毎年同じことを繰り返しながら、一度として同じ年がない。 それがおもしろいところでもあり、難しいところでもあるんや。

12章 労働から資産へ 604話

「不二子はん」 「なんどす、よしろうはん」 「ぼく様、最近ようやく分かったことがあるんだ」 「どないなことどす」 「これまでのぼく様は、自分が動いて収入を得ることばかり考えてきた。働けばお金になる。でも、働かなければ収入は止まる。それが当たり前だと思っていた」 不二子はんは湯呑みを手にしたまま、小さくうなずいた。 「案さん、それは商売やのうて、労働どす」 「違うのかい」 「違いますえ」 「どう違う」 「案さんが働かはるから、お金が入る。それは悪いことやおへん」 少し間を置いて、不二子はんは続けた。 「せやけど、案さんがお休みになったら、お金も一緒にお休みしはります」 ぼく様は黙ってお茶を飲んだ。 「資産いうもんは、案さんがお休みでも働いてくれます」 「例えば」 「森林どす」 「木か」 「木ぃは毎日少しずつ育ちます。急ぎまへん。でも止まりまへん」 「なるほど」 「作品もそうどす。一枚の写真が何年もあとに売れることもあります。本もそう。著作権も、印税もそうどす」 ぼく様は窓の外へ目を向けた。 若い頃は、早く稼ぐことばかり考えていた。 これからは、時間をかけて育つものを増やしていきたい。 「不二子はん」 「なんどす」 「ぼく様、これからは働き者を増やしていくよ」 不二子はんは静かに笑った。 「案さんが働くより、案さんの代わりに働くもんを育てなはれ。それが資産どす」

第13章 憎しみの影 603話

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  アルマーの心に芽生えた憎しみの影。 善良な娘であるアルマーは、その感情が自分の中に生まれたこと自体に深く葛藤していた。 私は何も知らない。 ただ、母と暮らしたことがない。 その頃の記憶もない。 それでも、その人が私を産んでくれた母であることだけは知っていた。 優しい笑顔。 優しい言葉。 静かに微笑む母。 なぜ私は育てられなかったのか。 その理由も、やがて母の口から聞いた。 アルマーは、心が乱れるたび、幼い頃から好きだった水源へ足を運んだ。 澄み切った泉を眺めていると、空白だった現実が、一つひとつ謎を解くように心へ流れ込んでくる。 「私は……深い深淵の縁を、たださまよっていただけだったのですね。」 そう静かにつぶやいた。 聡明なアルマーは、それ以来、心に疑問が生まれるたびに実の母へ相談するようになった。 空白は、一つずつ言葉によって埋められていく。 そして、心に差していた黒い影もまた、少しずつ輪郭を失い、やがて静かに消えていった。 よしろうはんも不二子はんも何も聞かんとただ笑顔で迎えた。

第13章 マリアとアルマー 602話

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  Dreams of Recurring Memories   Study #001 帰ってからも、アルマーはあの日のことを何度も思い返した。 なぜ何も感じなかったのだろう。 本当は泣くべきだったのか。 怒るべきだったのか。 しかし、その場では何もなかった。 何もなかったことだけが、いつまでも心に残った。 数日が過ぎ、一週間が過ぎても、あの静かな部屋が頭から離れなかった。 そして、ある夜、ふと気づいた。 空っぽだったのではない。 空っぽになるほど、失っていたのだ。 自分には母親との思い出が一つもない。 抱かれた記憶も。 叱られた記憶も。 笑い合った記憶も。 何一つ残されていなかった。 その事実が、遅れて胸に落ちてきた。 その日からだった。 心の底に、小さな黒い塊が生まれた。 最初は名前も分からなかった。 だが日を追うごとに、それは少しずつ大きくなっていく。 やがてアルマーは、その塊の名を知った。 憎しみだった。 マリアを憎んでいるのか。 神を憎んでいるのか。 運命を憎んでいるのか。 それすら分からない。 ただ、自分から奪われたものだけは、もう二度と戻らない。 そのことだけは、誰よりもよく分かっていた。

第13章 マリアとアルマー 601話

マリアの家は、そう遠くなかった。教会でシスターとして暮らしていた。 アルマーは、その姿を何度か見かけたことがあった。学校の帰り道、教会の前を通るとき、庭を掃くマリアの後ろ姿が見えることがあった。声をかけようとしたことは、一度もなかった。 或る日、マリアがよしろうはんに頼んだ。 「会いたいんです。アルマーに」 よしろうはんは、しばらく黙っていた。それから、短く答えた。 「本人に聞いてみるわ」 アルマーは、その話を聞いたとき、すぐには返事をしなかった。断る理由もなかったし、会いたい理由もはっきりしなかった。 「会うだけや。それだけでええ」 よしろうはんがそう言った。 「はい」 アルマーは、それだけ答えた。 そして、その週末、アルマーはマリアの向かいに座っていた。 「大きくなりましたね」 マリアが言った。アルマーは頷いた。それ以外に、返す言葉が見つからなかった。 「元気でしたか」 「はい」 「よしろうはんと、不二子はんが、よくしてくれていると聞いています」 「はい」 会話が続かなかった。アルマーは、もっと何か感じるはずだと思っていた。涙が出るとか、怒りが湧くとか、何かが動くはずだと。しかし実際には、目の前にいるのは、ただの知らない女の人だった。優しそうで、少し疲れていて、自分と同じ目の形をしている、知らない人。 「聞きたいことは、ありますか」 マリアが聞いた。 アルマーは考えた。聞きたいことは、あるはずだった。なぜ手放したのか。今まで何をしていたのか。自分のことを、一度でも思い出したことがあったのか。 しかし、いざ聞こうとすると、どの質問も的外れな気がした。答えを聞いたところで、何かが変わる気がしなかった。 「特に、ありません」 そう言うと、マリアは少し驚いた顔をした。それから、小さく頷いた。 「そうですか」 「すみません」 「謝ることではありません」 また、沈黙が来た。今度の沈黙は、さっきよりも重かった。アルマーは、自分の中に何かがあるはずなのに、それがどこにあるのか分からなかった。あるはずの場所を触っても、そこには何もない。ただ、何もないという感触だけがあった。 「アルマー」 マリアが呼んだ。名前を呼ばれて、アルマーは顔を上げた。 「今日、会えてよかったです」 アルマーは、それに何と答えていいか分からなか...

第13章 はじまりに 600話

さて、つらつらと、脳の中を流れてきたものに従い、記録してきた日々である。 その間に、不二子はん、よしろうはん、閻魔様、一廉の奥方様、マリア、神父、アルマー、漁師……。気がつけば、いろいろな人物が生まれ、それぞれ勝手に生き始めた。 個人的には、初期の少しエロバカっぽい話が好きだったりもする。しかし、書き続けるうちに、この物語は少しずつ姿を変えていった。それはぼく様が変わったからなのか、それとも登場人物たちが勝手に歩き始めたからなのか、自分でもよく分からない。 この話は千話で一区切りと決めている。 だが今は、千話にたどり着いても、それは物語の終わりではなく、案外、序盤にすぎないのではないかと思い始めている。 文体も、まだ安定していない。 いや、安定させる気がないのかもしれない。 そのとき、その日にしか書けない言葉がある。その揺らぎごと、この物語なのだと思う。 では、第十三章の始まりである。

第12章 あと一歩 599話

もうすぐ600話ですか。よほど暇なのか。真剣なのか。お気楽なのか。幸せ過ぎるのか。物書きとはこういう世界かもな。  よしろうはん。 不二子。なんだい? へー  忘れましたさかい。 もうかい? 大丈夫か不二子。 しらしまへん。もう130歳やで。物忘れくらいしますえ。  まぁね。  嗚呼ー。  こんな日常会話もない日常なんて。。  黙って音楽聞いて頭の中はこんな感じ。ええんか? 

第12章 愛し合う 598話

その時間が永遠でないことは承知したとしても、人生の中でそのような時間があったことがあるなら。それは偉大なことだ。そして今それがないのなら、それは片肺飛行のそれに似ている。ずっと幸せが続かないのは当然かもしれないが、人は永遠の幸せを求めたがる。有りえないではない。実は存在するのだ。 「よしろうはん。」 不二子はんは縁側で静かに声をかけた。 「永遠なんて、ほんまにあるんやろか。」 ぼく様は笑った。 「時間の中にはない。」 そう答えると、不二子はんも小さく笑う。 風が庭を渡る。稲はまだ若く、葉先だけが光を受けて揺れていた。ツバメが低く飛び、どこからか蛙が鳴き始める。 雨が近い。 「でもな。」 ぼく様は続けた。 「人が誰かを本気で愛した、その事実は消えん。別れても、死んでも、その時間はなかったことにはならん。」 不二子はんは黙って聞いていた。 「だから永遠いうのは、未来へ続く時間やない。消えない出来事なんや。」 不二子はんは静かに微笑み、 「それやったら、十分や。」 とだけ言った。 長く一緒にいることだけが幸せではない。 互いの存在によって、自分の人生そのものが変わってしまう。そんな出会いが一度でもあれば、人はもう以前の自分には戻れない。 それが愛なのだと思う。 夕暮れの光が縁側をゆっくりと横切っていく。 時計は進んでいる。 それでも、この静かな時間だけは、どこにも流れていないように見えた。

第12章 距離 597話

人は老いる。そのとき人は疲れた。気力がない。欲がなくなった。歳をとったと言う。ぼく様は思う。まだ元気だが、そんなふうに思うことも度々ある。でもぼく様は見方を変えている。そう言う日記。   朝の田んぼは静かやった。 風もまだ目を覚ましてへん。 「よしろうはん。」 不二子はんは田んぼの畦に腰を下ろした。 「最近、前みたいにあちこち行かへんな。」 よしろうはんは笑うた。 「行こう思たら行けるよ。」 「ほな、なんで行かへんの。」 「行った先で何が起こるか、大体わかるようになったんや。」 不二子はんは少し考えてから頷いた。 「なるほどな。それは諦めとは違うんやな。」 「違う。」 よしろうはんは水面に映る空を見ていた。 「興味が変わっただけや。」 「若い頃は、人の中へ入って確かめたかった。でも今は、その人らがどう動くんか、少し離れたところから見ていたい。」 ツバメが一羽、水面すれすれを横切った。 「写真も同じや。」 「前は追いかける写真が多かった。でも今は、光が来るのを待つ時間のほうが面白い。」 不二子はんは、その言葉を聞いて微笑んだ。 「世界との距離が変わったんやね。」 よしろうはんは黙って頷いた。 近づかな見えへんものがある。 離れな見えへんものもある。 歳がそれを教えてくれたというより、時間が少しずつ、見る場所を変えてくれたのかもしれへん。 田んぼの水は、何も言わず空を映していた。   Where You Stand Changes Everything. どこに立つかで、すべてが変わる。

第12章 蚊柱 596話

私が宇宙や生命を感じるのは蚊柱を見るときである。 ユスリカの大群が球体となって夕刻に現れる。 光が逆光で羽が光り、体は黒く見え蠢く球体。 「お母様、あれ見て。」 アルマーは空を指さした。 「ユスリカやね。」 「虫があんなに集まると、まるで一つの生き物みたい。」 不二子はんはしばらく黙って見上げていた。 「一匹では見えへんもんが、集まると見えてくるんや。」 「何が見えるんですか。」 「命や。」 アルマーはもう一度、黒く揺れる球を見た。 「虫なのに?」 「せや。小さな命がようけ集まると、大きな命みたいになる。」 アルマーは見つめた。 「よしろうはんが宇宙を感じる言うた意味、少しわかった気がする。」 不二子はんは夕焼けを見たまま言うた。 「宇宙は遠い空にあるだけやない。足元にも、こうしてあるんや。」

第12章 時代の姿 595話

田植えの朝。 「よしろうはん。」 不二子はんは縁側でレモン水をひと口飲んだ。 ツバメは交差するように、何度も空を切って飛んでいる。 不二子はんは、その姿を目で追いながら微笑んだ。 「今の六十は、昔の六十やおへんな。」 よしろうはんも空を見上げた。 「そうだな。六十の景色も変わったな。」 しばらく二人は、ツバメの飛ぶ音だけを聞いていた。 不二子はんが静かに言う。 「人は年を重ねるんやのうて、時代を重ねて生きるんや。」 よしろうはんは静かにうなずいた。 「だから、歳を数えるより、今日何を始めるかのほうが大切なんだ。」 ツバメはまた交差しながら、高い空へ消えていった。

第12章 大豆の間引き菜 594話

「何してはるんかぁ?」 「大豆の間引き菜や」 「ようけありますな」 不二子はんは籠をのぞき込んだ。 「捨てるのもな」 「そらもったいないどす」 一本手に取る。 「根っこも食べられるらしい」 へー しばらく眺める。 「そうやな。おもろいけどやめとこかぁ」 よしろうはんは笑った。 「せっかく生えてきたのに」 「畑に生まれたんが運の尽きどす」 不二子はんはそう言うて、間引き菜を洗い始めた。 蛇口の水が流れる。 「まぁ、食べられるいうことはええことでっせ」 「そうやな」 窓の外では雨が降っていた。 不二子はんは籠を抱え直した。 「今日は胡麻和えとソテーにしますえ」  

第12章 夜の帳 593話

「お母様は台風でも踊りそう」 「踊るな」 「踊りますね」 二人はうなずいた。 その時だった。 踊っていた不二子はんが、いつの間にかこちらへ戻ってきていた。 「なんぞ失礼な話してますな」 「聞こえとったんか」 「聞こえてましたえ」 不二子はんは水を飲む。 「うちは台風では踊りまへん」 「ほら見ろ」 よしろうはんは鼻を鳴らした。 「危ないさかい」 「洪水なら?」 アルマーが聞いた。 不二子はんは少し考えた。 「二階で踊ります」 アルマーが吹き出した。 よしろうはんも笑った。 「やっぱり踊るんやないか」 「踊りますえ」 不二子はんは平然としている。 「どうせ心配しても水は引きませんやろ」 「まあな」 「ほな踊った方が得です」 「得なんですか」 「得どす」 不二子はんはそう言うと、またホールの方を見た。 ちょうど好きな曲が流れ始めていた。 「あ、あれ好きなんや」 そう言って足早に戻っていく。 百三十を過ぎた足取りとは思えない。 アルマーはその背中を見送った。 「お父さん」 ん? 「お母様は昔からああなんですか」 よしろうはんはテキーラを口に運んだ。 「昔はもっとや」 「もっと?」 「三日寝込んでも四日目には踊っとった」 「本当ですか」 「知らん」 「知らんのですか」 「たぶんや」 アルマーは声を上げて笑った。 窓の外では雨が降り続いていた。 ホールの中では不二子はんが回っている。 どちらが先に止むのかは、誰にもわからなかった。

第12章 燕の巣 592話

「五十年ぶりやて。」 不二子はんは玄関の軒先を見上げた。 燕が巣を作っていた。 「若い頃はよう来てくれてましたのに。」 懐かしそうに目を細める。 「お義父さんが汚れるのを嫌うて、見つけたら壊してしまわはったんです。」 燕は気にもせんように巣材を運んでいた。 不二子はんは小さく笑うた。 「ほんま、久しぶりですわ。」 風が吹き、燕が一羽、空へ舞い上がる。 「今年は、ええことがあるかもしれませんな。」 そう言うて、不二子はんはしばらく空を見ていた。 ほんかいな?とよしろうはんは思っていた。。