投稿

ラベル(不二子はん)が付いた投稿を表示しています

第13章 マリアとアルマー 602話

イメージ
  帰ってからも、アルマーはあの日のことを何度も思い返した。 なぜ何も感じなかったのだろう。 本当は泣くべきだったのか。 怒るべきだったのか。 しかし、その場では何もなかった。 何もなかったことだけが、いつまでも心に残った。 数日が過ぎ、一週間が過ぎても、あの静かな部屋が頭から離れなかった。 そして、ある夜、ふと気づいた。 空っぽだったのではない。 空っぽになるほど、失っていたのだ。 自分には母親との思い出が一つもない。 抱かれた記憶も。 叱られた記憶も。 笑い合った記憶も。 何一つ残されていなかった。 その事実が、遅れて胸に落ちてきた。 その日からだった。 心の底に、小さな黒い塊が生まれた。 最初は名前も分からなかった。 だが日を追うごとに、それは少しずつ大きくなっていく。 やがてアルマーは、その塊の名を知った。 憎しみだった。 マリアを憎んでいるのか。 神を憎んでいるのか。 運命を憎んでいるのか。 それすら分からない。 ただ、自分から奪われたものだけは、もう二度と戻らない。 そのことだけは、誰よりもよく分かっていた。

第13章 マリアとアルマー 601話

マリアの家は、そう遠くなかった。教会でシスターとして暮らしていた。 アルマーは、その姿を何度か見かけたことがあった。学校の帰り道、教会の前を通るとき、庭を掃くマリアの後ろ姿が見えることがあった。声をかけようとしたことは、一度もなかった。 或る日、マリアがよしろうはんに頼んだ。 「会いたいんです。アルマーに」 よしろうはんは、しばらく黙っていた。それから、短く答えた。 「本人に聞いてみるわ」 アルマーは、その話を聞いたとき、すぐには返事をしなかった。断る理由もなかったし、会いたい理由もはっきりしなかった。 「会うだけや。それだけでええ」 よしろうはんがそう言った。 「はい」 アルマーは、それだけ答えた。 そして、その週末、アルマーはマリアの向かいに座っていた。 「大きくなりましたね」 マリアが言った。アルマーは頷いた。それ以外に、返す言葉が見つからなかった。 「元気でしたか」 「はい」 「よしろうはんと、不二子はんが、よくしてくれていると聞いています」 「はい」 会話が続かなかった。アルマーは、もっと何か感じるはずだと思っていた。涙が出るとか、怒りが湧くとか、何かが動くはずだと。しかし実際には、目の前にいるのは、ただの知らない女の人だった。優しそうで、少し疲れていて、自分と同じ目の形をしている、知らない人。 「聞きたいことは、ありますか」 マリアが聞いた。 アルマーは考えた。聞きたいことは、あるはずだった。なぜ手放したのか。今まで何をしていたのか。自分のことを、一度でも思い出したことがあったのか。 しかし、いざ聞こうとすると、どの質問も的外れな気がした。答えを聞いたところで、何かが変わる気がしなかった。 「特に、ありません」 そう言うと、マリアは少し驚いた顔をした。それから、小さく頷いた。 「そうですか」 「すみません」 「謝ることではありません」 また、沈黙が来た。今度の沈黙は、さっきよりも重かった。アルマーは、自分の中に何かがあるはずなのに、それがどこにあるのか分からなかった。あるはずの場所を触っても、そこには何もない。ただ、何もないという感触だけがあった。 「アルマー」 マリアが呼んだ。名前を呼ばれて、アルマーは顔を上げた。 「今日、会えてよかったです」 アルマーは、それに何と答えていいか分からなか...

第13章 はじまりに 600話

さて、つらつらと、脳の中を流れてきたものに従い、記録してきた日々である。 その間に、不二子はん、よしろうはん、閻魔様、一廉の奥方様、マリア、神父、アルマー、漁師……。気がつけば、いろいろな人物が生まれ、それぞれ勝手に生き始めた。 個人的には、初期の少しエロバカっぽい話が好きだったりもする。しかし、書き続けるうちに、この物語は少しずつ姿を変えていった。それはぼく様が変わったからなのか、それとも登場人物たちが勝手に歩き始めたからなのか、自分でもよく分からない。 この話は千話で一区切りと決めている。 だが今は、千話にたどり着いても、それは物語の終わりではなく、案外、序盤にすぎないのではないかと思い始めている。 文体も、まだ安定していない。 いや、安定させる気がないのかもしれない。 そのとき、その日にしか書けない言葉がある。その揺らぎごと、この物語なのだと思う。 では、第十三章の始まりである。

第12章 あと一歩 599話

もうすぐ600話ですか。よほど暇なのか。真剣なのか。お気楽なのか。幸せ過ぎるのか。物書きとはこういう世界かもな。  よしろうはん。 不二子。なんだい? へー  忘れましたさかい。 もうかい? 大丈夫か不二子。 しらしまへん。もう130歳やで。物忘れくらいしますえ。  まぁね。  嗚呼ー。  こんな日常会話もない日常なんて。。  黙って音楽聞いて頭の中はこんな感じ。ええんか? 

第12章 愛し合う 598話

その時間が永遠でないことは承知したとしても、人生の中でそのような時間があったことがあるなら。それは偉大なことだ。そして今それがないのなら、それは片肺飛行のそれに似ている。ずっと幸せが続かないのは当然かもしれないが、人は永遠の幸せを求めたがる。有りえないではない。実は存在するのだ。 「よしろうはん。」 不二子はんは縁側で静かに声をかけた。 「永遠なんて、ほんまにあるんやろか。」 ぼく様は笑った。 「時間の中にはない。」 そう答えると、不二子はんも小さく笑う。 風が庭を渡る。稲はまだ若く、葉先だけが光を受けて揺れていた。ツバメが低く飛び、どこからか蛙が鳴き始める。 雨が近い。 「でもな。」 ぼく様は続けた。 「人が誰かを本気で愛した、その事実は消えん。別れても、死んでも、その時間はなかったことにはならん。」 不二子はんは黙って聞いていた。 「だから永遠いうのは、未来へ続く時間やない。消えない出来事なんや。」 不二子はんは静かに微笑み、 「それやったら、十分や。」 とだけ言った。 長く一緒にいることだけが幸せではない。 互いの存在によって、自分の人生そのものが変わってしまう。そんな出会いが一度でもあれば、人はもう以前の自分には戻れない。 それが愛なのだと思う。 夕暮れの光が縁側をゆっくりと横切っていく。 時計は進んでいる。 それでも、この静かな時間だけは、どこにも流れていないように見えた。

第12章 距離 597話

人は老いる。そのとき人は疲れた。気力がない。欲がなくなった。歳をとったと言う。ぼく様は思う。まだ元気だが、そんなふうに思うことも度々ある。でもぼく様は見方を変えている。そう言う日記。   朝の田んぼは静かやった。 風もまだ目を覚ましてへん。 「よしろうはん。」 不二子はんは田んぼの畦に腰を下ろした。 「最近、前みたいにあちこち行かへんな。」 よしろうはんは笑うた。 「行こう思たら行けるよ。」 「ほな、なんで行かへんの。」 「行った先で何が起こるか、大体わかるようになったんや。」 不二子はんは少し考えてから頷いた。 「なるほどな。それは諦めとは違うんやな。」 「違う。」 よしろうはんは水面に映る空を見ていた。 「興味が変わっただけや。」 「若い頃は、人の中へ入って確かめたかった。でも今は、その人らがどう動くんか、少し離れたところから見ていたい。」 ツバメが一羽、水面すれすれを横切った。 「写真も同じや。」 「前は追いかける写真が多かった。でも今は、光が来るのを待つ時間のほうが面白い。」 不二子はんは、その言葉を聞いて微笑んだ。 「世界との距離が変わったんやね。」 よしろうはんは黙って頷いた。 近づかな見えへんものがある。 離れな見えへんものもある。 歳がそれを教えてくれたというより、時間が少しずつ、見る場所を変えてくれたのかもしれへん。 田んぼの水は、何も言わず空を映していた。   Where You Stand Changes Everything. どこに立つかで、すべてが変わる。

第12章 蚊柱 596話

私が宇宙や生命を感じるのは蚊柱を見るときである。 ユスリカの大群が球体となって夕刻に現れる。 光が逆光で羽が光り、体は黒く見え蠢く球体。 「お母様、あれ見て。」 アルマーは空を指さした。 「ユスリカやね。」 「虫があんなに集まると、まるで一つの生き物みたい。」 不二子はんはしばらく黙って見上げていた。 「一匹では見えへんもんが、集まると見えてくるんや。」 「何が見えるんですか。」 「命や。」 アルマーはもう一度、黒く揺れる球を見た。 「虫なのに?」 「せや。小さな命がようけ集まると、大きな命みたいになる。」 アルマーは見つめた。 「よしろうはんが宇宙を感じる言うた意味、少しわかった気がする。」 不二子はんは夕焼けを見たまま言うた。 「宇宙は遠い空にあるだけやない。足元にも、こうしてあるんや。」

第12章 時代の姿 595話

田植えの朝。 「よしろうはん。」 不二子はんは縁側でレモン水をひと口飲んだ。 ツバメは交差するように、何度も空を切って飛んでいる。 不二子はんは、その姿を目で追いながら微笑んだ。 「今の六十は、昔の六十やおへんな。」 よしろうはんも空を見上げた。 「そうだな。六十の景色も変わったな。」 しばらく二人は、ツバメの飛ぶ音だけを聞いていた。 不二子はんが静かに言う。 「人は年を重ねるんやのうて、時代を重ねて生きるんや。」 よしろうはんは静かにうなずいた。 「だから、歳を数えるより、今日何を始めるかのほうが大切なんだ。」 ツバメはまた交差しながら、高い空へ消えていった。

第12章 大豆の間引き菜 594話

「何してはるんかぁ?」 「大豆の間引き菜や」 「ようけありますな」 不二子はんは籠をのぞき込んだ。 「捨てるのもな」 「そらもったいないどす」 一本手に取る。 「根っこも食べられるらしい」 へー しばらく眺める。 「そうやな。おもろいけどやめとこかぁ」 よしろうはんは笑った。 「せっかく生えてきたのに」 「畑に生まれたんが運の尽きどす」 不二子はんはそう言うて、間引き菜を洗い始めた。 蛇口の水が流れる。 「まぁ、食べられるいうことはええことでっせ」 「そうやな」 窓の外では雨が降っていた。 不二子はんは籠を抱え直した。 「今日は胡麻和えとソテーにしますえ」  

第12章 夜の帳 593話

「お母様は台風でも踊りそう」 「踊るな」 「踊りますね」 二人はうなずいた。 その時だった。 踊っていた不二子はんが、いつの間にかこちらへ戻ってきていた。 「なんぞ失礼な話してますな」 「聞こえとったんか」 「聞こえてましたえ」 不二子はんは水を飲む。 「うちは台風では踊りまへん」 「ほら見ろ」 よしろうはんは鼻を鳴らした。 「危ないさかい」 「洪水なら?」 アルマーが聞いた。 不二子はんは少し考えた。 「二階で踊ります」 アルマーが吹き出した。 よしろうはんも笑った。 「やっぱり踊るんやないか」 「踊りますえ」 不二子はんは平然としている。 「どうせ心配しても水は引きませんやろ」 「まあな」 「ほな踊った方が得です」 「得なんですか」 「得どす」 不二子はんはそう言うと、またホールの方を見た。 ちょうど好きな曲が流れ始めていた。 「あ、あれ好きなんや」 そう言って足早に戻っていく。 百三十を過ぎた足取りとは思えない。 アルマーはその背中を見送った。 「お父さん」 ん? 「お母様は昔からああなんですか」 よしろうはんはテキーラを口に運んだ。 「昔はもっとや」 「もっと?」 「三日寝込んでも四日目には踊っとった」 「本当ですか」 「知らん」 「知らんのですか」 「たぶんや」 アルマーは声を上げて笑った。 窓の外では雨が降り続いていた。 ホールの中では不二子はんが回っている。 どちらが先に止むのかは、誰にもわからなかった。

第12章 燕の巣 592話

「五十年ぶりやて。」 不二子はんは玄関の軒先を見上げた。 燕が巣を作っていた。 「若い頃はよう来てくれてましたのに。」 懐かしそうに目を細める。 「お義父さんが汚れるのを嫌うて、見つけたら壊してしまわはったんです。」 燕は気にもせんように巣材を運んでいた。 不二子はんは小さく笑うた。 「ほんま、久しぶりですわ。」 風が吹き、燕が一羽、空へ舞い上がる。 「今年は、ええことがあるかもしれませんな。」 そう言うて、不二子はんはしばらく空を見ていた。 ほんかいな?とよしろうはんは思っていた。。 

第12章 夜の帳 591話

アルマーは流石に今時のステップを踏む。  80年代とは違いスマートな踊りだ。 「おとうさん。今日はすごい雨ですよ。家や田んぼは大丈夫でしょうか」 「あー、大丈夫なようにしてる。川の様子もカメラでわかる」 「そうですね。見せて、おとうさん」 「ほれ」 「あー、すごい。まだ半分もないですね。大丈夫だ」 不二子はんは踊りとなったら止まらない。 いつまでもホールで踊っている。 よしろうはんはテキーラ。 アルマーはカクテル。 カウンターで休んでいた。 「お母様、元気ですね」 「そやねん」 「あのステップ面白いやろ」 「はい」 「阿波踊りみたいやろ(笑)」 「ふふっ、少し」 「せやろ」 アルマーは踊る不二子はんを見つめた。 「でも、お母様が踊ると格好いいですね」 「そうか?」 「はい。なんだか楽しそうだから」 よしろうはんは微笑んでいた。

第12章 夜の帳 590話

Club のダンスホールで踊るよしろうはんとアルマー。そして不二子はん。 もう50年も踊ってる。 不二子はんはもっと。 よしろうはん。今時の音は踊りやすいな。 そやねん。AIがいいとこ取りばかり流すからな。 そやねんな。 どうりでちょっと疲れるわ。 はは。 そうやねん。 ええばかりがええとも限らん。

第12章 忘れ草 589話

イメージ
「不二子はん」 へー 「六十を過ぎても恋なんぞするもんかね」 不二子はんは湯呑みにお茶を注ぎながら微笑んだ。 「するんやないですやろか」 「そうか」 「春になったら桜が咲くようなもんどす」 よしろうはんは少し笑うた。 「人間は花か」 「そうですやろか」 不二子はんは窓の外へ目をやった。 田んぼの畦では、オレンジ色の忘れ草が雨に濡れて咲いていた。 「綺麗なもんを綺麗やなぁ思うたり、誰かの顔を見たいなぁ思うたり。そんな気持ちは歳と相談して出てくるもんやおへん」 「なるほどね」 「若い頃とは違いますけどね」 「どう違う」 「急がんようになります」 不二子はんは静かに言うた。 「若い頃は手に入れたいと思うもんどす。歳を重ねると、ただ傍にいてくれはったらええと思うたりします」 庭の小さな池で、メダカが水面をかすめた。 「それも恋か」 「恋やと思います」 不二子はんは少し首を傾げた。 「むしろ、そっちの方が本物かもしれまへんな」 よしろうはんは外を眺めた。 燕が巣作りをしている。 梅雨雲は低く垂れ込めていたが、田の水面はどこか明るかった。 「不二子はん」 へー 「人はいつ老いるんかな」 不二子はんはしばらく考えた。 そして穏やかに答えた。 「心が動かんようになった時やないでしょうか」 「心が?」 「ええ」 湯呑みを両手で包みながら続けた。 「田んぼの畦の花を見ても、山を見ても、人を見ても、何も感じんようになったら寂しいですやろ」 よしろうはんは頷いた。 「そうだな」 「恋いうのは、誰かを好きになることだけやありません」 不二子はんは微笑んだ。 「明日も、もう少し生きてみようかと思えることかもしれまへん」 二人はしばらく黙ったまま外を眺めていた。 忘れ草が、雨上がりの風に揺れていた。       「忘れ草(わすれぐさ)」は古くからの呼び名で、万葉集などにも登場します。忘れ草にはいくつかの説がありますが、現在では多くの場合、 ヤブカンゾウ を指すと考えられています。「忘れ草」という名は、「憂いを忘れる草」という意味から来ています。万葉集では恋の苦しみや悲しみを忘れたい気持ちと結びつけて詠まれました。 よしろうはんが毎年楽しみにしている美しい花。花の蕾は食べたり薬用効果...

第12章 人生の後半に 588話

アルマー、ここが久住山だ。 四十年前、雪山の頃に頂上まで登ったことがある。 坊ガツルまで歩いて行こうか。ここからなら近い。 はい。おとうさん。 美しい景色。 よしろうはんは登山が大嫌いやった。 しかし、アルマーが楽しそうなので歩いていた。 ところが、よしろうはんはこのあと急きょ京都へ向かうことになった。 近景の旅は日帰りとなる。 温泉に浸かり、アルマーとの帰り道。 日は沈み、空にはマジックアワーの深い青の中に下弦の月と金星が浮かんでいた。 車を停めて、しばらく眺める二人。 アルマー、綺麗やな。 素敵です。      

第12章 アルマーと近景の旅へ 587話

おとうさん。 ん?なんだね。 おとうさん、湯布院や久住の山を歩いて見たい。 そしていつかおとうさんが言ってたアルカリの温泉も行きたいな。 おう。 ええよ。 行こか! はい。  ぶるん るんるん るー!! ちゃかちゃかちゃかちゃか ずんずん ぱかぱか ぱかぱか ずどんどん とジャンベの音楽が鳴り響く。 あ。一廉の奥方様 おめでとござんす(笑)  

第12章 縁切り 586話

翌朝、不二子はんは台所で水菜を洗っていた。 不二子はんの手が、ふっと止まった。水だけが流れ続けた。パソコンの画面に、新しいメールが一件、届いた。不二子はんはそれを見て考えた。 「もう、ええわ」 それだけ言って、また水菜を洗い続けた。水の音だけが台所に響いた。 よしろうはんは煙草の灰を落として、メールを伝えた。 無言の不二子。  何かあったかは、二人とも聞かなかった。 午後になって、不二子はんは庭の日本ハッカに水を。 よしろうはんが通りがかって、ちらっと見た。 「消したんか?」 へー 何事もなかったような不二子。 ハッカの葉に水が落ちる音が続いて、それで章は終わった。

第12章 雨笑う 585話

うちもそう思うてたとこやわ。 家路につく二人。 「なんか作りましょうかね」 不二子はんが言うた。 「ええな」 よしろうはんは笑うた。 台所はまだ少し薄暗い。 不二子はんは冷蔵庫をのぞく。 「ありもんでええやろか」 「なんでもええで、不二子はんの料理はうまいから」 外は雨。 なんだか騒がしい。 不二子はんは鍋を出しながら言う。 「悩み事、ほんまはまだあるんちゃいますの」 よしろうはんは少し黙った。 「まあな。でも今日はええ日や」 「ほな、それで十分どすな」 鍋に入れた水が揺れた。 もう永遠に話せんな。。 そうよしろうはんは考えていた。

第12章 梅雨のと或る日 584話

なぁ。不二子はん。 へー 一緒に散歩しないか。 へー ええ塩梅でうちもそう思てましたさかい。 川端を歩く二人。 なにやらよしろうはんに悩み事でもある様だ。 へー それは案さんの思い過ごしやさかい。 そうかのう。 なにやら込み入った話の様で。話し合うふたりが歩いている。 燕が田んぼを飛んでいる。 梅雨の晴れ間に急いで巣を作っているのだろうか。 それでさ。 どう思う? へー うちにはわからへん。 そうか。 そうだよな。  早いものでもうすぐ家路に着こうとする二人。 なにやら笑顔で帰って来る。 ご機嫌なようだ。 あー。よかったで。不二子はんと散歩出来て。 へー うちも楽しかったで。 なんか作りましょうかね。    

第12章 雨の形 583話

雨って、しずく型ではありません。 小雨は球体を保ち、 大きな雨粒は潰れてハンバーグ型になるそうです。 昔、あるイラストレーターが雨を見上げる構図で描いていました。 雨粒は真ん丸でした。 彼女はきっと、目で見たまま描いたのでしょう。 凄いよね。 大学生だった当時のぼくは感心しました。 いつの間にか、彼女はぼくのアパート内の向かいに引っ越してきました。 そういう訳で、お付き合いが三年ほどあったでしょうか。 当時から有名な漫画家さんでした。 「雨は下から見たら丸いんだよ」 もう四十年も昔のことを、よしろうはんは思い出していました。 彼も今空を見上げました。 丸いかもな。 そう思いました。 俯瞰で見るのではなく、見上げる。 僕の特徴であるローアングルから見る視点は、この辺りから生まれたような気がします。 結婚の約束をするも別れてしまった二人。 壮絶な別れ方でした。 ただ。 僕は、その頃と変わらないように思えます。 もっと小さい頃から、何も変わっていないようにも思えます。 適応しようとは考えない。 何なんだろうとばかり考えているんだ。