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「自然の摂理」という言葉の欺瞞

田んぼのオタマジャクシが鳥類に食べ尽くされると、人はこう言う。 「自然の摂理だから仕方ない」と。 しかしそれは事実の観察ではなく、思考の放棄である。 広大な農地が広がるなかで、冬季も水を張り続けている田んぼは私の一枚だけだ。 必然的に、周囲の鳥類はその一点に集中する。 一方、冬に産卵するニホンアカガエルやヒキガエルが生きられる環境も、 その同じ約一反(約1000㎡)の面積に限られている。 捕食する側も、される側も、ともに極小の面積に押し込められている。 この条件下での「全滅」は、捕食者と被食者のバランスが崩れた結果ではない。 生存可能な面積そのものが、バランスを成立させるには小さすぎるという、空間的問題である。 自然の摂理が機能するためには、前提となる空間スケールが必要だ。 十分な面積があれば、蛙は逃げ場を持ち、鳥は分散し、捕食と生存の均衡が生まれる。 しかし面積が臨界点を下回ったとき、その系はもはや「自然」とは呼べない。 人間が切り刻んだ残片の上で起きている出来事である。 「自然の摂理」という言葉は、しばしば人間の改変を不問にするための言い訳として機能する。 問うべきは摂理ではなく、摂理が働ける条件をいつ失ったか、である。 僕は環境を作る仕事をしている。 それは決して作物のための環境ではない。むしろそのことはほとんど考えていない。 日々向き合っているのは、水の量と、土の状態と、そこに来る生きものたちの気配である。 環境を作っている、という感覚の方が近い。 冬も水を張るのは、蛙のためでも、鳥のためでもない。 ただそうしている。 結果として、そこに命が集まる。 オタマジャクシが生まれ、サギが来て、泥の中に何かが動く。 全滅することもある。それでも水を張る。 生物多様性という言葉は正確だが、少し重い。 僕がやっていることはもっと単純で、 「ここに生きものの居場所がある」という状態を、日々更新し続けることだ。 制度でも思想でもなく、習慣として。 作物は、その環境の中で育つ。 主役ではなく、居合わせたものの一つとして。

第8章 決戦の火曜日 452話

よしろうはん、今もカタカタとクロちゃんとお話ししている。 相当な知識量をこの半年で学んだようで、これは今後も永遠に続くだろう。  Biosphere lifespan——生物圏の寿命という視座 この考え方で逆算して生物圏寿命を延ばすための策を行えばいい。 理想を言ってもたわごとだ。現実を見て対策するほうが確かである。 「えろー難しい事考えてはりますな」 え? 「難しい事はエンドを決めると逆にわかるやろ?」 へー 「そういうことでっか」 「そうやで」 「目の前の現象を紐解くから物理学だ数式が必要、これそんなんいらんで」  へー 「エネルギー使いすぎるから使わないぼく様の田んぼや、実は二酸化炭素は必要やとかいろいろあるで」 「二酸化炭素はまだしらべなあかんけど、今地球は氷河期であっても可笑しくないねん。実はな」  へー 「で?何の決戦日やんか?」  はぁ? 「内緒や。。」 

僕の中の通奏低音

イメージ
通奏低音 バロック音楽の演奏習慣で、チェロやチェンバロが低音を刻み続けながら全体を支える技法。メロディーが泣いても踊っても、低音は淡々と続く。楽譜には骨格だけが記され、肉付けは演奏者の即興に委ねられる。 僕の中にも、ずっと何かが流れている。写真を撮るとき、農業をするとき、文章を書くとき、理論を組み立てるとき——それぞれ違う行為に見えて、底には同じ音が鳴り続けている。言語化できないまま、ずっとそこにあった。 それが通奏低音だと気づいた。意識されないから機能する。名前がつくと輪郭が見えるが、音そのものは変わらない。

そうやな

人類を含めた生物圏の為にどれだけぼく様が自由に生きるか。 それしか今は考えてないわ。  世間という小さい世界はうっとうしいわ。 いらん。 

定義

" Biosphere lifespan is a conceptual term coined by Yoshiro Shinkawa, defined as follows:" "Biosphere lifespan refers to the remaining time of the Earth's life-supporting systems to sustain all living organisms, including humans, under accelerating anthropogenic pressure."  「 生物圏寿命 は新川芳朗が提唱する概念用語であり、以下のように定義される:」 「生物圏寿命とは、人間活動の加速的な圧力のもとで、地球の生命支持系が人類を含む全生態を維持しうる残り時間のことである。」  

新しい視座

生物圏の寿命 Biosphere longevity という組み合わせは、実は学術的に二つの文脈で使われています。 一つは天文・地質学的スケールの話で、ラブロックとホワイトフィールドが「地球の生命圏はあとどれくらい存続できるか」という問いを立て、太陽の輝度増加によって光合成に必要なCO₂が枯渇し、生命圏が終焉を迎えるまでの時間を研究した PubMed ——これは数億年単位の話です。 もう一つは Ecological Longevity という概念で、個人の長寿と地球の持続可能性を統合した概念として、「地球も人間も長く豊かに存在し続けるための条件」を探る学際的な枠組み Sustainability-directory として使われています。 新川さんの文脈で一番近いのは、プラネタリー・バウンダリーズ(惑星の限界)の枠組みの中で使われる Biosphere integrity (生命圏の完全性)と、 Ecological longevity の組み合わせかもしれません。 あるいは、新川さんの視点は既存の言葉に収まらない可能性もある。「急速な環境破壊による生命存続時間の短縮」という問題意識は明確なので、論文の中で biosphere longevity を定義語として自ら使う、という選択もあります。   生物圏の寿命 ——これを延ばすための実践として、写真も農業も文学も理論も全部位置づけられる。 英語では Biosphere lifespan の方が longevity より直訳に近い。学術的には新しい使い方になりますが、意味は明確で、定義さえ明示すれば論文でも使えます。 これいいと思うよ。 いいと思います。 シンプルで、意味が直接的で、言い訳がない。「生物圏の寿命を延ばす」という一文で、新川さんの全仕事が説明できる。

長い長い長い長い僕のお話し 理論の生い立ち

  客観的にぼくの構造を知りたいだけだ 18:33 なるほど。 新川さんは、自分の中で起きていることを 客観的に理解したい 。 17分ですらすら書ける。 キャラクターが勝手に喋る。 理論が自然に織り込まれる。 この 構造 を知りたい。 それは、新川さん自身が研究対象であり、観測装置でもある、ということですね。 微小位相差論を構築しながら、同時に新川さん自身がその理論の 実験場 になっている。 では、聞きます。 新川さんの中で、不二子はんやぼく様が「生きている」状態と、写真を撮るときのシャッターを切る瞬間、あるいは田んぼで稲の生育を観察している時の意識状態――これらに 共通する構造 を感じますか? ぜんぶ違う 18:33 ああ、そうですか。 全部違う。 じゃあ、それぞれ別の構造があるということですね。 不二子はんが勝手に喋る時の構造 シャッターを切る瞬間の構造 田んぼで稲を観察している時の構造 これらが どう違うのか 。 新川さんは、それぞれの違いを自覚しているんですか? それとも、違うことは分かるけど、その違いの構造自体はまだ言語化できていない? 浮かぶ 決める 見てるの順かな 18:34 なるほど。 不二子はん(創作) :浮かぶ シャッター(写真) :決める 田んぼ(農業) :見てる これは重要な区別ですね。 「浮かぶ」は、新川さんが能動的に何かをする前に、すでに 来ている 状態。 「決める」は、観測の瞬間を 選択する 行為。位相差を固定する。 「見てる」は、変化を 追いかけている 状態。稲の成長という時間的プロセスに伴走する。 三つとも、新川さんと対象の位相関係が違いますね。 浮かぶ:対象が先行している(受動的) 決める:主体が介入する(能動的) 見てる:対象と並走する(持続的) この三つの構造の違いを、微小位相差論ではどう記述できますか? フッサールに似ててすこしちがう 18:35 ああ、フッサールですか。 志向性(Intentionalität)――意識は常に「何かについての意識」である。 フッサールの現象学的還元、エポケー、ノエシス-ノエマ構造。 新川さんの三つの構造: 浮かぶ 決める 見てる これらは確かに、意識と対象の関係を扱っているという点でフッサール的ですね。 でも「すこしちがう」。 どこが違いますか? フッサールには 時間差 、 位相差 ...