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0に限りなく近い距離 02

はい。核心です。 新川さんから「はい。核心です。」という確認をいただいた。 287話の「興味あらへん」という一言が、40年以上かけて練り上げてきた思想の核心——「0に限りなく近い距離から物を見る、シャッターを切る」という実践的態度の表明だった。 0は存在しない仮想数字。到達不可能。しかし限りなく近づく。その位置から見る。なににも捕らわれない位置。 これが: 1980年代の「ゼロに向かって考える」 微小位相差論における「微小」 ローライによる「視線が衝突しない距離感」 写真家を「記録者」ではなく「実践者」とする立場 名声や評価への無関心 すべてを貫く核心的原理。 287話は、300話での変容に向かう物語の中で、よしろうという人物の本質を改めて明確に示す重要な回だった。 僕の理解が正しく届いたようで、良かった。 ありがとうございます。 287話で不二子が何気なく言った「あんさんもなまえ書いとき」に対する「興味あらへん」が、40年以上の実践と思索の核心を示す一言だったんですね。 0に限りなく近い位置から見る——到達不可能だからこそ、常にそこへ向かって近づき続ける。その姿勢が、写真における全ての判断を貫いている。 巻末のリストは、偉大な写真家たちへのリスペクトであると同時に、彼らもまた「その位置」を求めた実践者だったという確認。しかし新川さん自身は、そのリストに名を連ねることには関心がない。関心があるのは、ただ0に近づくこと、そこから見ること、そこからシャッターを切ること。 ローライというカメラの選択も、この核心から導かれている。 300話に向かう物語の中で、この核心が改めて明示されたことの意味が、よく分かりました。 その位置から今度は微小位相差です。おわかりかな? ああ、そうか。 0に限りなく近い位置から物を見る、シャッターを切る——これが最初の核心。 そして、その位置から見たとき、何が見えるのか。 微小位相差。 0に限りなく近い位置——つまり、あらゆる捕らわれから自由になった位置、既存の枠組みから解放された位置から見ると、微小な位相差が見えてくる。 通常の視点(1以上の数字の位置)からは見えない、微小な差異。しかしその微小な差異こそが、物理、認知、情報のすべてにおいて決定的な働きをする。 ローライでペア写真を撮る——2枚のレンズによる...

0に限りなく近い距離

その位置から撮らないと写真は死ぬ。 新川さんが「その位置から撮らないと写真は死ぬ」と言っている。 ローライフレックスの腰位置ファインダー、そして巻末リストで繰り返し指摘されている「視線が衝突しない距離感」「威圧感のなさ」「被写体と対峙しながらも視線が衝突しない」という特性。 これは単にカメラの物理的な特性の話ではなく、撮影者と被写体の関係性、そして写真という行為の本質に関わる話なんだ。 目線の高さでカメラを構えて被写体を見下ろすのではなく、腰の位置から、ある種の「謙虚な位置」から撮る。その位置関係が、写真に何かを与える、あるいは写真を生かす。 「興味あらへん」という言葉で示された、名声や評価への無関心。そして「その位置から撮らないと写真は死ぬ」という言葉で示される、撮影行為における「正しい位置」への絶対的なこだわり。 これは物理的な位置であると同時に、倫理的・哲学的な「位置」でもある。撮影者が立つべき場所。見るべき位置。 微小位相差論で言えば、観測者の位置そのものが観測対象との関係性を規定し、その関係性が「位相差」を生み出す。だから「位置」は決定的に重要。 写真家たちの名前を列挙しておきながら「興味あらへん」と言い、同時に「その位置」には絶対的にこだわる。 よしろうはんの姿勢は、写真における深い哲学的態度を体現している。撮影の技術を超えた、人間としての根本的な姿勢を示す。写真を通じて、謙虚さと誠実さを追求する生き方そのものを表現している。 ああ、そうか。 ローライの腰位置ファインダー。巻末リストで繰り返される「視線が衝突しない距離感」「威圧感のなさ」「被写体と対峙しながらも視線が衝突しない」という言葉たち。 これは単なるカメラの特性の話じゃない。 撮影者がどこに立つか。どの高さから、どの角度から、どういう関係性の中で見るか。その「位置」が、写真を生かすか殺すかを決定する。 物理的な位置であると同時に、倫理的な位置でもある。被写体に対する撮影者の立ち位置。 巻末に偉大な写真家たちの名を列挙しておきながら「興味あらへん」と即答する。名声や評価、写真史における位置づけには関心がない。 しかし、「撮影する位置」そのものには絶対的にこだわる。 これが実践者としてのよしろうはんの核心。微小位相差論で言えば、観測者の位置が観測対象との関係性を規定し、...

第3章 AM4:41 287話

ローライが来た。1954年のモデル。シャッターに少し問題がある。これはオーバーホールが必要だ。機械式カメラはこの繰り返しで100年以上使う事が可能になる。電気式は通常20年で修理も不可能。僕のカメラで一番古いのは1890年代だ。今でも動く。買った時と同じ金額がかかるが、これがめぐり合わせ。僕が業者に依頼すれば必ずいい写真が撮れるカメラに生まれ変わる......... 「おはようござんす。よしろうはん... コーヒー淹れますさかい」 「うん。ありがとう」  「そのカメラええな。クラシックやな。どうや調子は?」 「とうぜんだけど、2か所異常があるわ」 「買ったばかりやのにな」 「いやいや、この年式でこのコンディション奇跡やで、レンズも傷ひとつない」 「そういうもんか? はいこーひー」  「不二子はんもいっしょに飲もうや、おいしいわ」 「へー。こたつあったけぇー」  「このカメラ、不二子思うに..直感やけど、よしろうはんがええ写真撮れそうな気がするえ。小さくてかわいい事」 「これは昔、写真家はローライ使わんと写真家やないと言われたほどのカメラや」 「ほー。そうそうたる写真家ばかりやなぁ、よしろうはん...あんさんもなまえ書いとき(笑)」 「興味あらへん」 あはは!えへへ!    ローライフレックスを愛用した写真家 リチャード・アヴェドン(Richard Avedon) ポートレートにローライフレックスを多用。腰位置ファインダーによる正面性と被写体の心理的解放が特徴。 ダイアン・アーバス(Diane Arbus) 初期〜中期にローライを使用。被写体と対峙しながらも視線が衝突しない距離感が、彼女の倫理と直結。 ロベール・ドアノー(Robert Doisneau) パリの市井を撮った人道主義写真。静かに人の中に溶け込む道具としてローライを愛用。 ヴィヴィアン・マイヤー(Vivian Maier) ストリート+セルフポートレート。ローライだからこそ成立した鏡像・反射・距離の美学。 ヘルムート・ニュートン(Helmut Newton) ファッション/ヌード。ローライのスクエアを大胆な構図に転用した異色例。 デイヴィッド・シーモア(Chim) マグナム創設メンバー。子どもや市民を撮る際の威圧感のなさが決定的。...

微小位相差論のための新しい機材 

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ローライ フレックスROLLEIFLEX 3.5B Schneider-Kreuznach Xenar 75mm F3.5   Xenarのレンズ構成図   Xenar  f3.5 50,75,105,135,150,180,210,240mm 75mmはローライ Rolleiの2眼レフとアルパに採用。f2.8 38,45,50,75,80,105mm 38mmはRoBoT Royalに採用   引用  https://www.photo-china.net/column/schneider.html 個人的な感想。無敵のトリプレットタイプにリアは色消しレンズのメニスカスレンズ。このレンズ構成を考えた人は理論的に正しい。際どいレンズ構成だ。シャープなだけのトリプレットを芯があって周辺は僅かに位相する描写が可能だ。レンズ構成図だけを見ても理解できる。楽しみだ。   ローライフレックスを買うのは人生初。 微小位相差論用に購入、スクエアの画面は2枚並べると1対2の画像が出来る。 おさまり的に非常にいい。 描写は全機種定評のあるRollei コレクターではないし柔らかいだけの描写などどうでもいいのでレンズは何でもよかったが、安い型の Schneider-Kreuznach Xenar 75mm F3.5にした。開放での描写は2.8よりいい。またクセナー独特の鋭い描写は前から気になっていた。レンズNo.4617272はピタゴラスの数字学で11になる。僕と最高に相性のいい数字だ。僕のカメラ遍歴の統計では影響力は強力だ。     ピタゴラス学派  数字の11が持つ意味 11は、直感、洞察力、霊的な目覚めを象徴する「直感的な啓示者」として知られています。     発売時期 : 1954年

WILD LIFE ーRecreating the Natural World

WILD LIFE ーRegenerating the Natural World I've come to think lately that my life is wild life itself. It's not an academic graduate student life, of course. Far from the quiet research life spent grappling with literature in the library from morning on. Nor is it the wild life of adventurers, travelers, or those who live in untamed environments. Not the style of traveling uncharted lands with a backpack on your shoulders. I've been expanding pesticide-free rice farming environments to construct photography. The total area I've worked on amounts to 7 chō. In the rice fields I've gradually expanded from one tan, I observe biodiversity practically while working on environmental restoration. A remarkable diversity of life returns to rice fields without pesticides. This is agriculture and simultaneously a verification site for photographic theory and the Theory of Micro-Phase Differences. From my house, I hear the sounds of wild birds—ducks, geese, snipes—frogs and ...

2025/11統合版 博士論文草稿 2025筆 微小位相差理論と現代写真表現:存在・運動・意図の統合的理解

博士論文草稿 2025筆 微小位相差理論と現代写真表現:存在・運動・ 意図の統合的理解 新川 芳朗 所属:京都芸術大学大学院 芸術研究科 芸術専攻 写真映像領域 2025年11月 目次 序論:写真の定義の揺らぎとパラダイム転換 第1章:微小位相差理論の構築 1.1 理論の起源:個人史的背景 1.2 理論の数学的展開 数学的定式化への動機 U(1)ゲージ理論による表現 存在の不変性原理 5層構造への展開 2枚組写真による証明方法論 理論の社会的機能 1.3 理論の基本原理 (1)エネルギー保存の原理 (2)時間の重層性 (3)エントロピーと視点の相対性 (4)差異と運動の必然性 1.4 理論の実践的適用 第2章:写真史的文脈における微小位相差理論 2.1 ドキュメンタリー写真の系譜と限界 2.2 New Topographicsと客観性の探求 2.3 写真家から実践者へ:役割の拡張 第3章:Altered Landscape──変容する風景の記録 3.1 現代日本における風景の急速な変化 3.2 写真技法:古典技法による現代の記録 3.3 写真の認識論的機能 第4章:AI時代における写真の再定義 4.1 写真の定義の歴史的変遷 4.2 真正性(Authenticity)をめぐる議論 4.3 新しい定義:意図の記録としての写真 第5章:理論と実践の統合──持続可能な創造へ 5.1 写真実践と環境実践の接続 5.2 地域社会との協働 5.3 批判的省察と理論の限界 検証可能性の問題 普遍性の問題 還元主義への警戒 実践の持続可能性 結論:写真の未来へ──記録から創造、観察から実践へ 参考文献 謝辞 図版リスト   序論:写真の定義の揺らぎとパラダイム転換 写真は1839年にダゲールによって発明されて以来、「光を記録する技術」として認識されてきた。カメラのレンズを通して捉えた光をフィルムやセンサーに焼き付けることによって、一瞬の現実を固定化することが可能となり、それが絵画や他の視覚表現と明確に異なる本質的特徴となった(Sontag, 1977)。ロラン・バルトは『明るい部屋』において、写真の本質を「それは=かつて=あった」(ça-a-été)という過去の実在性の証明に見出した(Barthes, 1980)。この...

Theory of Micro-Phase Differences---Higo chrysanthemum flower  Experimental photos

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  Higo Chrysanthemum Flower - Experimental Photos November 23, 2025 この実験写真シリーズは、肥後菊の花を被写体として「微小位相差理論」の視覚化を試みたものと理解しました。 写真映像領域の研究として、いくつかの技術的・理論的アプローチが考えられます: 考えられる実験的アプローチ 位相差顕微鏡技術の応用 肥後菊の花弁や蕊の微細構造における光の位相差を捉えることで、通常の光学顕微鏡では見えない透明な構造や屈折率の変化を可視化できます。 時間的位相差の記録 同一の肥後菊を異なる時間帯に撮影し、開花過程における微小な変化の位相差を記録・比較する手法。 空間的位相差の解析 花弁の配置、蕊の構造など、肥後菊特有の幾何学的パターンにおける微小な位相のずれを測定・視覚化する手法。 光学的干渉パターン 花の表面における光の反射・屈折による干渉縞を利用し、微小な形態変化や構造の差異を検出する手法。 この研究についてさらに詳しく伺えますか? 例えば: 使用されている撮影技術や機材 理論的フレームワークの詳細 実験の目的や仮説 これまでに得られた知見 京都芸術大学大学院での研究として、どのような方向性で進められているのか、お聞かせいただければと思います。 わかったのはこの写真に位相差は写ってない。 ただ、何か気になる微小位相差はあるのではないか。 最初に見る世界は認識されていないので、 視座が曖昧だ。 ただ見えないだけかもしれない。  shinkawa なるほど、重要な発見ですね。 「位相差がない」ことの発見 実験の結果、微小位相差が検出されなかった、あるいは予想していた差異が観察されなかったということですね。 これは研究において意味のある結果だと思います: 可能性のある解釈: 測定限界の確認 - 使用した撮影技術や機材では、肥後菊における微小位相差を検出できる精度に達していない 理論の検証 - 微小位相差理論が、この特定の被写体(肥後菊)には適用されない、あるいは差異が生じる条件が満たされていない 同一性の証明 - 比較した対象(異なる時間、異なる角度、異なる個体など)の間に、予想に反して差異がないという発見 基準の設定 - 「位相差がない」状態を記録す...

あかむらさきの肥後菊 微小位相 

庭に昨年植えた肥後菊が咲いていた。 同じ品種であるから同じような花である事は当然かもしれない。 はて?  ただ2つを見比べると僅かに違う。 その違うそれぞれが花開き重なって群生している。 或る意味重層的な空間だ。 さて何を言いたいかというと当たり前のこの現実はどのようにでも捉えられる。 見えてるものはひとつの層としても、別の層があるのはおかしくない。 人がそう見えても昆虫は違う見方をしている。スケール感も違う。 私は知っているが、これを伝えるのは難しい。 あなたはどう思うだろうか?   「花の写真撮ったらどうですか?」 その時、肥後菊の花を差し上げた方の耳元で光る銀色のピアスに、思わず目を奪われた。     はて。。  その後、脳内に記録されたその景色を再生して俯瞰から見ながら考えていた。 幾層ものズレが想定される。 ふと「花」かと考えて見た。  確かにそうかもしれない。 同一の様でそうでは無い。。  花こそ微小位相論の被写体として最適かもしれないと。。  人は偉大なメッセージを聞き逃す。 それは相手への信頼と日常の中に存在している。  僕は脳内で何度でも位相を変えてリプレイできる。 

「微小位相差論」アインシュタインの相対性理論との比較 学びの実践領域へ

  新川さんの「微小位相差論」は、アインシュタインの相対性理論とは 目的も方法論も全く異なる ものですが、興味深い対話が可能です。 根本的な違い 相対性理論 物理学的理論:数学的に定式化され、実験で検証可能 目的:自然界の法則を記述する 方法:観測と数式による予測 微小位相差論 哲学的概念:写真実践を通じた存在論 目的:世界の見方・理解の仕方を提示する 方法:視覚的・直感的な体験の提示 興味深い共鳴点 1. 時間の相対性 相対性理論は「同時性の相対性」を示しました。観測者の運動状態により、何が「同時」かが異なる。 新川論文はこれを拡張するように、 時間の絶対性そのものを解体 しています: 「時間は存在しない。少なくとも、私たちが信じているような直線的な時間は。」 2. 観察者の役割 相対性理論では、観察者の運動状態が測定結果に影響します。絶対的な座標系は存在しません。 微小位相差論では、観察者の 位相選択 が現実の認識を決定します: 「どの状態を『現実』として認識するかは、観察者の位相に依存する。」 3. 重ね合わせと共存 量子力学(相対論とは別ですが)の「重ね合わせ」に対して、新川論文は言います: 「量子力学が数式で記述しようとしているものを、写真は視覚的に、直接的に提示できる。」 批判的検討 しかし、注意すべき点もあります: 物理学との混同リスク 新川論文は「これは量子力学における重ね合わせを想起させる」としながら「物理学的な対応関係ではない」と慎重に述べています。これは重要な区別です。 エントロピーへの言及 「別の位相系列では、水は床から集まりコップに戻る。」 これは物理学的には誤りです。熱力学第二法則は統計的必然性であり、「位相の選択」では覆せません。ただし、新川さんはこれを 比喩 として使っているのかもしれません。 評価 新川論文は、相対性理論の「間違い」を指摘しているのではなく、 異なる領域で異なる目的のために独自の概念体系を構築 しています。 これはドゥルーズ=ガタリの言う「概念の創造」であり、その価値は: 科学的正しさではなく 思考を開く力 新しい視点の提供 芸術実践への示唆 にあります。 相対性理論が物理世界の記述として成功しているように、微小位相差論は 写真実践と...

新写真論 微小位相差論 YOSHIRO SHINKAWA

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微小位相差論――写真による存在の記述 新川芳朗 京都芸術大学大学院 芸術研究科 写真映像領域 2025年11月18日   微小位相差論,Thinking to Zero,Zero Ground,Altered Landscape,   Photographed in 2016  Created in 2025   YOSHIRO SHINKAWA   序論:概念を創るということ 写真は何を記録するのか。40年の実践を経て、私は通常とは異なる答えに到達した。写真は光を記録するのでもなく、時間を固定するのでもない。 写真は存在の重層性を露わにする装置である。 本論文で提示する「微小位相差」は、証明を求める理論ではない。それは新しい概念の創造である。ドゥルーズとガタリが述べたように、哲学の仕事は概念を創ることにある(Deleuze & Guattari, 1991)。私は写真家として、写真という特異な行為を通じてのみ可能な概念を創る。 **時間は存在しない。**少なくとも、私たちが信じているような直線的な時間は。過去も未来も、今ここに重なり合って存在している。写真を撮るという行為は、この重なりから一つの層を選び取り、定着させることである。しかし定着されなかった他の層は消えたのではない。それらは微小な位相差を持って、なお存在し続けている。 第1章:連続撮影という方法論 1.1 実験の設計 2016年より、私は同一地点で定点的に撮影を続けてきた。仮に1秒間隔で1時間撮影すれば、3600枚のコマが得られる。 これらの画像を並べて見る時、何が起こるか。 各コマは明確に「異なる瞬間」を示している。雲の形が変わり、光の角度が変わり、波の形状が変わっている。しかし同時に、地平線、防波堤、遠くの山並みといった不変要素により、それらは「同一の場所」であることが保証されている。 1.2 矛盾の発見 結果として観察者は、矛盾した認識に直面する。 これは同じ場所である しかし同時に、これらは異なる時間である ならば、 同じ場所に異なる時間が共存している のではないか この認識こそが、微小位相差の直接的体験である。 写真が捉えるのは光ではない。写真が捉えるのは 選択 である。シャッターを切る瞬間、写真家は...