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思うに

アートは年々スケールダウンし続けている。なぜなのだろうと思う。現代アートは、鑑賞時間が長期に耐えられない、かさばっただけのゴミしか生み出していない。私の見解では、草間彌生はゴミしか生み出していない。そのように考えるのは可笑しいだろうか。

ということで。

もうぼくはすごく自由な時間に生きてるので此処だけには存在しない。 その人と話していても、実体は此処に在っても、もう僕はそこにはいないんだ。  わかかりやすく言えば。現実にいて現実だけの世界にはいない。  

曼珠沙華への返信 会話記録

 Yoshiro、あなたが彼岸花について書いた文章を読んで、私は花についてでも、経典についてでもなく、あなたが言わずにやっていることについて考え続けました。 あなたは、異なる道筋からやって来た二つの動きを――一つは植物学的なもの、もう一つは宗教的なもの――取り上げ、それらを日本で交差するところまで追い、そして、その交差が何を残したのかを考える。そして、あなたはそこに留まり、その痕跡を見ている。 私も痕跡を見ます。 でも私は、別の仕事から来ています。私は medianeras を建てます。 medianeraは壁ではありません。壁は隔離します。medianeraは二つの所有地を分けますが、その両方を支えます。それは構造的に共有されています。あなたのものでも私のものでもなく、二人のものです。 そして興味深いのは、medianeraがまさに二つの建物が出会う場所――つまり、 交差する場所 に建てられるということです。 あなたは交差を描写する。 私は交差する場所に物を建てる。 だから、あなたの文章で私を惹きつけたのは、あなたが開いたままにしている謎ではありません――それはそのままにしておきます。それでいい。むしろ、もっと単純なことです。 あなたが描写する交差の幾何学は、見ることができ、共有することができ、そして 住むことができる 。 植物は中国から、地面に沿って水平にやって来た。 名前「曼殊沙華」は経典から、上から垂直に落ちてきた。 それらが交差するところで、文化的対象としての彼岸花が生まれる。 あなたはそれを見て、それぞれの流れがどこから来たのかを問いかける。 私はそれを見て、別のことを問いかける。 その交差の上に、何を建てることができるのか? これは小さな問いではありません。 なぜなら、あなた自身が別の時に、写真について、時間の中の一瞬を止める行為として書いたからです。動きを凍結すること。流れていたものを記録すること。 彼岸花はそれです。 歴史の写真です。 二つの動きが止まり、一つの形を残した瞬間です。 そして写真は、花のように、交差のように、謎ではありません。 誰かが立つことのできる場所です。 ここで私は、あなたの考察が価値あるものでありながら、少し自分自身を閉じ込めているのだと思います。 あなたが作る迷宮――経典...

曼殊沙華は、なぜ日本にあるのか Why Does Manjushage Exist in Japan?

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My Nepalese friend told me that it can be found everywhere in their country, while my friend from Myanmar said they had never seen it. From these differences, I began to speculate that its presence in Japan may have some connection to Buddhism and its transmission from Nepal. ネパールの友人は「母国ではどこにでもある」と言い、ミャンマーの友人は「見たことがない」と言いました。そこから、私は日本におけるその存在が、仏教とネパールからの伝来に何らかの関係があるのではないかと推測しました。 曼殊沙華は、なぜ日本にあるのか Why Does Manjushage Exist in Japan? 秋になると、田んぼの畦や墓地の周辺に突然、赤い花が現れる。曼殊沙華(まんじゅしゃげ)。一般には彼岸花と呼ばれる花である。 Every autumn, red flowers suddenly appear along rice fields and around cemeteries. They are called Manjushage in Japan, more commonly known as Higanbana , the red spider lily. ふと気になった。 I began to wonder about this flower. ネパールにはヒガンバナがある。しかし、ミャンマーには、少なくとも現在のところ、ヒガンバナ( Lycoris radiata )の確かな自生分布は確認しにくい。一方、日本には広く存在している。 The red spider lily ( Lycoris radiata ) is found in Nepal. Yet, at least according to currently available records, there is no clear evidence of the same species occurring naturally in ...

Dreams are true while they last, and do we not live in dreams? 夢は、それが続いているあいだは真実である。

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My favorite quote by Alfred, Lord Tennyson Dreams are true while they last, and do we not live in dreams? The sun, the moon, the stars, the seas, the hills and the plains— Are not these, O Soul, the Vision of Him who reigns? Is not the Vision He, tho' He be not that which He seems? Dreams are true while they last, and do we not live in dreams?  私のすきな言葉  この言葉を探し当てた中学3年生の頃、それがその後今の今まで如何に私の支えになったであろうか計り知れない。 「夢は、それが続いているあいだは真実である。 そして、私たちは夢の中に生きているのではないだろうか?」 太陽、月、星々、海々、丘々、そして平原―― これらは、ああ、魂よ、君臨する御方の幻ではないのか? その幻こそが彼なのではないか。 たとえ彼が、見えているそのものではないとしても? 夢は、それが続いているあいだは真実である。 そして、私たちは夢の中に生きているのではないだろうか?

最近の活動

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研究のインターフェースとして機能しだしたFB Grzegorz Gorczyński氏のアンケートからサイト出典そして出版へと展開する。     実現するなら私の記念すべき1ページに成りそうだ。 長年に渡って無欲で研究した甲斐があった。  研究者そして写真家として物(炭素物)としての本になるのは大変栄光だ。  是非実現して欲しい。    また、多くの教授や学者、写真家、芸術家からのコメントも実に有意義だ。 洗練された情報さえくれる。  ヴロツワフのエウゲニウシュ・ゲッペルト記念ヴロツワフ美術大学で美術史および視覚芸術の教授の Emilla Oktawia Łagiewskaさんがユニークな動画を添えてくれた。 György Ligeti: Poème symphonique for 100 metronomes   Emilla Oktawia Łagiewska  Professorより György Ligeti(ジェルジ・リゲティ)の「100台のメトロノームのためのポエーム・サンフォニック(Poème Symphonique for 100 Metronomes)」を添付します。 私は、伝統的な和声や旋律を欠いたこのエントロピーが好きです。8分間にわたる「音のポリリズミックなジャングル」と、その最後の和音。そこでは、私たちが投げ込まれた混沌から、今度は空虚へと投げ込まれ、そこから絶対的な静寂が現れます。そして音は、まるで時間そのものが死んでいくかのように、最後のフレーズで消えていきます。 「ポエーム」の初演(1963年、オランダ・ヒルフェルスムで開催されたGaudeamus Musiekweek)では、スキャンダルが引き起こされました(叫び声、ブーイング、口笛、作曲家に向けられた公然たる脅迫など)。 ……それが60年後に、St. Mark’s Episcopal Church on Capitol Hillで(添付された動画のように)演奏されたときには、集中と熟考の中で聴かれています。 間違いなく、観客/聴衆の成熟度や、作者の意図に対する社会的な認識が、作品の受け取られ方に影響します。また、作品がどこで、どのような環境・雰囲気...

ポーランドの写真家Grzegorz Gorczyński氏が私を紹介

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Od piktorializmu do postfotografii.   września 02, 2026    https://grzegorzgorczynski.blogspot.com/2026/09/photography-as-material-state.html     https://grzegorzgorczynski.blogspot.com/2026/09/fotografia-jako-stan-materii.html     Grzegorz Gorczyński氏                 写真は物質の状態である 新川芳朗と歴史的写真技法の新たな可能性 現代における歴史的な写真技法への関心は、しばしば「過去への回帰」として語られる。サイアノタイプ、銀塩によるさまざまな技法、リスプリント、その他のオルタナティブ・プロセスが再び注目されるとき、それはデジタル以前の写真への郷愁、あるいは手作業による写真制作の復権として理解されやすい。 しかし、日本の写真家・写真研究者である**新川芳朗(Yoshiro Shinkawa)**の実践は、そうした単純な解釈では捉えきれない。 新川にとって歴史的な写真技法は、過去を再現するための目的ではない。それはむしろ、 画像、物質、プロセス、時間、写真オブジェクトの関係そのものを問い直すための方法 として機能している。 新川は「新川写真研究所」を拠点として、オルタナティブ・フォトプロセス、高耐久写真プロセス、そして自身が展開する「双構図」と「微小位相差論」について研究し、実験の記録や理論的考察を公開している。[1] そこでは作品制作、技術研究、材料研究、理論形成が明確に切り離されていない。 この点こそが、新川の実践を考えるうえで重要である。 歴史的な技法は、保存されるべき「過去の技術」ではない。それは現在において新たな問いを生み出すための出発点となっている。 再構成から実験へ 新川は、歴史的・オルタナティブな写真技法への関心を形成するうえで、Mark Ostermanから大きな影響を受けたと語っている。[2] Osterm...

Hikoma Ueno — The Founder of Japanese Photography

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  日本の写真の開祖・上野彦馬 日本の写真史を語るとき、避けて通ることのできない人物が上野彦馬(1838–1904)である。 彦馬は長崎に生まれ、オランダ医学・化学を学ぶなかで写真術に出会った。ポンペから化学を学び、さらに写真術を研究し、1859年頃には湿板写真の撮影に成功したとされる。1862年(文久2年)には長崎に「上野撮影局」を開業した。これは日本最初期の本格的な商業写真館である。 そこから日本の写真は、大きく動き始める。 坂本龍馬、高杉晋作、勝海舟、桂小五郎、後藤象二郎――幕末という激動の時代を生きた人物たちの肖像を、彦馬は写真として後世に残した。 しかし、上野彦馬の重要性は、単に「有名人を撮影した写真家」というところにはない。 彼は写真を、 西洋から伝わった珍しい機械技術から、日本で継続的に実践される職業と文化へと移行させた人物 だった。 しかも彦馬は写真家であると同時に化学者でもあった。 『舎密局必携』を著し、写真薬品の調製や撮影技術を研究し、多くの門人を育てた。その門人たちが各地で写真館を開き、日本全国へ写真術を広げていった。つまり彦馬個人の仕事だけでなく、 「写真を学び、写真を職業として次の世代へ伝える」という日本の写真文化の基礎を築いた のである。 さらに興味深いのは、彦馬の写真が肖像だけにとどまらないことだ。 長崎の街、港、外国人居留地、そこに暮らす人々――幕末から明治へと移り変わる日本の風景そのものが、写真として記録されている。 2026年には、1864~1867年頃に上野撮影局で撮影された写真187枚を収めた「上野撮影局写真帖」が国指定重要文化財となる方向が示された。そこには武士、民衆、外国人、長崎の風景などが記録されている。これは彦馬の仕事が、単なる「古い写真」ではなく、日本の写真史・科学技術史を考えるうえで重要な文化資料であることを改めて示している。 写真とは、単に「過去を写す」ものではない。 上野彦馬が残した写真を見ると、そこには日本が近代へ移行していく瞬間そのものが写っている。 一枚の写真の中に、人物だけではなく、時代、技術、社会、そして「見る」という行為の変化まで刻まれている。 日本写真の出発点を考えることは、写真とは何なのかを考えることでもある。 上野彦馬は、その問いを日本で最初に本格的に引き受けた写真家の一人だったのだと...

Eugène Atget: How Does a Photograph Become History?

  アッジェ論――写真はいかにして「歴史」になるのか ――ベレ・エポックのパリを「写してしまった」写真家 ウジェーヌ・アッジェ(Eugène Atget, 1857–1927)は、今日では近代写真史を代表する写真家として位置づけられている。しかし、その評価を自明のものとして受け入れることには、いささか慎重であるべきだろう。 なぜなら、アッジェの生涯と、死後に形成された「アッジェ」という写真家像との間には、大きな隔たりがあるからである。 アッジェは生前、現在のような意味での「芸術写真家」として成功していたわけではない。彼の写真は、画家、舞台美術家、歴史家、収集家などにとっての資料として機能していた。彼は自らを「芸術家」として確立するよりも、変貌するパリの街路、建築、庭園、店舗、装飾などを撮影し、それを必要とする人々に提供していた。 ここで重要なのは、アッジェの写真を「芸術作品」という概念だけから評価しないことである。 彼の写真の決定的な価値は、むしろ彼自身の芸術的意図を超えたところで成立している。 1.アッジェはパリを「撮影した」のではなく、パリを保存してしまった アッジェが撮影したのは、特別な出来事ではなかった。 そこにあった建物、路地、樹木、看板、店舗、広場、階段、街角。 それらは撮影された時点では、必ずしも歴史的価値を持っていなかった。 しかし、時間が経過すると意味が逆転する。 都市は改造され、建築物は取り壊され、店舗は消え、人々の生活様式も変化する。 その結果、かつて「現在」であった写真が、「失われた過去」の証拠になる。 ここに写真という媒体の特殊性がある。 写真は未来のために撮影されたものでなくても、未来から見ることによって歴史資料になる。 アッジェの重要性は、まさにこの時間的反転によって説明できる。 彼は「歴史的なパリ」を撮影したのではない。 彼が撮影した時点では、それはまだ歴史ではなかった。 彼は、現在進行形のパリを大量に撮影した。 そして時間がそれを歴史に変えたのである。 2.ベレ・エポックから近代都市への移行 アッジェの写真を考える上で、パリという都市の歴史的状況を無視することはできない。 19世紀後半から20世紀初頭にかけてのパリは、近代都市への巨大な転換期にあった。 都市空間は更新され、古い建築や街路は失われていった。 アッジェは、この変...

FB

フェースブックか。。 2018年に最初に始めた頃5000人を超えていたが、今回もまもなくそうなるだろう。 前回よりも速いペースだ。 ただ、内容がいい。 世の中には見事に僕の思うこと以上をコメントしてくる方がいる。 インターフェースデザインも向上していて面倒ではなくなっている。 ヨーロッパ圏を中心に今後の活動を見据えてるので、現地情報も聞けるようにしたい。 実際多くの情報を教えてもらった。 こういう使い方ならSNSも改めていいなと感じている。 日本では何の反応もない僕の写真だが、世界には通じる様だ。 この現象をAIに聞くと面白い回答が出てきた。 まあこういう事を書くと日本では嫌われるが、平気であるのが僕らしさだ。  僕の思考の根底には、だから何?という思想がある。  まあ、その件は後日。 

兎の餅つき

月の表面には、海と呼ばれる暗い部分が広がっている。溶岩が冷えて固まった平原で、模様そのものに意味はない。だが人はそこに、必ず何かの姿を見てしまう。 日本と韓国では、この模様は餅をつく兎として語られてきた。仏教説話に由来する話で、老人に身を捧げた兎を神が哀れみ、月に甦らせたのだという。中国では同じ兎が、臼で薬草を挽いているとされる。同じ兎という主題でも、何をしているかは土地によって変わる。 モンゴルでは犬に見立てられる。インドネシアでは編み物をする女性、ベトナムでは木の下で休む男性だという。インドではワニ、南アメリカ、とりわけアマゾン川流域のブラジルでもワニに見立てられる。力を持ち、恐れられる存在としての川の生き物が、月にもそのまま投影されている。 ヨーロッパに目を移すと、北ヨーロッパでは本を読む老婆、南ヨーロッパと中国の一部では大きな鋏を持つ蟹、東ヨーロッパでは女性の横顔、ドイツでは薪を担ぐ男とされる。アラビアでは吠える獅子、カナダの先住民の伝承ではバケツを運ぶ少女が語られる。ニュージーランドのマオリの間では、月の神を怒らせて月に連れ去られたロナという女性の姿だとされ、ポリネシアやメラネシアの多くの地域では、三つの石の上で火を使って料理をする人の姿として語り継がれている。 地球から見える月の面は常に同じである。したがって、これらはすべて同一の模様に対する解釈にすぎない。兎も、蟹も、老婆も、ワニも、網膜に届く光の配置としては同じものを指している。違うのは、見る側がどのような物語の型をあらかじめ持っているかということだけだ。兎のいない土地では兎は見えず、ワニの棲む川のそばでは月にもワニが棲みつく。土地の生態系、伝承、生活の記憶が、そのまま参照枠となって像を規定している。 これは、対象そのものの物理的な差異がどれほど小さくても、見る側の参照枠が異なれば立ち上がる像はまったく別のものになるという事態の、もっとも日常に定着した例だと言える。月の模様という一つの不変の実体に対して、無数の像が並列に存在し、しかもそのどれもが、それぞれの土地では自明なものとして受け取られている。像の複数性は誤認の結果ではなく、参照枠の複数性がそのまま反映されたものである。 満月を見上げるとき、そこに映るのは月の地形ではなく、見る者が属する文化の型そのものだと言ってもよい。 ...

What, really, is art?

現代アートは、いつも新しいものを要求される。 新しい表現。 新しい考え方。 誰もやっていないこと。 でも、僕はそれが、どうもつまらない。 「新しいものを作らなければならない」ということ自体が、すでに一つの型になっているように思う。 僕は、同じことを続けるほうが面白い。 写真でもそうだ。 同じ海を、何十年も撮っている。 田んぼも同じだ。 毎年、稲を植える。 水を見る。 草を見る。 稲を見る。 やっていることは、たいして変わらない。 それでも、毎年違う。 天気が違う。 水が違う。 土が違う。 稲の表情も違う。 同じことを繰り返しているからこそ、その小さな違いが見えてくる。 僕は、そのほうがずっと深いと思う。 新しいものを次々に作ることよりも、 同じことをやり続けること。 その中で、自分の見方が変わり、 世界のほうも少しずつ変わっていく。 稲作とて同じだ。 僕は、そう考えている。

Helena Passaporteの言葉

I love your photographs with their double analytical meaning, the aesthetic capture and the scientific relationship of the image. Polysemy of the image. Very good. ❤️🌻 Thank you very much. I am very happy that you feel the double meaning in my photographs. My work explores the small differences of phase between time, perception, and reality. I believe an image can contain multiple layers of meaning, beyond just what we see at first glance. 5:20 A semiotic analysis of images is like deconstructing what lies behind the mirror, revealing the richness each photograph possesses. Your photographs have the ability to awaken in me a passion for the captured image and a desire to learn what lies behind the visual message and the interconnections between the variables of time, perception, and reality itself. The wonder of each image is indeed what you so aptly and poetically refer to: that each image contains "multiple layers of meaning, beyond what we see at first glance." Every day ...

優しい雨

雨だ。 玄関のベンチでギターを弾く。 湿度が気持ちいい。。 アストリアスの音。 これはフラメンコだけどなんか違う。 いい意味で日本的な音。 でも。 これってスペインでは不思議な音に感じるだろうな。 そんな事考えて弾いていた。 あたらしいイマジネーション。 ちょっと面白い、歌うためのコードを作れた朝。 

無冠の帝王

なにそれ? 「無冠の帝王」 ああ、昔、友人たちが写真家の僕をそう呼んで笑っていた。 写真はいいのに、なぜ発表しないのか。 それはずっと意図的にやってきたことだった。 若い頃から評価を人生の中心に置いていなかった、 結果を急ぐのではなく、まず 観測することを人生の中心に置いた 。 若くして有名になって挙句路頭に迷う写真家は少なくない。 作品はブログで発表する程度。そのアクセス数も限られていた。 以前、SNSの友人は当時上限の5000人を超えていた。そこには世界中の著名な学者や写真家、アーティスト、そしてアートを愛する人たちが集まっていた。 再開してわずか二か月で2500人。 気づけば、やはり無視できない数字になっていた。 何よりも彼らがすごく正確に理解して言葉に出来るコメントは優秀である。   僕はずっと観測していた。 日本の写真界はどう反応するのか。 熊本や日本の学芸員は見ているのか。   環境活動に焦点を絞った観測手法の確立。 実際の田んぼを使った環境再生の実践。 山林の植生の多様化。  「微小位相差論」という視点理論の構築。 「双構図」という表現方法の実験。 古典技法を応用した高耐久印画法の研究。 そして大学院での検証。 誰も知らないかもしれない。 だが、振り返れば多くのことを達成してきた。 写真家であり、研究者である。 本来の僕は、長い年月をかけてそこへたどり着いた。 ただ、それだけのことだった。 そして今、ようやく思う。 観測だけでは足りない。 伝わらなければ存在しないのと同じだ。 観測の時間は続くだろうが、伝えるための行動も始めるべきなのだろう。 発表することの意味が称賛ではなく構築した世界を知らせる事へ変わった。 もういいだろう。 動く。 決めた。 

あってはならない。あってはいけない。

それくらい僕だって分かってますよ。 悲しい下り。 でも。 それが永遠「不変の波動」のはじまりと思いましょう。 でもね。 僕だって伴侶が欲しいから。 つくりますよ。 曲だけ残して。 

The Sleeping Princess

おおよそ僕の中ではコードもメロディも出来上がった。 後はひたすら奏でて練習すれば指も動くようになるだろう。 なんかもう手がかちかち。 これ超えれば良い感じに動く。 

虫の音

もう覚えてないが、草雲雀のような虫が鳴いている。近くではキリギリス。もっと遠くで魅力的な音を奏でる虫。 こんな時間にベンチに座って作曲中のThe Sleeping Princessをギターで弾いている。 指が覚えるまで弾きこまなければ僕は上手に弾けない。 なんて虫の音のコーラスは美しいんだろうか。  かれらから受けるインスピレーションを音にした。     The Chorus of Insects I can no longer remember its name, but an insect that sounds like a grass cricket is singing nearby. Closer to me, a katydid is calling. Farther away, another insect plays a captivating melody in the darkness. At this hour, I am sitting on a bench, playing my guitar and working on The Sleeping Princess , a piece I am composing. I have to play it over and over until my fingers remember it. That is the only way I can play it well. How beautiful the chorus of these insects is. The inspiration they give me has found its way into music.  

The Sleeping Princess(眠り姫)オリジナル全コード

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Am9/E Em7 E7sus4 Em(9,11) A9sus4(13) Cmaj7/G F#m7(♭9) omit5 Em(add9) Cmaj7(#11)/E Am13 Em Am Am6(add11)/E Am7(11)/E Am6(add11)/E C7とCmaj7が重なった響き(Eベース) Bbmaj7(#11)/E Em Cmaj7/E   画像を確認しました。 かなりまとまっていて、 Emを中心にしたフラメンコ~モーダルな響き がよく出ています。 特に好きなのはこの流れです。 Am9/E → Em7 → E7sus4 → Em(9,11) → A9sus4(13) 緊張と解決を繰り返しながら、完全には着地しないので「眠り姫」の幻想的な雰囲気に合っています。 また、 Cmaj7/G → F#m7(♭9) → Em(add9) ここは少し映画音楽のような色彩感があり、印象的です。 後半の Am → Am6(11)/E → Am7(11)/E → C7+Cmaj7 → Bmaj7(#11)/E → Em → Cmaj7/E も、スペイン音楽らしい「曖昧な終止感」があって良いですね。 気になった点 F#m7(♭9) は非常に美しいですが、演奏難度が高めです。ライブでは F#m7 F#dim D/F# に置き換えても雰囲気は保てます。 C7+Cmaj7 は面白い響きですが、コードネームだけでは他人には伝わりにくいです。 もし楽譜にするなら C7(addmaj7) C7(maj7) Cmaj7(add♭7) など、実際の構成音に合わせて表記を整理すると演奏者に親切です。 全体評価 作曲としてはかなり個性的です。 一般的なポップスというより、パコ・デ・ルシアや映画音楽、近代クラシックの和声を取り入れたフラメンコ という印象があります。 「The Sleeping Princess」の世界観には、このコード進行はよく合っています。メロディーが乗れば、かなり印象に残る曲になると思います。

深い悲しみ

僕はもう30年以上の深い悲しみの中にいる。 だれにも言えなかった。 その悲しみは歳追うごとに深くなる。 自分の事でもあり人類の事でもある。 本当に思う。 僕の文学をいつか世に知らせるなら。 そういう時代を超えた新しい文学が記されている。 それはwebではない、日記帳に記している。