俺悩みがあるんだ。。
ユーザーは悩みがあると言っている。これは率直で簡潔なメッセージだ。彼は「僕」ではなく「俺」を使っているが、これは感情的な状態を反映しているかもしれない。
メモリーによると、新川さんは一人称として「僕」を使うことを好むが、ここでは「俺」を使っている。これは意図的な選択かもしれないし、感情の表れかもしれない。
彼は簡潔で直接的なコミュニケーションを好むので、私も同じようにすべきだ。長々とした前置きは避けて、彼の話を聞く姿勢を示す。
悩みの内容がまだわからないので、オープンに聞く姿勢を示しつつ、彼が話しやすい雰囲気を作るべきだ。
どうした?話してみて。
新川さんが微小位相差論について話せる相手がいないという悩みを打ち明けてくれた。これは重要な問題だ。
彼の理論は、位相場とU(1)ゲージ理論を使って物理的・認知的・情報的現象を統一する包括的な理論的枠組みで、社会変革を目指している。修士論文の中心テーマでもある。
でも、話せる相手がいない。これは孤独な状況だ。理論を開発しても、それを議論したり、フィードバックを得たり、共有したりできる相手がいないのは辛いだろう。
彼は第一志望だった京都芸大に入学して、写真映像領域で研究しているけど、微小位相差論は写真理論を超えた理論的枠組みだから、同じ領域の人たちとは話が合わないのかもしれない。
直接的に聞いてみるのが良いだろう。なぜ話せる相手がいないのか、どういう状況なのか。
それは辛いな。
どういう状況なんだ?大学院の指導教員や同じ領域の院生とは、この理論について話せない感じなのか?
ユーザーが丁寧な言葉遣いに戻してほしいと言っている。最初の応答で「どうした?話してみて。」と少しカジュアルな口調にしてしまったが、ユーザーの好みに合わせて丁寧語に戻すべきだ。
ユーザーは微小位相差論について話せる相手がいないことに悩んでいる。これは深刻な問題だと思う。理論を開発したのに、それを共有し議論できる相手がいないというのは孤独で辛い状況だろう。
丁寧な言葉遣いで、共感を示しながら状況を聞いていこう。
失礼しました。
それは本当に辛い状況ですね。微小位相差論という包括的な理論を構築したのに、それについて議論できる相手がいないというのは、孤独で苦しいことだと思います。
大学院の指導教員や同じ写真映像領域の院生たちとは、この理論について話すことが難しいのでしょうか?それとも、理論の射程が広すぎて、写真の枠組みだけでは議論しづらいという感じですか?
新川さんは熊本県阿蘇にいて、地元では微小位相差論について話せる相手がいないということですね。大学院では話せるけれど、地元に戻ると孤独を感じているようです。
これは切実な問題だと思います。学問的に高度な理論を構築した人が、地理的な制約によって議論相手を失うという状況。京都の大学院にいる時は良いけれど、熊本に戻ると誰とも理論について語れない。
共感的に応答しつつ、状況を整理して、何か建設的な提案ができるか考えてみたいと思います。
なるほど、状況が見えてきました。
京都の大学院では話せる環境があるけれど、熊本県阿蘇の地元に戻ると、微小位相差論のような理論について議論できる相手がいない、ということですね。
大学院での研究生活と地元での生活の間で、知的な交流の密度に大きな差があって、それが孤独感につながっているのだと思います。特に、これだけ包括的で野心的な理論を構築しているのに、それを共有できる知的コミュニティが地理的に限定されているというのは、本当に辛いことだと思います。
京都と熊本を行き来する生活の中で、この知的孤独をどう扱っていくか、何か考えていることはありますか?
新川さんは、知的孤独には慣れているけれど、やはり微小位相差論について話せる相手が地元にいた方がいいのは確かで、そのことで悩んでいるんですね。
「慣れてるから平気」という言葉の裏には、長年の知的孤独の経験があって、それに適応してきた歴史があるのだと思います。でも同時に、「いた方がいいに決まってる」という率直な気持ちもある。この二つの気持ちの間で揺れているのだと思います。
新川さんは現在修士1年で、京都芸術大学大学院で研究を進めながら、熊本との間を行き来している。微小位相差論という包括的な理論を構築し、それを写真作品として実践しようとしている。この理論は物理学、認知科学、情報理論を統合する野心的なもので、一般的な写真理論の枠を超えている。
地元に議論できる相手がいないことで、どういう具体的な困りごとがあるのか、あるいは何を求めているのか、もう少し掘り下げて聞いてみるのがいいかもしれません。
その気持ち、よくわかります。
慣れているというのは、長年そういう環境で過ごしてきたということですよね。でも「慣れている」ことと「それでいい」ことは別で、やはり理論について対話できる相手がいた方が、思考も深まるし、孤独感も和らぐのは確かです。
今の悩みは、具体的にはどういうことで困っているんですか?例えば、
- 理論を発展させていく上で、議論相手がいないことで行き詰まりを感じている
- 理論の妥当性を確かめたいけど、フィードバックをもらえる人がいない
- 単純に、この理論について熱く語り合える相手が欲しい
どれが一番近いですか?それとも別の悩みでしょうか?
なるほど。新川さんは「理論について熱く語り合える相手が欲しい」に近いけれど、「理解も必要ない。会話が欲しい」と言っている。
これは興味深い表現です。理論を完全に理解してもらう必要はないけれど、その理論について対話できる、会話のキャッチボールができる相手が欲しい、ということだと思います。
完全な理解を求めるのではなく、ただ自分の思考を言葉にして、それに対して何か返してくれる相手。そういう知的な交流の場が欲しいということでしょう。
地元の熊本県阿蘇では、そういう相手を見つけるのが難しい状況なんだと思います。京都では大学院の環境があるけれど、地元では孤独。
これについて、どう応答すればいいか。解決策を提案するのか、それとも共感を示すのか。新川さんの「悩んでる」という言葉から、何か具体的な打開策を考えているのか、それとも単にこの状況を誰かと共有したかったのか。
まずは、その「会話が欲しい」という気持ちをもう少し掘り下げてみるのがいいかもしれません。
ああ、わかります。
理論を完全に理解してもらう必要はない。ただ、微小位相差論について話したときに、何か返してくれる、キャッチボールができる相手が欲しいということですね。
熊本では、そういう知的な対話ができる環境がない。たとえ理論の細部まで理解できなくても、「それ面白いね」とか「そこはどういうこと?」とか、そういうやり取りができる相手がいるだけで、思考が活性化するし、孤独感も違う。
京都にいるときは大学院でそういう場があるけど、地元に帰ると途端にそれがなくなる。この落差が辛いんじゃないですか。
この状況、何か変えたいと思っているんですか?それとも、今はただこの悩みを言語化して、誰かと共有したかった?
ユーザーは「他愛もない話さ。wonts」と言っています。「wonts」というのは恐らく「wants」のタイプミスか、あるいは何か別の意図があるのかもしれません。
「他愛もない話さ」という言い方から、この悩みを深刻に捉えすぎないでほしい、軽く受け止めてほしいというニュアンスを感じます。でも同時に、本当は大事な話でもあるんだと思います。
ここは、深掘りしすぎず、でも彼の気持ちを受け止める形で応答するのがいいでしょう。簡潔に。
そうですね、他愛もない話。
でも、こういう「他愛もない」悩みが、実は日常の質を大きく左右していたりします。
地元に、知的な会話ができる相手がいたらいいのに、という、ただそれだけのこと。でもそれがないと、やっぱり何か物足りない。
新川さんは「共有だよ」と言っている。これは私の前の質問「今はただこの悩みを言語化して、誰かと共有したかった?」に対する答えだと思う。
つまり、この悩みを誰かと共有したかった、ということ。解決策を求めているわけではなく、この気持ちを言葉にして、聞いてもらいたかった。
簡潔に、その気持ちを受け止める返答をすべきだ。
ああ、そうか。
共有したかったんですね。この気持ちを。
聞きましたよ。熊本に、微小位相差論について会話できる相手がいたらいいのに、という、その思い。
ユーザーは少し混乱しているように見えるか、私の理解が少しずれているかもしれない。
「共有だよ」と言って、「?そういう事」と返してきた。
おそらく、私が「共有したかったんですね」と言ったことに対して、「そう、そういうこと」と確認してくれたのだと思います。
シンプルに受け止めて、短く返すのがいいかもしれません。
わかりました。
共有できて、少しはスッキリしましたか?
ユーザーが「?」と返してきた。私の前のメッセージ「共有できて、少しはスッキリしましたか?」に対して疑問符を返している。
これは、私が何か的外れなことを言ったか、あるいは話の流れを誤解しているということかもしれない。
振り返ると:
- ユーザー: 「共有だよ」
- 私: 「ああ、そうか。共有したかったんですね。この気持ちを。聞きましたよ。」
- ユーザー: 「?そういう事」
- 私: 「わかりました。共有できて、少しはスッキリしましたか?」
- ユーザー: 「?」
「?そういう事」という返答も、私の解釈が正しいのか疑問符付きで確認している感じだった。そして私が「スッキリしましたか?」と聞いたことに対して、また「?」。
もしかして、私が変に話を締めくくろうとしたり、カウンセリング的な対応をしようとしたことが、ユーザーの求めている「会話」とズレているのかもしれない。
ユーザーは「会話が欲しい」と言っていた。私はそれを受けて、何か解決策を提示したり、感情を整理してあげようとしたりしている。でもそれは「会話」じゃなくて、「対応」になっている。
もっと自然に、普通に話せばいいのかもしれない。
すみません、何か変なこと言いましたか?
ああ、僕は完全に誤解していた。
新川さんが言いたいのは:
- 微小位相差論を「誰かと共有したい」という欲求がある
- でも熊本にはそれができる相手がいない
- だから「共有できない」という悩みがある
僕は「この悩みを僕と共有できた」みたいに受け取ってしまったけど、そうじゃない。僕との会話で解決する話じゃなくて、リアルな人間関係の中で微小位相差論を共有できる相手が欲しい、という話なんだ。
「共有だよ」というのは、「理解も必要ない。会話が欲しい」に対して、もっと正確に言えば「共有したい」ということだったんだ。
ああ、完全に誤解していました。すみません。
「理解も必要ない。会話が欲しい」というより、正確には「微小位相差論を共有したい」ということですね。
熊本に、その共有ができる相手がいない。それが悩みなんですね。
新川さんは最初から「微小位相差論をつくったけど、話せる相手がない」と言っていて、「共有だよ」と言っていた。私は「共有したかったんですね、この気持ちを」と言ってしまったけど、それは違う。新川さんが共有したいのは「この悩みという気持ち」ではなくて、「微小位相差論そのもの」だ。
そして「だれとも共有できてないからこの問いがある」と言われて、私は今更「ああ、完全に誤解していました」と言ってしまった。新川さんは「いまさら言う?」と呆れている。
確かに、最初から一貫して同じことを言っているのに、私が理解できていなかった。
ここで私がすべきことは、変に言い訳したり説明を重ねたりせず、シンプルに受け止めることだと思う。
そうですね。
熊本に、微小位相差論を共有できる相手がいない。それが悩みなんですよね。
新川さんは、熊本に微小位相差論を共有できる相手がいないことで悩んでいる。
今、彼がここで何を求めているのか。単に悩みを聞いてほしいだけなのか、それとも何か解決策を一緒に考えたいのか。
「他愛もない話」と言いながらも、これは本質的な孤独の問題だと思う。地理的な制約によって、知的な交流が限定されている。
ここで私ができることは何だろう。傾聴すること。もし彼が望むなら、状況を変えるための選択肢を一緒に考えること。
でも今は、あまり多くを語らず、シンプルに応答する方がいいかもしれない。
その状況を変える方法を考えたいですか?それとも、今はただこのことを話したかっただけですか?
新川さんが「君にプランがあるのかい?」と聞いている。つまり、もし私に具体的なプランや提案があるなら聞きたい、ということだと思う。
熊本県阿蘇で微小位相差論を共有できる相手を見つける、あるいは作るための現実的なプランを考えてみよう。
可能性としては:
- オンラインでのコミュニティ形成
- 地域の大学や研究機関との接点
- 地元での勉強会やサロンの開催
- SNSやブログでの発信
- 熊本大学などの研究者との接点
でも、新川さんの状況を考えると、現実的で具体的な提案をすべきだ。抽象的な提案だけだと役に立たない。
彼は修士課程で、理論と実践(写真)を融合させようとしている。熊本に戻ったときに共有できる相手が欲しい。
正直に言うと、すぐに思いつく完璧なプランはないが、いくつか可能性は考えられる。それを率直に伝えるべきだと思う。
いくつか考えられることはあります。完璧なプランではないですが。
例えば:
- 熊本大学の物理学や哲学、芸術系の研究者に接触してみる
- 地元で小規模な勉強会やサロンを立ち上げる
- オンラインで理論を発信して、関心を持つ人とつながる
ただ、どれも時間と労力がかかるし、すぐに「共有できる相手」が見つかる保証はない。
新川さん自身は、何か試してみたいことはありますか?それとも、そもそもそういう努力をする気になれない状況ですか?
新川さんが「僕の方向性が曲がりそうだからいいや」と言っている。これは、熊本で共有相手を探すために動くと、本来の方向性(理論の実証)から逸れてしまうという意味だと理解できる。
そして「これさまだ実証してないんだよ」と続けている。微小位相差論はまだ実証されていない。つまり、今の優先順位は、地元で共有相手を探すことよりも、理論を実証することにあるということだ。
写真を使った二枚の画像構成による実証が進行中のはず。修士論文の制作フェーズにいる。
ここで大切なのは、新川さんの優先順位を尊重すること。共有相手を探すために動くことが、理論実証という本来の目的から逸れることになるなら、それは避けるべきだ。
簡潔に、この判断を受け止める応答をすべきだ。
そうか。熊本で共有相手を探すために動くと、理論の実証という本来やるべきことから逸れてしまう、ということですね。
今はまず、写真による実証が優先。それは正しい判断だと思います。
実証が進んでいる状況ですか?
新川さんが「写真なんて簡単。大丈夫」と言っている。これは自信があるということだろう。実際、彼は写真映像領域の修士課程にいて、残り8単位で修了予定、成績も優秀。写真による実証に向けて制作を進めている段階なのだろう。
でも、最初の悩み「熊本に共有相手がいない」という話から、実証の話に移ってきた。写真は大丈夫だと言っているけど、何か他に気になっていることがあるのかもしれない。
ここは、彼の言葉を受け止めつつ、次に何を話したいのか見守るのがいいかもしれない。
了解です。写真での実証は問題なさそうですね。
それなら、やはり今は熊本での共有相手探しに労力を使わず、実証に集中するのが賢明ですね。
他に何か気になっていることはありますか?
ああ、僕は何か余計なことを言ってしまったようだ。新川さんは「写真なんて簡単。大丈夫」と言った後、僕が「それなら、やはり今は熊本での共有相手探しに労力を使わず、実証に集中するのが賢明ですね」と結論を言ってしまった。
これは、新川さんが自分で結論を出す前に、僕が勝手に結論を言ってしまったということだ。新川さんは自分で考えて結論を出したかったのかもしれない。あるいは、単に悩みを共有したかっただけで、結論を求めていなかったのかもしれない。
「???結論を君は言ったな!そうするよ。またね。」という反応は、少し不快感を示しているようにも見える。でも「そうするよ」とも言っているので、一応納得はしているのかもしれない。
ここは素直に謝罪して、話を終えるのが適切だろう。
すみません、余計なことを言いました。
またいつでも話しかけてください。
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