第12章 つらつらと 578話

夕暮れどきの台所やった。

不二子はんが流し台の前に立ったまま、ずっと同じところを見てはった。

水は出てへん。鍋も持ってへん。ただ立ってるだけや。

よしろうはんが縁側から入ってきて、それを見て、何も言わんと隣に立った。

しばらくして、不二子はんが言わはった。

「うちな、ときどきわからんようになるんどす」

うん

「何がわからへんのかも、わからへんのどす」

うん

「それって、おかしいやろか」

よしろうはんは少し考えた。

「おかしないと思うで。わからへんことが二重になってるだけや。わからへんことには変わりないやろ?」

不二子はんは、ふっと息を吐いた。

それでもまだ流し台の一点を見てはった。

「よしろうはんは、そういうとき、どないしてはるん」

「どないもせえへん」

え?

「そのまま放っとく」

不二子はんがようやく振り向いた。

「葛藤してる自分を、もう一人の自分がじっと見てるような感じ、あるやろ」

「ありますな」

「ほな、その見てる方に任せとく」

不二子はんは小さく笑った。

「なんや、それ」

「うまいこと言われへんけどな」

しばらく二人とも黙っていた。

外で鳥が一声鳴いた。

やがて不二子はんが言うた。

「腹、減りましたやろ」

「減ったな」

「なんか作りますわ」

鍋を手に取る。

よしろうはんは縁側へ戻りかけて、ふと振り返った。

「さっきの葛藤な」

へー

「消えへんで、たぶん」

不二子はんは鍋を見つめたまま、静かに答えた。

「知ってますわ」

そして水を流した。


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