Playlist,,Deep House,Music Played in Louis Vuitton Stores リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ - 12/05/2025 06:39:00 午後 明日は忘年会。久しぶりだが、、同級生。多いんじゃ?でも行くよ(笑) リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
第3章 再び有明の海へ 260話 - 11/10/2025 02:35:00 午前 二人して軽トラで有明海をドライブしていた。久しぶりの休暇。 「なあぁ? よしろうはん、海がえらい青いな、こないな綺麗な海やっけ?」 「おお、さすがやな、有明海は灰色の海が正常なんや、閉鎖的な海に川からの土砂や泥が溜まってるのがこの海の生態系を形成していた。ところがダムの増設や諫早湾の締め切り堤防なんかで条件が変わってきたんや。砂も少なく餌もなくなり、貝も生きれんようになった。魚も減り、透明度が上がったからプランクトンが光合成しやすくなった、そんで赤潮が発生するんや。有明海が青いのは環境問題のサイン。この海は濁ってる事が健全なんや」 「そうやそうや、長崎の諫早湾、ええとこやった。竹崎がにも美味しかった。なのに今では巨大な淡水湖になってもうたわ。有明海は浮泥が混じったグレーやった。それが大事なんやとお父上にも教わりましたで...」 「不二子はん、きょうはうに丼喰うで」 「うに丼どすか。ええどすなぁ、不二子も好物でっさかい、れっつらごー!」 本渡へ渡り、鬼池港から通詞島へ 「なんやら変わったなまえの島どすな」 「うん。なんか昔南蛮貿易のあったころ世界中に漁師が行ってたから通訳者が住んでたとか、でも通訳者と漁師の関係がようわからんけどな(笑)」 「長旅ごくろうさん、さ、ついたで。ちょっと港へ行って海風あたろうや」 「そうしましょ!」 水平線と波、そして光の反射にきらめく海――それは、いつもの有明海であった。 ――あぁ、これや。これやこれや。 この単調な世界こそ、俺が写したい世界や。 覚醒したよしろうはん。 不二子は、何も聞かずとも、その心が見えていた。 よしろうはんは、いつも見てる世界の中から、あんたしか見えへん新しい世界を今見てはる。きっとな。 うちがいつもお側にいてはりますさかい。 ウルフルズ - ガッツやで!! よしろうはん! 不二子は彼の背中にサムズアップを送った。 Read more »
修士論文草稿 8000文字ver.002 - 11/16/2025 05:04:00 午前 微小位相差理論と現代写真表現:存在・運動・意図の統合的理解 新川 芳朗 所属・京都芸術大学大学院 芸術研究科 芸術専攻 写真情報領域 2025年11月 Zero Ground Ariake Sea Photographed in 2016 Created in 2025 Yoshiro Shinkawa 序論 写真は1839年に発明されて以来、「光を記録する技術」として認識されてきた。カメラのレンズを通して捉えた光をフィルムやセンサーに焼き付けることによって、一瞬の現実を固定化することが可能となり、それが絵画や他の視覚表現と明確に異なる本質的特徴となった(Sontag, 1977)。一方で、写真は単なる記録媒体に留まらず、戦争、災害、環境問題など社会的課題を可視化する手段としても機能してきた。しかし、記録された写真が必ずしも現実の改善や問題解決に直結しない限界も指摘されてきた(Adams et al., 1975)。 近年、AI技術の急速な発展により、写真の定義は根本的に揺らいでいる。拡散モデルやGANを用いた画像生成は、現実に存在しない被写体の写真を生成可能とし、従来の「光学的記録」という定義では説明しきれない状況を生み出している。また、スマートフォンにおけるコンピュテーショナルフォトグラフィーは、撮影後に光源や焦点、被写体を操作できるため、写真の記録性に疑義が生じている。本論文では、私の40年間の写真実践を基に、「微小位相差理論」を提示し、写真の限界と可能性を再検討するとともに、AI時代における写真の再定義を論じる。 1. 微小位相差理論:写真家の視点から見た存在と運動 1.1 理論の発見と背景 私は幼少期、星空を見上げる中で宇宙の果てにさらに宇宙が広がるという直感を持った。後年、写真を通して世界を観察する中で、これは具体的な概念として再構築され、**「微小位相差」**という理論に昇華した。微小位相差とは、すべての存在が同一の場に微妙なずれを持って重層的に存在するという考えである。 写真を連続的に撮影すると、同じ場所の雲の形状や光の角度が異なる位相として現れる。これを観察することで、時間は直線的に流れるのではなく、重層的に存在していることが認識でき... Read more »
次の世界への遷移 ― 微小位相差理論による意識の再配置と存在論的工学の可能性 ― - 11/12/2025 06:04:00 午後 次の世界への遷移 ― 微小位相差理論による意識の再配置と存在論的工学の可能性 ― 新川 芳朗 2025年11月12日 要旨(Abstract) 本研究は、宇宙のすべての存在が同一の基底場(Fundamental Field)に属しながら、微小な位相差(Δφ)によって多層的に存在しているという仮説に基づき、「次の世界」への遷移現象を理論的かつ体験的に考察するものである。意識の位相モデルを導入し、量子干渉との類比を通じて、観測者の意識が異なる整合性を持つレイヤーへと再配置されるメカニズムを記述する。また、瞑想・夢見・臨睡状態における体験的プロトコルを提示し、神経相関仮説とともに、存在論的工学(Ontological Engineering)としての展開可能性を論じる。結語においては、「次の世界」は遠くにあるのではなく、すでにここにあるという存在論的転回を提示する。 1. 序論 「次の世界へ行く」とは、果たしてどのような現象なのだろうか。 それは死後の世界か、仮想現実か、あるいは心理的な幻想か。 本論文は、そうした二元論的な問いを超えて、「世界とは何か」「意識とはどこにあるのか」という根源的な問題に対し、物理学・神経科学・哲学・体験科学を横断する新たな視座を提示するものである。 我々が「世界」と呼ぶものは、実体として外部に存在するのではなく、観測者の意識と基底場との干渉によって構成される「位相的整合性」の一形態に過ぎない。したがって、「次の世界」への遷移とは、空間的な移動でも時間的な変化でもなく、意識の位相がわずかにずれることによって、異なる整合性を持つレイヤーに共鳴する現象である。 この仮説を「微小位相差理論(Microscopic Phase Difference Theory)」と呼び、以下の章においてその理論的基盤、数理的構造、体験的プロトコル、神経的対応、哲学的含意を順に検討する。 2. 理論的基盤:位相の重なりと分岐 宇宙のすべての存在は、同一の基底場に属している。この場は、物質的・非物質的なすべての現象の根源であり、そこに存在するものは、ある位相 φ をもって重なり合っている。 この重なりは、単なる並列的な「別世界」ではなく、同一の場における干渉パターンの違いとして理解されるべきである。すなわち、世界とは「場の中の調和のかたち」であり、観測者の意識... Read more »
Playlist,,Deep House,Music Played in Louis Vuitton Stores - 12/04/2025 05:50:00 午前 Unmatched vibes 唯一無二の空気感を進む爽快感。 ちょっと張り詰めたエア感。 半身を位相させ、かわす、離れる、止まる。 たったそれだけで目的地へ到達できる。 日常に存在する諸問題。 躱す、離れる、停止。 その操作で立ちはだかる難問をクリアできる。 その積み重ねは、己の本来の道へと導いている。 気付くか気づかないか。 見えてるか、見えてないか。 それだけだ。 皆の幸は待ってもこない。 私は皆の幸を願うが。 それは能力あるものしかできない事。 私には願っても届かないと知っている。 だから私は神には祈らない。 Read more »
微小位相差論 理論から写真論へ。 - 11/17/2025 06:19:00 午後 微小位相差論――写真による存在の再構築 新川芳朗 京都芸術大学大学院 芸術研究科 写真映像領域 2025年 Altered Landscape Photographed in 2023 Created in 2025 Yoshiro Shinkawa 序論:概念を創るということ 写真は何を記録するのか。この問いに対して、私は40年の実践を経て、通常とは異なる答えに到達した。写真は光を記録するのでもなく、時間を固定するのでもない。写真は 存在の重層性 を露わにする装置である。 本論文で提示する「微小位相差」は、証明を求める理論ではない。それは 新しい概念の創造 である。ドゥルーズとガタリが述べたように、哲学の仕事は概念を創ることにある(Deleuze & Guattari, 1991)。私は写真家として、写真という特異な行為を通じてのみ可能な概念を創る。 時間は存在しない。少なくとも、私たちが信じているような直線的な時間は。過去も未来も、今ここに重なり合って存在している。写真を撮るという行為は、この重なりから一つの層を選び取り、定着させることである。しかし定着されなかった他の層は消えたのではない。それらは微小な位相差を持って、なお存在し続けている。 信憑性という問題についても同様である。AI時代において、何が「本物の写真」で何が「偽物」なのかという問いは無意味になった。しかしこれは写真の危機ではない。むしろ、写真が常に持っていた本質―― 意図の提示 という本質――が、ようやく明らかになったに過ぎない。 本論文の目的は、この見方を写真史に残すことである。それは後世の誰かが、写真について考える時の一つの参照点となるだろう。 第1章:見ることの考古学 1.1 幼年期の直観 私の思考の起点は、幼少期に見上げた星空にある。宇宙の果てには何があるのか。大人たちは「無」だと言った。しかし私には、果ての向こうにさらに宇宙が広がっているとしか思えなかった。 この直観は長く言語化できなかった。しかし写真を撮り始めてから、それは具体的な形を取り始めた。ファインダーを覗く時、私が見ているのは「今」ではない。私が見ているのは、無数の「今」が重なり合った厚みである。 1.2 写真という装置... Read more »
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