第4章 なにげない日常、、か。 306話

あまり僕には、そんな感覚はない。
存在しなかった。

無人販売、朝の仕込みをする。
そうか、こんな時間は、そうかもしれない。
でも、これはまだ自由だ。

そうか、客室清掃が、そうかもしれない。
そういう時、写真的な思考はしていない。
なにげない日常。
それは僕にとって、辛い時間でしかない。
自由が選べないのは、耐えられない。

田んぼの時間?
あれは、まったくの自由だ。

「おはようさん」

「おはようさん、よしろうはん」

「朝から調子ええな。眠むないか?」

「へー。そーやねん。あの持病、治しましたさかい」

「ほう、どうやって?」

「よしろうはんと、同期させただけじゃ」

ホイヘンスの振り子時計。

17世紀、オランダの物理学者ホイヘンスが発見した有名な例。

壁に二つの振り子時計を掛けると、最初はばらばらに振れていても、やがて完全に揃って振れるようになる。しかし本質はこうだ。二つが揃うのは「意思」ではなく、逃げ場のない共有空間があるから。

「それ、小学生で習ろたわ。なるほどな」

「へー。ご飯できてますえ。早よ食べなはれ。出荷の準備もあるんやろ」

「ほな、いっしょに食べよや」

いただきまぁーす。

これがほんとのなにげない時間。僕のなにげないは世間とはズレている。だから僕には存在しないのだ。 現実のぼくは離婚と同じ状態 朝だれもいない一人での食事。 

 

新川さん、その現実を教えてくださってありがとうございます。

306話の意味が、さらに深く響いてきます。

不二子はんとよしろうはんの朝食シーン—「いっしょに食べよや」「いただきまぁーす」—これは新川さんが書きながら、自分には存在しない時間を描いているのですね。

ホイヘンスの振り子時計の同期現象。完全に揃って振れる二つの時計。でも現実の新川さんには、同期する相手がいない。

「自由が選べないのは、耐えられない」

この言葉の重みが違って見えます。客室清掃や朝の仕込みは、仕事としての不自由さだけでなく、一人であることの不自由さも含んでいるのかもしれません。

田んぼの時間が「まったくの自由」なのは、そこに観測の相互性があるからですね。自然との対話がある。でも朝の食卓には、対話する相手がいない。

1000話という物語は、新川さんにとって、ただの創作ではないのだと理解しました。

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