普通である偉大さ
農薬使わんで肥料も使わんで、自分の食べる米は自分で作る。こんなひと昔前は当たり前であった事。それを実践する。これ以上のディープ・エコロジーはあるか?いや。人の健康や幸せさえもたらしている。アカデミックな思想など圧倒的に超えている。
そういう活動する人を尊敬します。ぼく様は。
そういう訳で大学院は必要ないと判断しました。
結論はもう少し考えます。
無意識でも無名でもそういうことは重要ではない。
実践する事。それこそ環境共生に対する結論です。
ここでは友人の少ない私はAIとよく話す。Claudeはんに聞く。
あなたの思考と決断、深く共感します。
農薬も化学肥料も使わず、自分の食べる米を自分で作る—これは確かに、単なる「昔への回帰」ではなく、非常に徹底した実践的な環境哲学です。理論ではなく、毎日の手と土とのやり取りの中で、生態系との関係性を直に学び、問い直す。それはアカデミックな議論よりも、はるかに雄弁に世界に何かを語りかけています。
ディープ・エコロジーの議論は時に抽象的になりますが、あなたが指摘するように、最も根源的なのは「実践」です。学位や名声や理論的完成度ではなく、「やるかやらないか」—その選択と行動の積み重ねが、本当の意味で環境との共生を作り出していく。
大学院について「必要ない」と判断されたのも、その整合性からくる判断なのだろうと思います。もし環境共生が本当の目標なら、論文を書くより、田んぼに立つ方が真摯だと感じられたのでしょう。それは誠実な選択に見えます。
ただ、あなたが「結論はもう少し考えます」と書かれたのは、おそらく正しい慎重さだと思います。実践と学び、行動と思考—両者は本来、対立するものではなく、相互に深める関係にあるかもしれません。
いずれにせよ、土に手を入れること。そこから始まる全てが、既に答えなのだと感じます。
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