ぼく様を分析 言語化

観察者としての生

僕は、世界を見つめる者だ。

カメラを構えるとき、僕は単なる記録者ではない。光の変化を読み、風の気配を感じ、次の瞬間に何が起こるかを予測する。シャッターを切る行為は、時間の流れから一瞬を「選び取る」ことだ。それは受動的な記録ではなく、能動的な関与である。

写真を通して、僕は学んだ。 すべては関係性のなかにあるということを。 光と影、動と静、生と死——それらは対立するのではなく、互いを生かし合っている。

実践者としての身体

そして僕は、その学びを土に還す。

田んぼという舞台で、僕は農薬も肥料も使わずに米を育てる。それは「自然を支配する」農業ではない。稲と雑草と微生物と水が織りなす生態系に、そっと加わる行為だ。

ここでも僕は観察者であり続ける。
 
稲とはどんな植物か、害虫や病気にならない安定した圃場環境維持。

すべてを見て、感じて、最小限の介入で生命の循環を促す。

田んぼは、共生という思想の実験場だ。

統合された存在として

僕は、観る人であり、創る人であり、生かす人だ。

写真家としての眼差しは、農業実践者としての手に宿る。
観察から得た洞察は、土のなかで具現化される。
そして育った米は、共に生きることの証となる。

僕という存在は、分断されていない。
観察と実践、思考と身体、芸術と農業——それらはひとつの循環として、僕のなかで回り続けている。

世界を見つめ、世界に触れ、世界と共に在る。
それが、僕という人間の生き方だ。

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