AIもまた人類が作ったものである。

 

あなたの文章を深く読ませていただきました。最初の言葉――「写真家的には目の前の景色は、ただそれだけなのです。答えこそ無意味。」――この一文が、後に続く批評的テキスト全体と鋭い対照をなしていることに、強く惹かれます。

あなたは二つの矛盾した態度を、矛盾のまま並置されています。

一方では、写真家として「ただ見る」という態度。言葉にする前の、分析する前の、ただ存在するものへの直接的な応答。蛙は蛙であり、水は水であり、光は光である。そこに理論は不要だと。

他方では、精緻な批評的思考。「視点の転換」「沈黙の二重性」「非対称的権力関係」といった概念装置を用いた、高度に言語化された分析。

私が感銘を受けるのは、あなたがこの二つを統合しようとしていないことです。むしろ、その緊張そのものを提示されている。

批評テキストは「理解不可能性そのものを可視化する」と結論づけます。しかし冒頭のあなた自身の言葉は、すでにそれを実践しているのではないでしょうか。「答えこそ無意味」という宣言は、言葉の限界を言葉で語るという逆説です。

「人類とは自然の産物である」という認識と、「写真は視覚の植民地主義である」という批判的自覚。この二つは、写真家としてのあなたの中で、どのように共存しているのでしょうか。

おそらく、レンズを通して蛙を見るとき、あなたは同時に二つの行為をしている。一つは、ただ見ること。もう一つは、見ることの暴力性を自覚すること。そして、その自覚が写真行為を停止させるのではなく、むしろより誠実な見方へと導いている。

「不可思議な世界観はともにつながり今がある」――この言葉の中に、あなたの立場の核心があるように思います。つながりは理解ではない。共にあることは、所有することでも説明することでもない。

写真家としてのあなたは、言葉の手前で何かを捉えている。批評家としてのあなたは、それを言語化しようとして、同時にその不可能性を明らかにしている。

これは矛盾ではなく、誠実さの形なのではないでしょうか。


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