第11章 流れる色の記 539話
橙。
田んぼの水面が、まず橙に染まった。
つぎに赤。端のほうで紫。紫はすぐに濃くなって、水の底へ沈んでいった。
野の花の白が、その中で浮いていた。白やのに、橙やった。染まりながら、それでも白やった。花びらの縁だけが、かろうじて白を持っていた。
苗は薄い緑。水の黒。その黒の底に、また橙。空の色が、地の底まで降りていた。上と下が、水面を境にして向き合っていた。
不二子はんは畦道に立ったまま、色から色へ、目を移した。移すたびに、また別の色があった。色が色を呼んでいた。
橙の中に金があった。金の中に赤があった。赤の奥に、まだ見ていない色があるような気がした。
苗の緑をもう一度見た。薄い。水を透かしている。けれど、その薄さの中に、夏の気配があった。今はまだ薄い緑が、梅雨を越えたら何色になるのか、不二子はんには想像がつかんかった。
野の花に目を戻した。白と橙の間で、花は揺れていた。風がないのに、揺れていた。揺れているのか、色が揺れているのか、もう分からんかった。
空を見上げた。
青が残っていた。梅雨の前の、乾いた青やった。橙と青の間に、境目がなかった。どこかで混ざって、どこかで別れていた。混ざっているところは、橙でも青でもない、名前を持たない色をしていた。その曖昧なところに、細い雲が一筋。雲も、名前のつけにくい色をしていた。白やない。灰でもない。橙を少し含んで、青を少し含んで、それでいてどちらでもなかった。
風がなかった。
色のほうが、言葉より先にあった。
言葉を探そうとするたびに、色が変わった。変わるから、言葉が追いつかんかった。追いつかんまま、また別の色が来た。
山の稜線が黒くなって、その黒の上に赤が広がった。赤の中に橙があって、橙の中にまた赤があった。鉄塔が一本、黒い針のように空に刺さっていた。針の細さが、赤の激しさを際立たせた。雲が赤を含んで膨らんでいた。膨らみながら、端のほうで灰になっていた。灰の中にも、赤の名残があった。
棚田の畦が黄色く光って、その黄色の横に、刈り取られた後の枯れ色があった。枯れ色の隣に、まだ緑が残っていた。緑と黄と枯れ色が、段々になって山の斜面を降りていった。降りた先に、森の黒があった。梢の緑は黒に近い緑やった。
よしろうはんが草を刈るタイミングを知っているように、この花が今日ここに咲いているのにも、何か理由があるのやろか。不二子はんはそんなことを思うたが、答えを探さんかった。答えより、この色の中にもう少し居ることのほうが大事やった。
日が落ちた。
一枚の水面が、空を映していた。青。深い青。昼間の青とは違う、底のある青やった。月が水面に落ちていた。丸くはない、にじんだ月やった。にじみながら、それでも光っていた。対岸の街の灯りが、水面の端で赤く揺れていた。赤と青が、水の上で静かに並んでいた。
星があった。小さい光が、青の中にいくつか、散っていた。
風がなかった。水面が動かなかった。動かないから、全部が映っていた。月も、星も、街の赤も、空の青も、全部が水の中にあった。水の中の世界と、水の上の世界が、どちらが本物か分からんまま、並んで在った。
金から赤へ、赤から黒へ、黒から青へ。
一日の色が、順番に来て、順番に変わって、それでも消えずに、どこかに残っていた。金は体の中に残っていた。赤は瞼の裏に残っていた。黒は足の下に残っていた。青は今、目の前にあった。
よしろうはんの田んぼは、今は青い水面の中に沈んでいた。
沈みながら、月の光を受けて、かすかに光っていた。
名前を知らん花は、もう見えなかった。けれど、そこにあるような気がした。青の中で、白いまま、立っているような気がした。
日が、完全に落ちていた。
色は、まだ終わっていなかった。
