改定 第11章 「アルマー」 534話

春の終わり、雨の来る前の午後やった。

不二子はんが阿蘇の裾野を歩いておると、道の脇に白い人影が見えた。

最初は鷺かと思うた。

近づくと、修道服の女やった。

草の上に座り、腹に両手を置いている。

祈っているようにも見えた。

けれど不二子はんには、そうやないように見えた。

ただ、そこに手を置いている人の姿やった。

「シスター」

女はゆっくり顔を上げた。

まだ若い。

目は乾いていたが、口元だけ、長いあいだ何かを堪えてきた人の色をしていた。

不二子はんは何も聞かず、隣に腰を下ろした。

並んで、同じ方角を見た。

草原の向こう、鈍色の空の下で阿蘇の稜線がぼんやり滲んでいた。

しばらくして、女が言うた。

「……怒りますか」

「何にどす」

「私に」

不二子はんは少しだけ考えた。

それから女の腹を見た。

「そこに、もう一人おります」

女は黙った。

「あなたに怒るいうことは、その子にも向くことどす」

風が草を揺らした。

「そないなこと、うちはしたない」

女は俯いた。

しばらくして、小さく言うた。

「誰の子か、聞きませんか」

「聞きません」

「なぜ」

不二子はんは前を見たまま答えた。

「聞いたところで、空の色は変わりません」

少し間を置いた。

「腹の重さも」

女は、自分の手を見た。

白い布の上に置かれた手を。

「戻れません」

「そうどすか」

「修道院には」

不二子はんは頷いた。

「今夜だけなら、おます」

女が顔を上げた。

不二子はんは立ち上がって、裾についた土を払った。

「腹の子は、自分で今夜の宿を選べません」

空を見上げた。

「親が選ぶしかおへん」


夜、囲炉裏の前に二人は座った。

火が静かに炭へ変わっていく。

女は少しずつ話した。

どこから来たか。

何を失ったか。

けれど相手の名前は言わなんだ。

不二子はんも聞かなんだ。

炭が崩れる頃、女が言うた。

「神は、私を罰しているのでしょうか」

不二子はんは火箸を置いた。

しばらく火を見た。

それから聞いた。

「マリアさんのこと、どない思うてはります」

女は少し驚いた顔をした。

「……聖なる方です」

不二子はんは頷いた。

「身ごもっておられた」

女は黙った。

火だけが鳴った。

「それは確かなことどす」

少し炭を返した。

「そのあと何を見て、何を信じて、何を語ったか」

火が赤くなった。

「それは、人が長いこと考えてきた話どす」

女は何も言わなんだ。

長い時間、腹に手を置いていた。

今度は押さえるためやない。

祈るためでもない。

ただ、そこに命があることを確かめるみたいに。

やがて言うた。

「名前を」

「まだ早いどす」

「わからなくていい」

女は少し笑った。

「一つ、ください」

不二子はんは考えた。

囲炉裏の火を見た。

それから言うた。

「昔の言葉で、アルマー、いうのがあります」

女が見上げた。

「意味は」

「若い女」

「それ以上のことは、その子が自分で決めたらよろしい」


翌朝。

女は草鞋を履いた。

どこへ行くかは言わなんだ。

不二子はんも聞かなんだ。

白い修道服が、朝の霧の向こうへ少しずつ小さくなっていく。

見えなくなる直前、一度だけ振り返った。

不二子はんは手を振らなんだ。

ただ立って見送った。

そして思うた。

あの子は、どなん思いで生まれてくるやろか。

阿蘇の草原を渡るまつぼり風が、静かに草を伏せた。

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