私の子供の頃は帰ることを「いぬ」と言っていた。庄屋の矢野家は細川家と縁故関係。 矢野家の家には 「男間」「女間」「茶室」 があり、屏風は細川藩お抱えの水墨画家・雪景が描いた銀箔の屏風絵を見た。 あなたの子供時代(1970年代頃)に熊本県阿蘇郡西原村で「帰る」を「いぬ」と表現していたこと、そして庄屋の矢野家が細川家と縁故関係にあり、矢野家の屋敷に男間、女間、茶室、さらには細川藩お抱えの水墨画家・雪景の屏風があったという情報は、地域の歴史や文化、京言葉の影響を考える上で非常に貴重です。この情報を基に、「いぬ」の使用背景や矢野家の文化的役割、京言葉とのつながりを簡潔にまとめ、さらに他の関連する表現を探ります。 1. 「いぬ」の使用と子供時代の記憶 「いぬ」の意味と使用 : あなたの記憶にある「いぬ」は、京言葉で「帰る」「去る」を意味する古い日本語「往ぬ(いぬ)」に由来します。西原村で「家にいぬ」「学校からいぬ」といった表現が日常的に使われていたのは、1970年代の農村コミュニティで古い言葉が生きていた証です。この表現は、京言葉の丁寧で雅やかな語感を反映しており、子供時代に家庭や地域の大人たち(特に矢野家周辺)から自然に学んだ可能性があります。 地域的背景 : 西原村は阿蘇山麓の農村で、外部との交流が少なく、伝統的な言語や文化が残りやすい環境でした。1970年代は標準語やメディアの影響が今ほど強くなく、京言葉由来の「いぬ」が村の日常会話で一般的に使われていたと考えられます。 2. 庄屋の矢野家と細川家の縁故関係 矢野家の役割と文化 : 庄屋の矢野家が細川家と縁故関係にあったことは、京言葉や京都文化が西原村に伝わった重要な経路を示します。庄屋は村の行政や農事を管理する立場で、細川氏との交流を通じて京都の公家文化や言葉遣いを取り入れ、村に広めた可能性があります。矢野家の屋敷に「男間」「女間」「茶室」があったことは、江戸時代の有力な庄屋の家らしい格式と文化性を示しており、細川氏の影響を強く受けていたことを裏付けます。 細川氏の文化的影響 : 肥後藩の細川氏は、京都の公家文化、茶道、和歌を重んじ、藩内でこれらを奨励しました。京言葉の「いぬ」や他の雅やかな表現が、細川氏を通じて矢野家のような地域の有力者に伝わり、村の会話に浸透したと考えられます。矢野家が細川氏と親しい関係...