微小位相差論――写真における「現在」と知覚の複数性
微小位相差論――写真における「現在」と知覚の複数性
京都芸術大学大学院 芸術研究科 芸術専攻 写真映像領域
新川芳朗
1.はじめに――「現在」は一つなのか
私たちは通常、「現在」を一つの時間的な点として考えている。過去はすでに過ぎ去り、未来はまだ到来しておらず、現在だけが現に存在している。しかし、私たちが実際に経験している現在は、本当に一点として成立しているのだろうか。
たとえば、目の前にある風景を撮影したとする。その写真は撮影された瞬間を記録しているように見える。しかし、写真を見る時点では、撮影された時刻と鑑賞している時刻はすでに異なっている。さらに、対象から発せられた光が撮影装置に到達するまでにも時間が必要であり、写真を見るという行為においても、撮影時、光の到達時、記録時、現像・表示時、鑑賞時という複数の時間が関係している。
もちろん、ここから直ちに「物理的な光の遅延が、人間の意識における時間経験を決定する」と結論することはできない。物理学における時間と、現象学における時間は異なる水準に属するからである。本論は両者を一つの因果的な理論へ統合することを目的としない。
むしろ問題にしたいのは、現在が完全に一致した一つの点として与えられるわけではないということである。物理的観測においても、知覚においても、写真を見る経験においても、現在は複数の条件や位相の関係によって成立している。
本論では、この問題を「微小位相差」という概念によって捉える。
微小位相差とは、単純な時間差ではない。それは、異なる二つの状態がほとんど同一でありながら完全には一致せず、その差異が知覚の中で関係づけられることで生じる状態である。
この概念は二つの側面を持つ。一つは、現在を単一の時間点ではなく、複数の位相が重なり合う知覚的・関係的な場として捉える理論的側面である。もう一つは、その構造を写真によって可視化する実践的側面である。
本論では後者を「双構図」と呼ぶ。双構図とは、二枚の写真を単純に並べることではない。二枚の写真が十分な同一性を保持しながら、完全には一致しないように配置することで、両者の差異そのものを鑑賞者に経験させる方法である。
ここで重要になるのが「第三の画面」という問題である。しかし、この第三の画面は第三の写真でも、AとBの間に存在する第三の像でもない。本論ではそれを、二つの写真の関係を固定された像へ還元することのできない、知覚上の過程を暫定的に指し示す名称として扱う。
この点において、本論は写真論だけでなく、時間論、現象学、知覚心理学、さらにはデリダの差延をめぐる問題とも接触する。
2.研究目的と方法
本研究の目的は、「写真は瞬間を固定する」という一般的な写真観を再検討し、写真における時間経験を「位相の関係」という観点から捉え直すことである。
そのため、本論では三つの水準を区別する。
第一は物理的水準である。光の伝達や観測には有限の時間が存在し、観測される対象と観測する現在は完全には一致しない。しかし、この物理的事実を現象学的時間の直接的な根拠とはしない。
第二は知覚・意識の水準である。フッサールの内的時間意識における把持と予持、ベルクソンの持続などを参照し、現在が単純な一点として経験されないことを考察する。
第三は写真実践の水準である。二枚の写真を組み合わせる双構図によって、二つの静止像の関係から生じる知覚的な差異を検討する。
したがって本論の方法は、物理学、現象学、写真史を一つの理論体系へ強引に統合することではない。異なる水準を区別したまま、「完全な同時性や完全な一致はどのように成立するのか」という共通の問題を通して相互に照射することである。
3.微小位相差の定義
本論における微小位相差とは、異なる二つの状態の間に存在する単純な時間差ではなく、同一性を保持したまま完全には一致しない複数の位相が、知覚の中で関係づけられることで生じる差異である。
ここでいう「微小」は、単に差が小さいという量的意味だけを持たない。むしろ、差異が一つの明確な意味として切り出される以前の、知覚的な閾値に関わる。
二つの写真がまったく異なれば、鑑賞者はそれを別々の写真として認識する。逆に完全に同じであれば、二枚を比較する必要はない。微小位相差が問題になるのは、その中間である。
二枚は同じ対象、同じ場所、あるいは同じ構図を保持している。しかし、光、位置、身体、時間、視線などの何らかの条件が完全には一致しない。そのため鑑賞者は「同じもの」と「違うもの」を同時に認識する。
この「同じでありながら同じではない」という関係が、微小位相差の基本的条件となる。
したがって、微小位相差は時間を測定する単位ではない。それは時間的変化が知覚に現れる仕方を記述する概念である。
4.光と観測――物理的時間差の位置づけ
写真を考えるとき、光の有限速度は避けて通れない。
私たちが見る対象は、対象そのものと完全に同時に与えられているわけではない。対象から発せられた光が眼やカメラへ到達するまでには時間がかかる。
日常的な距離ではこの差はほとんど意識されない。しかし、原理的には、私たちが「今見ている」と考える対象は、すでに少し前の状態にある。
写真はこの問題をさらに複雑にする。カメラは対象そのものを直接保存するのではなく、対象から到達した光を記録するからである。
ただし、ここで注意しなければならない。光の遅延という物理的時間差と、意識が経験する時間の構造は同じものではない。
本論において光の問題は、現象学的時間の原因を説明するためではなく、「現在」という概念が完全な同時性を前提として成立しているわけではないことを示す一つの契機として位置づけられる。
つまり、物理的時間差と知覚的時間は異なる。しかし両者には、「観測されるものと観測する現在が完全には一致しない」という問題設定上の共通性がある。
この非一致を、本論では異なる水準を横断して考えるための出発点とする。
5.現象学的時間――フッサールの把持と予持
時間経験を考える上で重要なのが、エドムント・フッサールの内的時間意識の分析である。
音楽を聴くとき、現在鳴っている一音だけを聴いているわけではない。直前の音は完全に消滅したものとしてではなく、現在の意識の中に何らかの仕方で保持されている。同時に、次に来る音への予期も経験に関与している。
フッサールが論じた把持(Retention)と予持(Protention)は、現在を単独の点として捉えることができないことを示している。
現在は、過去を完全に切り離した瞬間でも、未来を完全に排除した点でもない。現在そのものの内部に、直前のものとこれから来るものとの関係が含まれている。
この点は微小位相差論にとって重要である。
ただし、本論は微小位相差を把持や予持と同一視するものではない。フッサールの分析は意識における時間構成の問題であり、微小位相差は写真における複数の状態の関係を記述するための概念である。
両者を同一の概念として扱うのではなく、現在が単一の点ではなく関係的に構成されるという問題において接続する。
6.ベルクソンの持続――微小位相差との緊張関係
本論において、ベルクソンは単純な理論的支援者ではない。むしろ、双構図そのものに対して根本的な問いを投げかける思想家として位置づけられる。
ベルクソンの「持続」は、時間を空間のように分割して並べることへの批判と深く関係している。
時間を10時、10時1分、10時2分というように区切ることは、測定の上では有効である。しかし、意識される時間そのものは、そのような離散的な点の集合として経験されているわけではない。
この観点からすれば、二枚の写真をAとBとして並べる双構図は、一見するとベルクソンの批判する方法そのものに見える。
時間を二つの静止した状態へ分割しているからである。
したがって、「二枚の写真を並べれば持続を表現できる」と考えることはできない。
ここで本論は、むしろ逆説的な立場を取る。
双構図は持続そのものを二枚の写真によって表象する方法ではない。二枚の静止像をあえて並置することで、その二枚のどちらにも還元できない知覚上の変化を発生させる方法である。
つまり、時間を静止像へ分解するのではなく、静止像から時間を分割できない経験を立ち上げる。
ここに双構図とベルクソンの持続との緊張関係がある。
二枚の写真は空間的に分離されている。しかし、その分離を一つの第三の静止像として埋めることはできない。この「埋めることのできなさ」が、双構図における重要な経験となる。
7.写真史における運動の分解――マイブリッジとマレー
写真は歴史的に、時間や運動を可視化するために利用されてきた。
エドワード・マイブリッジの連続写真は、走る馬や人間の身体の運動を複数の静止画像へ分解した。エティエンヌ=ジュール・マレーもまた、写真技術を用いて運動を分析した。
ここで重要なのは、「運動」という言葉の意味を、双構図における知覚の問題と混同しないことである。
マイブリッジやマレーが扱ったのは、第一義的には対象の物理的運動である。連続した身体運動を、A、B、C、D……という複数の瞬間へ分解して観察する。これは、連続した運動から複数の静止像へ、という方向である。
これに対して双構図は、二つの静止像から、関係の中で生じる知覚の揺動へ、という逆方向の論理を持つ。
ここでいう「揺動」は、対象そのものが動いているという意味ではない。それは、二つの静止像を比較する鑑賞者の知覚が、両者の関係を固定された一つの意味へ還元できない状態を記述するための便宜的な語である。
したがって、本論では「揺動」を独立した実体や対象として扱わない。
8.ゲシュタルト心理学と多義図形
この知覚の問題を考えるとき、ゲシュタルト心理学における多義図形との類似性は無視できない。
ネッカーの立方体やルビンの壺などでは、一つの視覚刺激に対して複数の知覚的組織化が可能となり、観察中にその知覚が交替することが知られている。
この現象と双構図には、重要な共通点がある。どちらも、知覚を単純な一義的対応として扱うことができない。
しかし、両者を同一視することもできない。
多義図形において基本となるのは、一つの視覚刺激の内部に複数の知覚的解釈が成立する構造である。それに対して双構図では、二つの写真がそれぞれ一つの像として成立している。問題となるのは、一つの像を別の意味に読み替えることではなく、二つの像そのものの関係がどのように知覚されるかである。
したがって、多義図形が「一つの像の内部における知覚的解釈の揺動」であるのに対し、双構図は「二つの像のあいだに成立する位相関係の揺動」である。
この区別によって、双構図を単なる多義図形の写真版として扱うことを避けることができる。
ここでも「揺動」は固定された心理状態を指すものではない。それは、知覚の変化を記述するための暫定的な名称である。
9.双構図――二枚の静止画から何が生じるのか
双構図は、二枚の写真を並べるだけでは成立しない。
重要なのは、二枚の間に一定の同一性が保たれていることである。同じ場所、同じ対象、類似した構図、あるいは共通する形態や光などが存在する。しかし完全には一致しない。
その差異は、必ずしも大きな出来事である必要はない。人物の位置がわずかに変化している。光の方向が微妙に異なる。水面の状態が変化している。あるいは、人がいなくなっている。
こうした差異が小さいほど、鑑賞者は二枚を単純に別々の写真として処理することが難しくなる。
AはAとして存在し、BはBとして存在する。しかし、Aを見た後にBを見ると、最初のAの見え方そのものが変化する。さらにAへ戻ると、今度はBを見た後のAとして見えてくる。
ここで生じているのは、写真Aの中に第三の像があるということではない。また、写真Bの中に第三の像が隠されているわけでもない。AとBを関係づける知覚そのものが、固定された一つの対象へ収束しないのである。
10.第三の画面――像ではなく、固定されない過程
ここで本論の「第三の画面」という概念が現れる。
しかし、この名称には最初から問題が含まれている。「第三の画面」と呼んだ瞬間、それはAでもBでもない第三の画像として想定される可能性があるからである。
たとえば、Aに人物がいてBに人物がいない場合、鑑賞者が「人物が立ち去った」という出来事を想像したとする。もしこの想像を一つの完成した場面として固定すれば、それは結局、AとBの間に新しい第三の静止像を作ったことになる。これは本論が避けようとしている問題である。
したがって、第三の画面とは第三の像ではない。それは、AとBの関係を知覚する際に生じる、像として固定することのできない知覚的な過程を暫定的に指し示す名称である。
ここで重要なのは、第三の画面を「存在するもの」として扱わないことである。第三の画面を一つの対象として取り出した瞬間、それはまた一つの静止像になってしまう。
したがって、第三の画面を固定した瞬間、それはもはや第三の画面ではない。
この逆説は、単なる言葉遊びではない。それは、写真を見る経験を一つの対象として完全に固定することができないという、本論の中心的な問題を示している。
11.「揺動」という言葉について
同じ問題は「揺動」という言葉にも存在する。
「知覚の揺動」と名づけた瞬間、「揺動」という一つの心理的状態が存在するかのように扱うことができる。しかし本論において「揺動」は、独立した対象を意味しない。
それは、二つの写真の関係が一つの固定された像へ還元されないことを記述するための便宜的な仮称である。したがって、揺動そのものを観察対象として取り出すことはできない。
Aを見る。Bを見る。再びAを見る。そのたびにAとBの意味や関係は完全には同じ状態に戻らない。この変化を「揺動」と呼んでいるのであって、「揺動」という第三の対象が鑑賞者の内部に存在するという意味ではない。
ここで重要なのは、名称と現象を混同しないことである。本論が扱おうとしているのは、名づけられた対象ではなく、名づけによって完全には回収できない関係の変化である。
12.デリダの差延との構造的類似性
この問題は、ジャック・デリダの「差延(différance)」をめぐる問題とも構造的な類似性を持つ。
差延は、差異と遅延を含む概念として、意味が完全に現在化され、固定されたものとして与えられることを問い直す。
ここで本論の第三の画面との類似性が現れる。第三の画面もまた、それを一つの対象として名指した瞬間に、その固定できない性質を失うからである。
ただし、両者を同一の理論として扱うことはできない。デリダが主として問題にしたのは、言語、記号、意味の生成と差異である。これに対して本論が扱うのは、写真と写真という視覚的な像の関係である。
したがって、第三の画面と差延との関係は、直接的な理論的同一性ではなく、構造的な類似性として位置づけるべきである。すなわち、固定しようとすると、その固定から逃れる。この構造が両者に共通する。
本論にとって重要なのは、これによって微小位相差論を差延の再発明として提示することではない。むしろ、既存の哲学的議論と接続することで、「名づけられないものを名づける」という本論自身の方法論的矛盾を自覚化することである。
13.第三の画面とベルクソン
第三の画面の問題は、ベルクソンの持続とも再び接続する。
ベルクソンの立場からすれば、持続する時間を固定された点の集合として捉えることには問題がある。すると、AとBの間に「第三の画面」があると考えることはできない。もし第三の画面が存在するなら、それもまた一つの静止した状態として扱われ、A、第三の画面、Bという三つの点へ時間を分割することになるからである。
したがって、本論では第三の画面を「AとBの間に存在するもの」として考えない。第三の画面という名称は、むしろAとBの関係を固定できないことを示すためにのみ用いられる。
この意味で、双構図はベルクソンの持続を写真によって再現するものではない。むしろ、二枚の静止画という空間的な形式を使いながら、その空間的分割では捉えきれない経験を生じさせようとする。
ここに双構図の逆説がある。静止した二枚によって、静止した第三の像を作るのではなく、静止像へ還元できない経験を生じさせる。
14.微小位相差と同一性/差異
ここで「微小」という性質が重要になる。
AとBの差異が極端に大きければ、鑑賞者は二つの異なる写真を見ていると認識する。たとえば、同じ場所の昼と夜であれば、その差異は明確である。
しかし微小位相差では、二枚の写真はある程度の同一性を維持する。そのため鑑賞者は、「同じもの」を見ているという認識を捨てることができない。同時に、完全に同じではないため、「同じもの」として閉じることもできない。
ここに、同一性と差異の同時成立という状態が生じる。
微小位相差とは、この状態を写真によって知覚可能にするための概念である。
この意味で、「微小」は単なる量ではない。それは、差異が独立した別物として認識されるほど大きくなく、しかし完全な同一性へ回収されるほど小さくもない、知覚的な境界領域を指している。
15.有明海における写真実践
この理論は、抽象的な哲学的考察だけから導き出されたものではない。
長年にわたる有明海の干潟の撮影において、同じ場所や似た構図を繰り返し撮影していると、ほとんど同じように見える二枚の写真の間に、完全には説明できない差異が現れる。
干潟は固定された風景ではない。潮位、光、雲、風、水面、泥の状態、人間の活動などが絶えず変化している。しかし、その変化は必ずしも劇的ではない。同じ場所であることが維持されながら、完全には同じではない。
この経験は、微小位相差という概念を考える上で重要な契機となった。
一枚だけを見れば、それは一つの風景写真として成立する。しかし、ほとんど同じ条件で撮影された別の一枚と並べると、最初の写真の意味や時間的位置そのものが変化する。
重要なのは、「何分後に撮影した」という時間情報だけではない。むしろ、二枚を比較することによって初めて現れる、わずかな非一致である。
この非一致が、写真における時間を単純な時計時間とは異なるものとして経験させる。
16.双構図は時間を表現するのではない
ここまでの議論から、双構図を「時間の表現方法」と単純に定義することには問題がある。
Aが過去、Bが現在というように二枚を割り当てるだけなら、それは時間軸を空間的に表示しているにすぎない。それは時間を空間へ翻訳する方法ではあっても、持続そのものを問題にしているわけではない。
双構図において重要なのは、AとBを「過去」と「現在」に固定しないことである。Aを見た後ではBが異なって見え、Bを見た後ではAが異なって見える。したがって、どちらが過去でどちらが現在なのかという一方向的な時間関係だけでは、この経験を説明できない。
双構図が扱うのは、二つの写真の時間差ではなく、二つの写真が互いの現在性を変化させる関係である。
この意味で、双構図は時間を描写する方法ではなく、時間が知覚の中でどのように成立するかを問い直す方法である。
17.制作論としての双構図
微小位相差論は、存在論的・理論的な主張だけを目的とするものではない。写真制作の方法としても意味を持つ。その中心にあるのが双構図である。
双構図では、まず撮影された二枚の写真が存在する。次に、その二枚の間にどの程度の同一性と差異が存在するかを検討する。最後に、それらを一つの作品として配置する。
ここで重要なのは、写真Aと写真Bのどちらか一方を主役にしないことである。作品の意味は、AにもBにも完全には帰属しない。二枚の関係そのものが鑑賞経験を構成する。
ただし、「関係そのもの」を第三の対象として展示するわけではない。展示されるのはあくまで二枚の写真である。第三の画面は、鑑賞者の知覚において暫定的に成立するが、それを独立した作品要素として固定することはできない。
この意味で双構図は、作品の物理的構成と鑑賞経験との間に緊張関係を持つ。
18.写真と「第三の画面」
写真作品において、二枚の間隔そのものも重要になる。
二枚を密接させる場合と、一定の距離を置く場合では、鑑賞者の視線の動きが変わる。しかし、ここでも「第三の画面」を物理的な空間として扱うべきではない。二枚の写真の間に空白があるからといって、その空白自体が第三の画面になるわけではない。
重要なのは、空白を含む配置によって鑑賞者の視線がAとBを往復し、そのたびに両者の関係が更新されることである。
したがって、展示空間における「間」は、物理的な空白と知覚的な間を区別して考えなければならない。物理的な空白は測定できる。しかし、知覚的な間は一つの物体として測定することができない。
この区別によって、「第三の画面」を単純な展示上の空間へ還元することも避けられる。
19.制作と理論の循環
本研究では、理論が先に存在し、それを写真制作へ適用したという一方向の関係を想定しない。
むしろ、撮影から差異の発見、問題化、概念化、双構図による再制作、再び問題化へという循環を重視する。
写真制作の中で、最初は偶然に見えていた二枚の差異が、繰り返し経験されることで理論的な問題となる。その問題を「微小位相差」として概念化すると、今度は新しい写真の撮影方法や組み合わせ方が変化する。さらに新しい制作によって、最初の理論では説明できない現象が発見される。
この循環こそが、本研究を単なる哲学概念の写真への応用ではなく、写真実践から理論を生成し、理論によって写真実践を再編する研究として位置づける。
20.デジタル画像と複数の現在
デジタル写真は、この問題をさらに複雑にする。
一枚の画像は、撮影された場所から離れ、複製され、異なる装置や異なる場所で同時に表示されることができる。同一の画像データが複数の画面に存在する場合、それぞれの鑑賞者は異なる場所、異なる身体条件、異なる時間の中で同じ画像を見る。
このとき「同じ写真」という同一性は保持されながら、「見る現在」は一致していない。したがってデジタル画像は、同一性と差異の問題を拡大する。
ただし、本論ではデジタル画像論を独立した中心テーマとはしない。デジタル技術そのものが微小位相差を生み出すのではなく、同一の画像が複数の現在に置かれうるという点において、本論の問題設定を拡張する事例として扱う。
21.理論の二層構造
以上の議論から、微小位相差論には二つの層があることが明らかになる。
第一は、理論的・存在論的な層である。本論は、「現在」を単一の時間点としてではなく、複数の位相が重なり合う知覚的・関係的な場として捉えるモデルを提示する。これは宇宙の時間構造について絶対的な存在論的真理を主張するものではない。あくまで、写真と知覚における現在の経験を理解するための理論的モデルである。
第二は、実践的・美学的な層である。双構図は、このモデルから導かれる写真制作の方法である。二枚の静止画を配置し、同一性と差異を同時に成立させることで、鑑賞者に固定された像へ還元できない時間経験を生じさせる。
したがって、微小位相差論=理論的モデルであり、双構図=そのモデルを写真実践へ展開する方法と位置づけることができる。
22.微小位相差論の射程と限界
本論の理論には、いくつかの限界がある。
第一に、物理的時間、現象学的時間、写真における時間を完全に一つの理論へ統合することはできない。したがって、微小位相差を宇宙全体に普遍的に適用できる基本単位として主張することは避けるべきである。
第二に、知覚心理学における多義図形や知覚交替と、双構図の経験を同一視することはできない。両者には構造的な類似性があるが、対象の構成が異なる。
第三に、「第三の画面」や「揺動」という語は、現象そのものではない。これらは、固定された像へ還元できない知覚経験を記述するための暫定的な言葉である。したがって、それらを独立した実体や心理的対象として扱った瞬間、本論の理論的前提そのものと矛盾する。
この自己限定は、微小位相差論にとって弱点ではなく、むしろ重要な方法論的条件である。
23.写真における「現在」の再定義
写真はしばしば「瞬間を止めるもの」と考えられてきた。
しかし、一枚の写真が停止させているのは、時間そのものではなく、ある条件のもとで成立した光と対象の関係である。その写真を後から見るとき、撮影された時間と鑑賞する時間は異なる。さらに、同一の写真と別の写真を並べれば、一枚目の意味は二枚目によって変化する。
したがって、写真の時間性は一枚の写真の内部だけに存在するのではない。写真と写真の関係、写真と鑑賞者の関係、撮影時と鑑賞時の関係の中にも存在する。
この意味で写真は、時間を停止させる装置ではなく、異なる位相の関係を保存し、再び知覚させる装置として考えることができる。
双構図は、この性質を意識的に利用する。
24.結論――現在は一点ではない
本論では、「現在」を単一の時間点として捉えることを出発点から問い直した。
物理的観測において、観測対象と観測する現在は完全には一致しない。しかし、物理的時間差と現象学的時間を同一視することはできない。
フッサールの時間意識論からは、現在が把持と予持を含む関係的な構造を持つことを確認した。
一方、ベルクソンの持続は、本論にとって単純な理論的支援ではない。むしろ、時間を空間的な点へ分割することそのものへの批判として、二枚の静止写真を用いる双構図に根本的な緊張を与える。
マイブリッジやマレーが連続した対象の物理的運動を複数の静止像へ分解したのに対し、双構図は二つの静止像から、それらを単純な第三の静止像へ還元できない知覚的な変化を生じさせようとする。
また、ゲシュタルト心理学の多義図形とは、知覚の一義性が揺らぐという点で類似する。しかし、多義図形が一つの像の内部に複数の解釈を成立させるのに対し、双構図は二つの像の関係そのものを問題にする。
さらに、第三の画面という概念には、自己批判的な条件が付される。第三の画面は第三の像ではない。それはAとBの間に実体として存在するものでもない。また、「揺動」も独立した対象ではない。これらは、二つの写真の関係が固定された像へ完全には還元されないという経験を暫定的に記述するための名称である。
この問題は、デリダの差延とも構造的な類似性を持つ。すなわち、固定しようとした瞬間に、その固定から逃れるという問題である。ただし、本論の対象は言語記号ではなく、写真という視覚的関係である。
こうして微小位相差論は、単純な「時間差」の理論ではなくなる。
微小位相差とは、異なる二つの状態が同一性を保持しながら完全には一致せず、その非一致が知覚の中で関係として経験されることである。
そして双構図とは、その微小位相差を二枚の写真の関係として提示する写真実践である。
さらに第三の画面とは、その関係を一つの像として固定することができないという事態を暫定的に指し示す名称である。
したがって、本論の中心的な命題は次のようにまとめられる。
現在は一点ではない。現在とは、単独で存在する時間的な点ではなく、複数の位相が重なり、互いに関係しながら成立する場として捉えることができる。
そして写真は、その複数性を単純に記録するだけではない。二つの写真を並べることで、写真には写っていない「間」を鑑賞者の知覚に生じさせることができる。
しかし、その「間」を第三の像として固定した瞬間、それは再び一つの静止した対象になる。だからこそ、第三の画面は像ではない。
それは、像になろうとして像になりきらない。固定されようとして固定されない。名づけられながら、その名によって完全には回収されない。
この不安定さこそが、微小位相差論における時間経験の重要な性質である。
写真は時間を止めるのではない。止められた二つの像のあいだで、止めることのできない経験を発生させる。
そのとき、写真は過去を保存するだけの媒体ではなく、異なる位相が現在において再び関係し直す場となる。
微小位相差論は、この関係を写真実践から捉え直す試みである。
参考文献
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