微小であることと、存在しないことは違う
微小であることと、存在しないことは違う
写真家にとって、シャッター速度は時間を切り取るための基本的な道具だ。
現在の市販デジタルカメラでも、非常に高速なシャッター速度が使われている。
しかし、科学の世界まで目を向けると、時間の尺度はさらに極端になる。超高速撮影では、フェムト秒(10⁻¹⁵秒)級の時間を扱うことさえできる。
1フェムト秒は、1秒の1000兆分の1だ。
もちろん、これは通常の写真撮影とは異なる科学的な撮影技術である。しかし、写真がどこまで小さな時間を切り取ることができるのかを考える上では、とても興味深い。
僕たちは普段、このような時間差を体感することはできない。
しかし、体感できないことと、存在しないことは同じではない。
例えば光は、1メートル進むのに約3.3ナノ秒を必要とする。
僕たちにはまったく感じられない時間だ。
それでも、光が1メートルを移動するには、確実にその時間を必要とする。
物理学では、目的によっては、このような極めて小さな差を近似によって無視することがある。
しかし、それは差そのものが存在しないという意味ではない。
微小であることと、存在しないことは違う。
僕は写真家として、この違いを重要だと考えている。
写真とは、そもそも光を記録するものだからだ。
光が有限の速度で進む以上、異なる場所から届く光には、それぞれ異なる時間がある。
通常の写真では、それを意識することも、直接見ることもできない。
だからといって、その差を最初から「無視できるもの」として扱う必要があるのだろうか。
僕は、違うものは違うと考えている。
もちろん、ここで一般相対性理論や光の有限速度を使って、僕の「微小位相差論」を物理学的に証明しようとしているわけではない。
物理学が示しているのは、時間には実際に微小な差が生じうるということだ。
僕が考えている「微小位相差」は、それをそのまま物理学の概念として扱うものではない。
問題は、そこから先にある。
物理的には存在する微小な差を、写真はいかにして知覚可能なものにできるのか。
一枚の写真の中では、その差が見えないこともある。
しかし、二枚の写真を並べ、その間にわずかな「間」をつくることで、それまで見えなかった差が、観者の知覚の中に立ち上がることがある。
僕にとって双構図は、そのための一つの方法である。
差そのものを直接写すのではない。
二つの写真の間に生じる関係によって、そこにあった時間の差を、痕跡として感じさせる。
だから僕は、写真を単に「瞬間を止めるもの」とは考えていない。
写真は、僕たちが普段は体感できないほど小さな時間の差を、どのように知覚できるものにするのかを考えるための媒体でもある。
微小であることと、存在しないことは違う。
そして、その微小な違いを写真の中でどう扱うか。
そこに、僕の「微小位相差論」と写真との接点がある。