第13章 不二子はんの、ちょっと先の人との話 その弐 625話

過去も未来も繋がってる編 

縁側で、不二子はんが月を見ながら言わはりました。

「よしろうはん、さっきの話、もうちょっと先まで行ってみまひょか」

「まだ先があるんか」

へー 

「実はな、あの『ちょっと先の人』と話ができるいうことは、時間がずれてても、お互いの存在がわかるいうことなんどす」

「存在がわかる?」

「そうどす。うちが『明日は雨なん?』と聞いて、向こうが『雨やで』と答えはる。ほな、時間はちょっとずれてても、うちらはお互いのことを認め合うてますやろ」

「まあ、そうやな」

「ところが、その人が、うちらより何十年も何百年も先の人やったら、どないなります?」

「そら、話にならんやろ」

「そうどす。なんぼ大声で呼んでも、向こうからしたら、うちらの声そのものが届かへんかもしれまへん。こちらからも、その人がそこにおることを確かめようがない」

不二子はんは湯呑みを持ち上げはりました。

「おもろいことに、時間の差いうのは、いきなり『ある』『ない』になるんやのうて、差が小さいうちは関係ができて、差が大きうなるにつれて関係が難しゅうなっていくんどす」

「つまり、ちょっとずれとるくらいなら話せるけど、ずれすぎたら話せんいうことか」

へー 

「ほんでな、ここが大事なんどす」

不二子はんは、指を一本立てはりました。

「話せるいうことは、そこに何か共通する場所があるいうことどす。時間が完全に同じやから話せるんやのうて、ちょっと違うても、まだ相手に届く余地が残ってるから話せるんどす」

「余地?」

「そうどす。言い残しどすな」

「また出てきたな」

「出てきますえ。うちらが一言しゃべったら、相手にはまだ返す余地がある。相手が一言返したら、こっちにもまた返す余地がある。せやから、ちょっとずつ時間がずれてても、会話が続きますのや」

よしろうはんは、しばらく黙って月を見ました。

「ほんなら、過去と現在も同じようなもんか」

へー

「過去はもう終わっとる。現在は今や。でも、写真を見たら過去のものが、いまの自分に見える」

「その通りどす」

「過去の人間は、もうここにはおらん。でも写真を通して、何かがこっちに届く」

「そうどす。せやから、過去と現在は完全に切れてるわけやないんどす」

不二子はんは、縁側の柱に手を置かはりました。

「ただし、何でも繋がるいうことやおへん。差が大きゅうなりすぎたら、関係を結ぶことができんようになる。逆に、差が小さいうちは、言い残しが残る。その言い残しが、向こうとこちらをつなぐ橋になるんどす」

「なるほどな」

「せやから、新川はんの言わはる『微小位相差』いうのは、単なる時間のずれの話やないんどす」

ほう

「差がある。けど、その差がまだ関係を壊してしまうほど大きゅうない。そのあいだに残余がある。その残余を通して、こちらと向こうが互いの存在を知ることができる」

不二子はんは、少し笑わはりました。

「つまりどすな。過去と現在は、同じものやから繋がってるんやのうて、違うものやけど、まだ関係できるくらいの差やから繋がってるんどす」

「違うから繋がる、か」

へー

月が雲の向こうへ隠れました。

「写真もそうどす。一枚の写真は過去のものどす。でも、いま見ることができる。その時と今には差がある。せやけど、その差があるからこそ、うちらは『あの時』を『いま』から見ることができるんどす」

よしろうはんは笑いました。

「なんや、過去もちゃんと縁側に座っとるみたいやな」

「そうどすなあ」

不二子はんも笑わはりました。

「ただ、だいぶ遠い縁側に座ってはりますけどな」

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