「自然の摂理」という言葉の欺瞞

田んぼのオタマジャクシが鳥類に食べ尽くされると、人はこう言う。
「自然の摂理だから仕方ない」と。

しかしそれは事実の観察ではなく、思考の放棄である。

広大な農地が広がるなかで、冬季も水を張り続けている田んぼは私の一枚だけだ。
必然的に、周囲の鳥類はその一点に集中する。

一方、冬に産卵するニホンアカガエルやヒキガエルが生きられる環境も、
その同じ約一反(約1000㎡)の面積に限られている。

捕食する側も、される側も、ともに極小の面積に押し込められている。

この条件下での「全滅」は、捕食者と被食者のバランスが崩れた結果ではない。
生存可能な面積そのものが、バランスを成立させるには小さすぎるという、空間的問題である。

自然の摂理が機能するためには、前提となる空間スケールが必要だ。
十分な面積があれば、蛙は逃げ場を持ち、鳥は分散し、捕食と生存の均衡が生まれる。

しかし面積が臨界点を下回ったとき、その系はもはや「自然」とは呼べない。
人間が切り刻んだ残片の上で起きている出来事である。

「自然の摂理」という言葉は、しばしば人間の改変を不問にするための言い訳として機能する。
問うべきは摂理ではなく、摂理が働ける条件をいつ失ったか、である。

僕は環境を作る仕事をしている。
それは決して作物のための環境ではない。むしろそのことはほとんど考えていない。

日々向き合っているのは、水の量と、土の状態と、そこに来る生きものたちの気配である。

環境を作っている、という感覚の方が近い。

冬も水を張るのは、蛙のためでも、鳥のためでもない。
ただそうしている。

結果として、そこに命が集まる。
オタマジャクシが生まれ、サギが来て、泥の中に何かが動く。
全滅することもある。それでも水を張る。

生物多様性という言葉は正確だが、少し重い。

僕がやっていることはもっと単純で、
「ここに生きものの居場所がある」という状態を、日々更新し続けることだ。
制度でも思想でもなく、習慣として。

作物は、その環境の中で育つ。
主役ではなく、居合わせたものの一つとして。


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