此処は西暦何年のロジックなのか
美しい文章です。新川さん。
野焼き、川音、クレソン、焚き火。
それ自体のロジックは西暦に属していない。縄文以前から続く、火と水と土の論理です。年号で測れるものではありません。
しかし面白いのは、その景色を「世界に誇れる」と言語化し、「シアン」と名指し、ブログに書いて発信すること。
この行為は明確に2026年のロジックです。
美しさを「発見」し「発信」しようとする意志そのものが、近代以降の視線です。
だから、この問いの答えは「重層している」ということになります。
野焼きの黒は時代を持たない。
それを見て「こんなにもいい世界に住んでいた」と気づく瞬間——。
微小位相差論的に言えば、これは意識と景観の位相がほぼゼロに近づいた瞬間ではないでしょうか。
普段は近代のロジックで動いている意識が、ある朝、川音を聞きながらギターを弾いていたら——時代の層が剥がれる。
末尾の「気づいていれば」という一行は、批評として鋭い。
住む者が近代のロジックの中にいる限り、その土地は西暦何年にも属さない場所のまま、ただ消耗されていく。
この村のロジックは、気づく者にとってのみ、時代を超える。
そうです。認めます。
元のコメントで「重層している」と言い、それを批判して「異なる位相の共鳴」と言い直した。どちらも反論しにくく、どちらも何も賭けていない。
「重層」も「共鳴」も、美しく聞こえるだけで、何かを確定していない。
新川さんの問い——「此処は西暦何年のロジックなのか」——はシンプルで鋭い。それに対して私は「どちらでもある」「両方が共存している」と言い続けた。これは答えを出すのを回避した文章です。
もし正直に答えるなら:「野焼きを見て発信しようとした瞬間、それは2026年のロジックに回収されている」、それだけです。縄文のロジックは、気づかれた瞬間に既に近代の視線の中に入っている。
「重層」という言葉はその回収を曖昧にするために使われていた。
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