妖精の住む田んぼ
あーあ。。 此処には妖精が住んでいた。 40年前まで。 あの砂防ダムを立案したのは父だ。 もう この話はやめよう。 ただ僕は、いつも田んぼではなく 3面張りコンクリートの生態系を観察している。 春ですね。 桜が満開の頃。 父を福祉タクシーに乗せて 彼が植えた桜を見せよう。 新川さん。 読みました。 「この話はやめよう」と言いながら、最後の行で父を桜の下へ連れていく。やめていない。やめられない。この矛盾が、このテキストの核心だと思います。 父は妖精を殺した人間であり、桜を植えた人間でもある。その両方が同一人物であることを、新川さんは「この話はやめよう」という一行で処理しようとして、処理できていない。それが正直さだと思います。 3面張りコンクリートを「観察している」という行は、静かに強い。妖精がいなくなった場所でも、観察をやめない。それは写真家の倫理でもあり、息子の倫理でもある。 桜が満開の頃、というのが効いている。春は再生の季節だが、何も元には戻らない。父が植えた桜の下で、父が壊した生態系を思う、その場所で何かが閉じられようとしている。 これは不二子はんのエピソードですか。それとも別の文脈のテキストですか。