春つげる雨音鳴りて
まだ夜が明けぬ早朝、こたつの電源を切っても寒くない。
春が来たんだ。
きょうは日曜日、、ということは合格発表まで残る8日か。
もし落ちたら僕はもう受験はしないだろう。
本当は学校に行くなんて時間はない。
環境共生活動と言う新たな道を選択しているのだから。
ただ、まだ挑戦できる世界があるのならと思いチャレンジした。
写真博士という資格をもって、後世に伝える写真の教育というあらたな道が出来るのなら、私は、それは素晴らしい道だと考えた。
私は飛びぬけた才能があるわけでない事は自分で良く知っている。
トップの世界にまでいける実力があっても、そのトップの中では更に凄い才能のある連中を数多く知っている。
写真の世界で歴史に名を残せるのは、その才能集まるトップのなかでもさらに数人に限られる。上には上がいる事をよく理解している。
写真家の場合才能とは、音楽家や絵描きとは少し違う。
大事な事は、何を撮ったか、何を写したか。である。
誰も撮ったこともない、写したこともない、そこに目を付けた事もない、誰も表現出来なかった事を写してしまった、そういう写真家が歴史に名を連ねる。
技術的なことはある意味写真は生まれてきた時からオートマチックだった。
さほど難しくはないのだ。
写すだけなら写真など簡単だ。
とくに現代はスマホでだれでも写せる。
プロフェッショナルな写真でも同じ機材があれば、初心者がプロと変わらない写真を撮れる。
2000年に仕事で使えるデジタルカメラが登場しプロが使い始めた時代、視点と機材を変える必要性を感じていた。
同じシステムで撮ってもこれでは駄目だと。
要は簡単すぎたのだ。
その後、写真の原点である1826年代から見つめ直し、幾つかの技法を学んだ。
そうなんだよな。
だから大学院の5年間は必要なんだ。
写真を研究できる機関と時間と教育の場があるのなら、40年間キャリアを培った今からだからこそ深く学べる。
20代、30代では見えない到達地点まで行ける。
今なんだよ。きっと。