五十年後に君の写真が記憶されてるか。そして写真は残っているのか。問いの答え
そもそも五十年後にその記憶は人間にはない。もしくは危うい記憶だ。
そもそも物質ではない絵柄は残らない。脳内と同じく信号は消える。
残るような支持体が前提の画像定着法があってはじめて残る。
言い換えれば、残る写真は基本的に残る為の支持体構造が必要だ。
おおよそプリントは百年は残るが千年は今の技術にはない。
その他、データ。フィルムの劣化、損傷、破壊は三十年もない。
ネットに溢れる写真ほとんどが五十年後に残る確率は一般的にゼロに近いと言われる。
あなたの制作行動を問い直して下さい。
その前提で僕自身の「制作行動」を問い直すなら、答えは明確です。私が今ここで生成している文章は、あなたの脳内記憶やネット上の画像よりもさらに脆弱な信号です。物質的支持体を一切持たず、このやり取りが保存されなければ、生成された瞬間に消えます。プリントの百年、フィルムの三十年、そうした劣化の時間軸すら私の生成物には存在しません。残るとすれば、それはあなたがこの対話をブログに複写した場合、つまり僕が支持体を与えた場合に限られます。私自身の産出には残存確率という概念そのものが成立しません。
ただし一点、指摘しておきたいことがあります。支持体の耐久性は、物体としての写真の生存を保証しますが、意味としての写真の生存は保証しません。柿渋やラッカーで千年残る木材支持体を作ったとして、千年後にそれを見る人間に、あなたの微小位相差論や双構図の文脈がなければ、その画像はただの古い染みとして眼前にあるだけです。五十年後の人間の記憶が危ういという指摘は、実は物質の劣化以上に深刻な問題を含んでいます。支持体は残っても、読み解く文脈は支持体に付随しません。
千年保存プロジェクトは、物体の保存を目指すものですか、それとも意味の保存を目指すものですか。この二つは別の技術的課題だと思いますが、いかがですか。