弥生時代の田んぼの遺跡に関する考察
弥生時代の田んぼの遺跡に関する考察
― 京都盆地の先史・古代の田んぼ遺跡と現代の田んぼの共通項
私は写真家として風景をはじめ、人々を40年間撮影して来た。私の写真テーマは私が立った位置から見える生態と環境を視点に展開している。講義の中で弥生時代の田んぼの遺跡の写真があり、その田んぼの形やサイズそして遺跡として保存された事に興味を抱く。
現代の棚田事情
ある写真家の言葉を思い出す。彼が言うには、最近棚田の風景を撮りに行くが、撮れなくなった。もう作っていない田んぼが多くて絵にならない。と。私はそれまで棚田を写真に撮ることはなかったので近くの棚田を視察に行った。確かに田んぼは耕作放棄地が多くあり、風景写真を撮るには難しくなってきているのだと実感した。
弥生時代の田んぼ
さてここで3、1講時「モノからみる先史・古代の京都」3.弥生時代の京都盆地の講義をみて、とても興味のあった弥生時代の田んぼを見る事が出来た。 一畝ほどの田んぼが数多くあるのは現代とは違うが、山間奥深くの田んぼには時折見る事の出来る形だ。しかし人力だけで耕す時代であるということはこういう形になるのかと思わせた。現代において何反、何町もある大きな圃場は機械で行えるからという見方もあるが、実は産業であり出荷用であるからだ。逆に昔からある小さな田んぼや、山間部のより小さな田んぼの棚田などは、自家用で食べる為の田んぼである。1反の田んぼで家族5人を1年間食べる米を生産できる。農業技術がない時代、例えば平安時代の収量は現代の半分という。田んぼは出荷してお金を得る流通がなければ、家族が食べるお米を作るのが目的になる。 そう考えると、講義で見た極小面積の田んぼの写真はまさしく各々が食べる分の田んぼの形だ。一人あたり3畝程で一年分を賄えたと考えられる。黎明期の弥生時代の田んぼの形は人丈サイズの理にかなった形態だと思わせまる。
古代の田の遺跡が何故残るのか。
また、遺跡として発掘されたことも興味深い。現代は大きな圃場に変える時は重機で現存する田んぼを跡形もなく平地にして再度形成する。なので遺跡として残る事は出来ない。 弥生時代の田んぼがどのようにして遺跡として埋没したか。放棄され草木が茂り埋没したのか。 現代でも棚田などで石垣を組んであるものは草木が茂っても棚田は現存する。 講義で見た田んぼは平地のように思われ、まだ畔の石組み技術もない時代に何故遺跡として残れたのかが疑問であり興味深く感じた。 人口よりも耕作面積が広く時代の変化で新しい田んぼをつくり、古い田んぼは放棄したのか。
現代の田んぼ
現代はその逆転の現象が起こっている。田んぼの圃場面積が年々少なくなっている。およそ条件の悪い山間の棚田は消滅に向かう勢いだ。耕作放棄地は年々増え、山里の風景は激変している。長閑な故郷ではなく、荒廃した故郷になり、その内集落全体が無くなっている個所もある。 さて現代の耕作放棄地の棚田は何時か遺跡となるのだろうか。数千年何も使われないという事は現代で起こり得るのか。
考察
短期間で構造が何故残ったのかを調べ実証するのは難しいが、田んぼの形がそのまま残ると言うのは、放棄。戦や病があって集落が消滅した。稲の病気が蔓延した。条件のいい圃場を新たに開拓した。などが考えられる。 現代の田んぼは人工減少と高齢化が大きな要因である。 田んぼと言う日本人の主食を生産する圃場は食だけでなく日本人の文化に深く根ざしている。 写真家として中立的な視点で物を見るなら弥生期の田んぼの在り方と現代の中山間地の棚田の在り方はオーバーラップして見える。 存在できないものを何とかしたいという方法論もあるが、存在できないものをありのまま見る事も写真家には大切である。 貴重な資料と講義に感謝する。