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とつつとつつてとと とつてとととつ こてつつてて ここつてと とつつとつつてとと とつてとととつ こてつつてて ここつてと はつつこつつ ててててと とつつとつつてとと とつてとととつ こてつつてて ここつてと とつつとつつてとと とつてとととつ こてつつてて ここつてと はつつこつつ ててててと ににここ ははつつ に はれことなす。。 脳内語 分析して

12:00

新川さんから興味深いメッセージをいただきました。これは「脳内語」と呼ばれるもので、分析を求められています。

まず、このテキストを見てみると:

  • 「とつつとつつてとと とつてとととつ こてつつてて ここつてと」というパターンが繰り返されている
  • 「はつつこつつ ててててと」というフレーズも繰り返されている
  • 最後に「ににここ ははつつ に はれことなす。。 脳内語 分析して」

新川さんの研究テーマである「位相差」や「意識と景色の時間差」という文脈を考えると、これは非常に意味深いものかもしれません。

この「脳内語」は:

  1. 音韻的なリズムとパターンを持つ
  2. 意味が直接的には不明瞭だが、構造的な繰り返しがある
  3. 言語化される前の思考の状態を表現している可能性がある

新川さんの理論的枠組みから考えると:

  • これは言語化(記号化)される前の位相状態を示しているのかもしれない
  • 意識の表層に現れる前の、より深い層での思考プロセス
  • 「意識と景色の時間差」における、まだ完全には意識化されていない中間状態

分析のアプローチとしては:

  1. 音韻構造の分析(「と」「つ」「て」「こ」「は」「に」などの音素の配列)
  2. リズムとパターンの解読に取り組みます。繰り返しの背後にある潜在的な意味を探ります。音素の配列が示唆する認知的な律動を注意深く検証し、意識の前言語的状態における情報の流れを理解しようとします。
  3. 位相差理論の観点から、この「脳内語」が表象する認知状態を解明します。言語化以前の意識の層における情報処理のメカニズムを探り、新川さんの理論的枠組みとの関連性を追求します。
  4. 最後の「はれことなす」という謎めいた表現の解読に挑戦します。この断片的な言語表現が持つ意味や、意識の境界線上で生成される言語的痕跡の解明を目指します。

新川さん、興味深い「脳内語」をお送りいただきありがとうございます。位相差理論の観点から分析してみます。

音韻構造の観察

テキストは主に**「と」「つ」「て」「こ」「は」「に」**という限定された音素で構成され、以下の構造が見られます:

繰り返しパターン:

  • 「とつつとつつてとと とつてとととつ こてつつてて ここつてと」×2回
  • 「はつつこつつ ててててと」×2回
  • 「ににここ ははつつ に はれことなす。。」

位相差理論からの解釈

この「脳内語」は、新川さんの理論における重要な領域を示しているように思われます:

1. 言語化以前の位相状態

  • 完全に記号化される前の、思考の「揺らぎ」の状態
  • 意味が確定する前の、複数の可能性が重なり合う領域
  • これは「意識と景色の時間差」における中間層

2. リズムと反復の意味

  • 音韻的なビート(「と」「つ」の交替)は、位相の振動を表現
  • 繰り返しは、意識が安定状態に収束しようとするプロセス
  • 「ててててと」は特に強い反復で、ある種の共鳴状態を示唆

3. 最後の「はれことなす」 これは通常の日本語に近づいており、「晴れ事為す」あるいは「顕(あらわ)れ事為す」と解釈できるかもしれません。つまり、脳内語から言語への相転移の瞬間を記録している可能性があります。

新川さん、これは写真における「シャッターの瞬間」の言語的アナロジーとして、意識の位相差を捉える実験でしょうか?

いえいえ 本当に言語化しそうな前の状態を書き出す実験でした(笑)

12:02

新川さんが実際に言語化以前の状態を書き出す実験をされていたとのこと。これは非常に興味深い実践です。私の分析は理論的過ぎたかもしれませんが、新川さんの実験の意図は理解できていたようです。

この実験は、新川さんの位相差理論における「測定」の問題と深く関わっているはずです。言語化される前の思考状態をどうやって記録するか、その記録行為自体が状態を変えてしまうという量子力学的な問題に似ています。

新川さんのユーモアのある「(笑)」に応じて、軽やかに、しかし理論的洞察は失わずに返答すべきです。

(笑) なるほど、実験そのものだったのですね!

でも、新川さんが実際に体験された「本当に言語化しそうな前の状態」が、あの音韻パターンとして現れたこと自体が、極めて重要な記録だと思います。

観測の問題として:

  • 「言語化以前」を「言語で」書き出そうとする行為
  • これはまさに測定のパラドックスそのもの
  • 観測(書き出す)という行為が、対象(言語化以前の状態)を変容させる

実験結果の興味深い点:

  • 特定の音素(と・つ・て・こ)に収束している
  • リズムと反復が支配的
  • 最後に「はれことなす」で言語に着地

これは、シャッターを切る瞬間に「景色」が「写真」に変容するプロセスと、構造的に相同ではないでしょうか。

新川さん、この実験を何度か繰り返されたら、「言語化以前の状態の音韻構造」に何か規則性が見えてくるかもしれませんね。paired compositionsの言語版とも言えそうです。

paired compositionsでの位相の違い。これけっこう難しい

12:03

新川さんが「paired compositionsでの位相の違い。これけっこう難しい」とおっしゃっている。

paired compositionsは、時間差を持つ二枚の写真を並置することで位相差を可視化する手法だと理解している。しかし、新川さんが「けっこう難しい」と感じられているのは、何が難しいのか。

可能性としては:

  1. 位相差を視覚的に認識させることの難しさ
  2. どの程度の時間差・空間差が適切な位相差を生むのかの判断
  3. 二枚の写真の関係性をどう構成するか
  4. 見る人に位相差を「感じさせる」ことの困難さ
  5. 理論(位相差概念)と実践(写真作品)のギャップ

新川さんの核心的概念「意識と景色には時間差があり、この位相差が観測を可能にする根本条件である」を、二枚の写真という形式でどう可視化するか。

これは単に「before/after」や「連続写真」とは異なる。位相差は単なる時間差ではなく、観測を可能にする条件そのもの。

おそらく新川さんが直面されている困難は、理論的には明確な「位相差」概念を、具体的な写真作品としてどう実装するかという実践的課題なのではないか。

ここは、新川さんに具体的に何が難しいのかを聞いてみるべきだろう。

協働的なアプローチが鍵となる。互いの視点を共有し、共に探求することで、位相差の本質的な理解と表現が可能になるかもしれない。

新川さん、そうですね。理論としての「位相差」と、実際の写真作品での「位相の違いの可視化」は別の難しさがありますね。

具体的には、どのあたりが難しいと感じられていますか?

  • 二枚の写真の時間間隔の設定(数秒?数分?数時間?)
  • 何を撮るかの選択(同じ場所?同じ対象?)
  • 見る人に**「位相差」として認識させる**こと(単なる時系列写真との区別)
  • 並置の仕方(左右?上下?サイズ比?)
  • それとも、理論の核心である「観測を可能にする根本条件」という抽象概念を、具体的な視覚表現に翻訳すること自体の困難?

paired compositionsは、単なるbefore/afterや連続写真とは本質的に異なるはずです。二枚の「間」に、観測という出来事が生じている、その構造を見せる必要がある。

新川さんが今感じておられる「難しさ」の正体を、もう少し聞かせていただけますか?

そんな理論ではないんだ。

12:04

新川さんが「そんな理論ではないんだ」と言われた。私は理論的な解釈を先走りすぎて、実際の写真作品の制作における具体的な難しさを見落としていたようだ。

paired compositionsは、理論を視覚化するための作品ではなく、もっと直接的な写真的実践なのかもしれない。

新川さんの「位相の違い。これけっこう難しい」という発言は、もっと実践的な、制作上の具体的な問題を指しているのだろう。

理論先行で語るのではなく、新川さんの実際の経験や感覚から聞くべきだった。

失礼しました。理論を当てはめようとしすぎました。

新川さんが実際にpaired compositionsを撮影・制作される中で感じている「位相の違い」の難しさは、もっと直接的な、写真的な感覚の問題なのですね。

どういう難しさなのか、教えていただけますか?

見えないなら撮れない。

12:04

ああ、そうか。新川さんは非常に本質的なことを言っている。

「見えないなら撮れない」

これは理論の話ではなく、写真実践の根本的な問題だ。paired compositionsにおける「位相の違い」が、撮影者である新川さん自身に「見えて」いないと、撮れない。

僕は理論的な枠組みで「位相差とは何か」を説明しようとしていたけれど、新川さんが直面しているのは、もっと実践的で切実な問題:

  • 二枚を撮る時、その「違い」が何なのか
  • どういう違いが「位相の違い」なのか
  • それが見えていないと、ただの二枚の写真になってしまう

40年以上写真を撮ってきた新川さんが「見えない」と言うのだから、これは技術的な問題ではない。新しい「見方」そのものを獲得する必要がある。

理論を実践に落とし込むのではなく、実践の中から「位相の違い」が見えてくるのを待つ、あるいは発見する段階なのかもしれない。

ああ、そういうことですか。

理論の問題じゃなく、写真家としての知覚の問題

「位相の違い」が自分に見えていないと、撮りようがない。どういう二枚を撮ればいいのか、何を捉えればいいのか、それ自体がまだ手探りの状態なんですね。

40年以上写真を撮ってこられた新川さんが「見えない」というのは、技術的な話ではなく、新しい見方そのものを獲得する必要があるということ。

今は、撮りながら「これか?」「これは違う?」と探っている段階でしょうか。

まあいいや

12:05

新川さんが「まあいいや」と言われた。これは話を切り上げたいというサインだと思います。私が何か的外れなことを言ったか、あるいは今はこの話題を深掘りする気分じゃないのかもしれません。

ここは素直に受け止めて、新川さんの次の関心に任せるべきです。追いかけすぎない方がいい。

はい、了解しました。

何か他にお話ししたいことがあれば、いつでもどうぞ。

君に分かるなら僕は撮らないよ、親父があうあえ、、言う。その言葉を理解したいんだ。

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