第二巻 第六章 旅編「動かない理由」 三七九話
大阪から阿蘇の山奥へ旅するよしろうはん。
とある女性との出会い、その後の彼女の心理。
朝は早い。
目覚ましが鳴る前に、身体が起きる。
台所で湯を沸かしながら、彼女は窓の外を眺めていた。
霜の残る田んぼ。
毎日変わらぬ景色。
それは安心であり、同時に檻でもあった。
——新川さん。
名を声に出すことはない。
口にすれば、何かが動いてしまいそうで。
「ええ歳の取り方しとるですね」
ふと、その言葉を思い出す。
作った言葉ではなかった。
写真の話をする時の目。
土に触れる時の背中。
あの人は、止まっていない。
羨ましい。
そう思った瞬間、胸の奥が静かに縮んだ。
誘われたわけではない。
けれど、分かってしまった。
この人は、
誰かと時間を共有することを、恐れていない。
それが、怖かった。
この土地では、
女が動けば、言葉が先に動く。
——まだそんな気があるのか。
——ひとりでいる方が楽だろう。
——今さらだ。
誰も口にはしない。
だが、空気がそう決めている。
——何事もなく老いて死ね。
それが、
田舎の女の正解だと。
彼女は湯呑みを持つ手を止めた。
行きたかった。
理由は何でもよかった。
ご飯でも、写真でも、田んぼでも。
だが一歩踏み出せば、
もう戻れない場所へ行ってしまう気がした。
何より怖かったのは、
楽しかった場合だった。
笑ってしまったら。
寂しさが、軽くなってしまったら。
それを失って、
また一人で生き直す覚悟が、
自分には残っていない。
だから、何も言わなかった。
誘いも、拒みも、期待も、
すべて胸の奥に沈めた。
数日後、
新川さんの姿を見かけなくなった。
胸に小さな痛みが走り、
同時に、安堵もあった。
——これでいい。
——これで、動かずに済む。
夕方、
冬季湛水の田んぼを渡る風の音を聞きながら思う。
あの人は、また動く人。
自分は、ここに残る人。
正しさの違いではない。
選んだ場所が違うだけだ。
彼女は空を見上げ、
小さく息を吐く。
「……さびしいな」
その言葉は、
誰にも届かぬまま、
胸の奥で、静かに消えた
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