木を植える

巷でのカーボンニュートラルという言葉は何かを忘れている。
再生可能エネルギーや持続可能・・などと叫ばれているが、もっと大事なことを行っていない。
どちらも消費する事を前提にした考えで数値化して国や企業には都合のいい考えだ。太陽光は無限だからいいだろうとか、木を燃やしてもそれは成長過程で二酸化炭素を吸収したものだから地球全体では±0だという側面だけを伝達している事に問題がある。 どちらも有限である。
果てしない時間の先である太陽光が有限か無限かなど論ずるに値しないが、効率が凄まじく悪いソーラー発電は山の木を切り倒して作られ、食糧生産の畑を転換して作られている。
数値では木は燃やしていいだろうが、燃やした分はまた木を植える事が必要だ。そうでなければ江戸時代以前のように山は禿山となる。 現代の思考は結局消費でしかない。寧ろ消費拡大としか思えない。そこが問題なのだ。 現代という時代は過去の歴史と比較しても、まだまだ幼稚で稚拙だなと感じてしまう。

さて、私はこの冬大量の木を暖房の薪として消費した。春先までには恐らく大きな木を4本から5本は使うだろう。消費をしたら生産する。 なので今年もまた25本のクヌギと5本の花木を植える事にした。それが本来のカーボンニュートラルであり、先人は誰もが知り行ってきた事である。多くの市民が木を植える事は難しい。土地を持つ者の大切な仕事だと再認識している。

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