写真について 形なきもの Zero Ground Ariake Sea 諫早湾 2016 1983年、大学の夏休みに私は水俣に向かった。 ユージンスミスの水俣は今どうなってるのか。 しかし私の見た水俣は美しすぎた。 海は青く、のどかな景色があった。 埋立地は異様であった。 チッソの工場からだろうか、排水の匂いは独特の悪臭であった。 しかし、スミスの写真集に見る様な景色は無かった。 告発的なドキュメンタリー形式に当時疑問を感じていた。 二十歳そこらの私は幾人かの被害者の方々にあったがシャッターを切る事はなかった。 結局当時は500本のブローニーフィルムを撮ったが今どこにあるかもわからない。 私は頭の中の印象をイメージとしてしか捕らえなかった。 何故なら具体的な形が見えないからだ。 私はあるテーマを大学時代に思いつく。 簡単に言うなら 私は目の前にある風景を見て写真に撮るが、撮りたいものは目の前の風景ではなく、違う思いを写したいと思っていた。 ある壁を写した。 一枚で表現したらそれは壁でしかないが、4枚で構成したら違う情報を見るものに伝えられた。 アンディーウォーホールの手法にも通じるものだが、私は当時満足できなかった。 表現されたのもは私の思いとは別のものになったからだ。 当時 Thinking to Zero として発表した。 私は20数年前にこの九州に再び来て写真を撮っている。 テーマは九州の環境と生態を記録する。 現在は有明海の再生にテーマを絞っている。 https://shinkawayoshirou.blogspot.com/search/label/Zero%20Ground しかし有明海の状態を写そうと思っても見えない現実がある。 まさしく水俣のそれと似ている。 危機的状況が写真に写せない。 形になって見える様になればそれは問題として手遅れだろうが、形なきものを形にしようとするのは写真家的には苦労する。 視点を変え海抜ゼロメートルに近い地点から見る有明海を撮ろうと考えた。 Zero Ground Ariake Sea と言うタイトルでサイト上で発表。 パリのウエブサイトマガジンで表紙と中ページで紹介される。 https://issuu.com/magazinef...