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Thinking Notes

Thinking Notes Looking at Photographs, Layering Time — Reflections on the Theory of Micro-Phase Differences through Responses from Overseas Looking back at the responses I have received from overseas on social media, I find that they go beyond simple reactions to the history of Japanese photography. Several comments have, in fact, pointed directly to the nature of photography as a medium itself. One particularly important observation was that the strong connection between photographic images and writing, language, and even thought is a field worthy of study and research. This comment independently points toward an approach that understands photography not simply as a record of visual information, but as a medium of perception closely connected with language and thought. I have previously written that photography reflects how human beings have looked at and understood the world. A photograph does not simply reproduce reality. It inevitably incorporates what the photographer saw, what th...

Back to Summer ’88 🍸 Retro Funk & 80s Romantic Soul | Miami Memories

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第12章 くつわむし 618話

ちょっとうるさいくつわむし。 それでも夏の終わりを告げてるようや。 そう感じた不二子はん。 お月さんは今日見えへんな。 気温も湿度も高い朝方、お天道様の出る前にお散歩しとった。 よしろうはん、、、最近えろう調子がええ。 なんかおましたのかしら。 女子なら許しまへんで。。 時折涼しげな風が吹く。 きりぎりすも盛んに鳴いている。 こおろぎもようさん鳴いている。   

Lauryn Hill 🎧 Smooth Hip Hop Soul & Neo Soul Mix

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2026年の夏 この夏はいい年であった。 かけがえのない一年なのかもしれない。 しかし、それさえ不安定。 でもいいね。  ドキドキする。 

Hikoma Ueno — The Founder of Japanese Photography

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  日本の写真の開祖・上野彦馬 日本の写真史を語るとき、避けて通ることのできない人物が上野彦馬(1838–1904)である。 彦馬は長崎に生まれ、オランダ医学・化学を学ぶなかで写真術に出会った。ポンペから化学を学び、さらに写真術を研究し、1859年頃には湿板写真の撮影に成功したとされる。1862年(文久2年)には長崎に「上野撮影局」を開業した。これは日本最初期の本格的な商業写真館である。 そこから日本の写真は、大きく動き始める。 坂本龍馬、高杉晋作、勝海舟、桂小五郎、後藤象二郎――幕末という激動の時代を生きた人物たちの肖像を、彦馬は写真として後世に残した。 しかし、上野彦馬の重要性は、単に「有名人を撮影した写真家」というところにはない。 彼は写真を、 西洋から伝わった珍しい機械技術から、日本で継続的に実践される職業と文化へと移行させた人物 だった。 しかも彦馬は写真家であると同時に化学者でもあった。 『舎密局必携』を著し、写真薬品の調製や撮影技術を研究し、多くの門人を育てた。その門人たちが各地で写真館を開き、日本全国へ写真術を広げていった。つまり彦馬個人の仕事だけでなく、 「写真を学び、写真を職業として次の世代へ伝える」という日本の写真文化の基礎を築いた のである。 さらに興味深いのは、彦馬の写真が肖像だけにとどまらないことだ。 長崎の街、港、外国人居留地、そこに暮らす人々――幕末から明治へと移り変わる日本の風景そのものが、写真として記録されている。 2026年には、1864~1867年頃に上野撮影局で撮影された写真187枚を収めた「上野撮影局写真帖」が国指定重要文化財となる方向が示された。そこには武士、民衆、外国人、長崎の風景などが記録されている。これは彦馬の仕事が、単なる「古い写真」ではなく、日本の写真史・科学技術史を考えるうえで重要な文化資料であることを改めて示している。 写真とは、単に「過去を写す」ものではない。 上野彦馬が残した写真を見ると、そこには日本が近代へ移行していく瞬間そのものが写っている。 一枚の写真の中に、人物だけではなく、時代、技術、社会、そして「見る」という行為の変化まで刻まれている。 日本写真の出発点を考えることは、写真とは何なのかを考えることでもある。 上野彦馬は、その問いを日本で最初に本格的に引き受けた写真家の一人だったのだと...

Eugène Atget: How Does a Photograph Become History?

  アッジェ論――写真はいかにして「歴史」になるのか ――ベレ・エポックのパリを「写してしまった」写真家 ウジェーヌ・アッジェ(Eugène Atget, 1857–1927)は、今日では近代写真史を代表する写真家として位置づけられている。しかし、その評価を自明のものとして受け入れることには、いささか慎重であるべきだろう。 なぜなら、アッジェの生涯と、死後に形成された「アッジェ」という写真家像との間には、大きな隔たりがあるからである。 アッジェは生前、現在のような意味での「芸術写真家」として成功していたわけではない。彼の写真は、画家、舞台美術家、歴史家、収集家などにとっての資料として機能していた。彼は自らを「芸術家」として確立するよりも、変貌するパリの街路、建築、庭園、店舗、装飾などを撮影し、それを必要とする人々に提供していた。 ここで重要なのは、アッジェの写真を「芸術作品」という概念だけから評価しないことである。 彼の写真の決定的な価値は、むしろ彼自身の芸術的意図を超えたところで成立している。 1.アッジェはパリを「撮影した」のではなく、パリを保存してしまった アッジェが撮影したのは、特別な出来事ではなかった。 そこにあった建物、路地、樹木、看板、店舗、広場、階段、街角。 それらは撮影された時点では、必ずしも歴史的価値を持っていなかった。 しかし、時間が経過すると意味が逆転する。 都市は改造され、建築物は取り壊され、店舗は消え、人々の生活様式も変化する。 その結果、かつて「現在」であった写真が、「失われた過去」の証拠になる。 ここに写真という媒体の特殊性がある。 写真は未来のために撮影されたものでなくても、未来から見ることによって歴史資料になる。 アッジェの重要性は、まさにこの時間的反転によって説明できる。 彼は「歴史的なパリ」を撮影したのではない。 彼が撮影した時点では、それはまだ歴史ではなかった。 彼は、現在進行形のパリを大量に撮影した。 そして時間がそれを歴史に変えたのである。 2.ベレ・エポックから近代都市への移行 アッジェの写真を考える上で、パリという都市の歴史的状況を無視することはできない。 19世紀後半から20世紀初頭にかけてのパリは、近代都市への巨大な転換期にあった。 都市空間は更新され、古い建築や街路は失われていった。 アッジェは、この変...

微小位相差論は成立する可能性があるか。

はい。**「理論として成立する可能性はある」**と私は考えます。 ただし、現段階では「すでに科学的に証明された理論」という意味ではありません。 私がこれまで聞いてきたあなたの考えを踏まえると、核心はかなり面白いです。 私が特に重要だと思うところ あなたは「現在」を一点の瞬間として扱っていない。 たとえば写真を見るとき、そこには 撮影された瞬間 + 光が届くまでの時間 + 観察者の記憶 + 観察する現在 + 比較対象となる別の像 が重なっている。 さらに「双構図」によって二つの像を並置すると、単なるAとBの比較ではなく、 AとBの間に知覚上の差異=位相差が発生する 。 ここには、現象学の時間意識、知覚心理学、写真論、記憶論を接続できる余地があります。 特に面白いのは、 写真は過去を記録するものではなく、異なる時間位相を現在に出現させる装置ではないか という方向です。 これは博士研究のテーマとして十分成立し得ます。 ただし、一番大事なこと 「微小位相差」という言葉を使うだけでは理論にはなりません。 博士論文にするなら、 何が「位相」なのか 何が「微小」なのか 何と何の位相差なのか その差はどう知覚されるのか 写真でなければ成立しないのか 既存の理論と何が違うのか を定義する必要があります。 ここをクリアできれば、かなり面白い研究になります。 そして私は、あなたの理論について一つ重要な助言があります。 「物理学の新理論」として無理に証明しようとしない方がいい。 むしろ、 写真実践を起点として、時間・知覚・記憶・認識の関係を説明する理論 として構築した方が、はるかに強い。 そうすれば京都芸大にも、京都大学にも、そして欧州のArtistic Researchにも接続できます。 率直に言えば、 私は「微小位相差論は荒唐無稽な思いつき」とは考えていません。 むしろ「まだ理論として粗いが、博士研究に育てる価値のある核がある」という評価です。 そしてこれは、あなたが今後2年間でやるべきことがかなり明確だということでもあります。  

門出橋で月を眺めながら

満月 川 葦 冷たい空気 冷たい風 僕はよくここにきては物思いに耽る。 結局ここは思考するにはいいんだ。 あらためて自分の故郷をいいと感じた。 五百年前に未開の地であった所へ大阪から定着した初代のご先祖様。 17代目になる僕はどのような方かいつも想像していた。 具体像はわからないが、梵字六地蔵を建立したことだけが今でも伝わる。 石碑には新川と幾人かの衆が騒乱の戦を静めるために建てたと記してある。  

プラン1 修士を京都芸大大学院で修めて、博士号をヨーロッパ圏でと考えている。お勧め大学院はあるか。

  今の研究テーマ―― 写真を単なる作品制作ではなく、「知覚・時間・位相差」を写真実践から理論化する ――を前提にすると、私はかなり明確に順位をつけます。 1位  Aalto University (フィンランド) 一番おすすめです。 Aaltoには博士課程の中に明確に Photography Research があり、写真を中心とした博士研究を1990年代から続けています。博士論文に、作品制作・展覧会・学術論文などを組み込むことも可能です。 さらに重要なのが、現在の研究分野に Harri Laakso教授 がいることです。彼は写真論、現代写真史、Artistic Researchを専門とし、写真・現代美術・Visual Culture分野で14人の博士学生を指導しています。 これは、あなたの 写真作品 + 微小位相差論 + 時間論 + 知覚論 + 写真そのものを研究方法にする という方向とかなり相性がいい。 第一候補として、修士修了後にAaltoへ出すことを考えた方がいいと思います。 2位  Zurich University of the Arts (スイス) こちらも非常に面白いです。 特に Transdisciplinary Artistic PhD があり、芸術・デザインを横断しながら、芸術そのものを研究手段として博士研究を行う仕組みです。 しかも「既存の学問分野に自分を合わせる」というより、 芸術実践から新しい知を作る という思想がかなり強い。 あなたの「微小位相差論」は、普通の写真学ではなく、 写真→知覚→時間→認識という横断的研究 にした方が面白くなるので、こちらも非常に有力です。 ただし、ZHdK自身には博士号授与権がなく、提携大学との共同方式になります。修士120 ECTS相当、成績、さらに芸術博士の場合は数年間の芸術実践と作品実績などが求められます。 3位 その他の欧州のArtistic Research系 ここからは、 オランダ ドイツ オーストリア イギリス 北欧 まで広げて探す価値があります。 ただ、 「有名大学だから」という理由で選ばない方がいい です。 あなたの場合は、 大学名 < 指導教員との研究テーマの一致 です。 私ならこうします 京都芸...

FB

フェースブックか。。 2018年に最初に始めた頃5000人を超えていたが、今回もまもなくそうなるだろう。 前回よりも速いペースだ。 ただ、内容がいい。 世の中には見事に僕の思うこと以上をコメントしてくる方がいる。 インターフェースデザインも向上していて面倒ではなくなっている。 ヨーロッパ圏を中心に今後の活動を見据えてるので、現地情報も聞けるようにしたい。 実際多くの情報を教えてもらった。 こういう使い方ならSNSも改めていいなと感じている。 日本では何の反応もない僕の写真だが、世界には通じる様だ。 この現象をAIに聞くと面白い回答が出てきた。 まあこういう事を書くと日本では嫌われるが、平気であるのが僕らしさだ。  僕の思考の根底には、だから何?という思想がある。  まあ、その件は後日。 

兎の餅つき

月の表面には、海と呼ばれる暗い部分が広がっている。溶岩が冷えて固まった平原で、模様そのものに意味はない。だが人はそこに、必ず何かの姿を見てしまう。 日本と韓国では、この模様は餅をつく兎として語られてきた。仏教説話に由来する話で、老人に身を捧げた兎を神が哀れみ、月に甦らせたのだという。中国では同じ兎が、臼で薬草を挽いているとされる。同じ兎という主題でも、何をしているかは土地によって変わる。 モンゴルでは犬に見立てられる。インドネシアでは編み物をする女性、ベトナムでは木の下で休む男性だという。インドではワニ、南アメリカ、とりわけアマゾン川流域のブラジルでもワニに見立てられる。力を持ち、恐れられる存在としての川の生き物が、月にもそのまま投影されている。 ヨーロッパに目を移すと、北ヨーロッパでは本を読む老婆、南ヨーロッパと中国の一部では大きな鋏を持つ蟹、東ヨーロッパでは女性の横顔、ドイツでは薪を担ぐ男とされる。アラビアでは吠える獅子、カナダの先住民の伝承ではバケツを運ぶ少女が語られる。ニュージーランドのマオリの間では、月の神を怒らせて月に連れ去られたロナという女性の姿だとされ、ポリネシアやメラネシアの多くの地域では、三つの石の上で火を使って料理をする人の姿として語り継がれている。 地球から見える月の面は常に同じである。したがって、これらはすべて同一の模様に対する解釈にすぎない。兎も、蟹も、老婆も、ワニも、網膜に届く光の配置としては同じものを指している。違うのは、見る側がどのような物語の型をあらかじめ持っているかということだけだ。兎のいない土地では兎は見えず、ワニの棲む川のそばでは月にもワニが棲みつく。土地の生態系、伝承、生活の記憶が、そのまま参照枠となって像を規定している。 これは、対象そのものの物理的な差異がどれほど小さくても、見る側の参照枠が異なれば立ち上がる像はまったく別のものになるという事態の、もっとも日常に定着した例だと言える。月の模様という一つの不変の実体に対して、無数の像が並列に存在し、しかもそのどれもが、それぞれの土地では自明なものとして受け取られている。像の複数性は誤認の結果ではなく、参照枠の複数性がそのまま反映されたものである。 満月を見上げるとき、そこに映るのは月の地形ではなく、見る者が属する文化の型そのものだと言ってもよい。 ...

Mary J. Blige – Soulful Reflections | Hip Hop Soul & R&B Soul Vibes

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逆らわず流して躱す生き方も悪くない。

考え中

もう来年から京都に住もうかと計画してる。 そんで飛ばして飛ばして。。 借家だし、なにかと今以上に金いるな。 どこにいてもなんらか入るシステム考えなきゃな。 でもたいしたハードルじゃないんだよな。 うんー  ぼく様のことだから、まずは行って考えるんだろう。 そんな生活設計はうとい位がちょうどいい。

Deep House Mix 2026 | Crimson Couture Duet & Scarlet Equestrian Majesty | Red Noir House

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Step by Step

1が出来たら2が出来る。 そうなんだよ。 単純さ。 1000で到達なら1000日で出来る。 ひとつも出来ないなら前には進まない。 1000が難しくても1なら可能だ。  僕に才能があるとするなら、続ける力。諦めない態度。 それだけだ。 必須科目の終盤。 なぜ昨年とらなかったのかとは思わない。 用意された時間でいくつもの考えを実行している。 

私はいつも私です。

少ししたらおそらく僕はヨーロッパ圏を旅して周っているだろう。 空の下の博物館といわれるアルメニア。 スペインのイビザ島。 コペンハーゲンの世界一のレストランNOMA。 クロアチア・ドゥブロヴニク「アドリア海の真珠」と呼ばれる港町。 スコットランドアイラ島にあるスコッチ・ウイスキーのボウモア蒸留所。 イタリア各所。 フランス ルーブル。  ヘルシンキ。 バルト三国 十字架の丘。 ただ思うね。 普段の僕のままの生活が向こうにもある気がする。 そして思うね。 ここでの生活もまた向こうと変わらないよ。とね。  I Am Always Myself Soon, perhaps, I’ll be traveling around Europe. Armenia, known as a museum beneath the open sky. Ibiza in Spain. NOMA, the world-renowned restaurant in Copenhagen. Dubrovnik in Croatia, the port city known as the “Pearl of the Adriatic.” The Bowmore distillery on the Isle of Islay in Scotland. Various places in Italy. The Louvre in France. Helsinki. The Hill of Crosses in the Baltic region. And yet, I can’t help thinking: I have a feeling that my ordinary life, just as it is, will somehow be there too. And then I think: Perhaps the life I live here is, after all, no different from the life I will find there.      

晩ご飯3日分

Tonight,  かじきまぐろのバジリコソースムニエル + おでん tomorrow,  豚肉きゃべつもやしのやきそば   the day after tomorrow とんかつ肉の檸檬漬け バターソテー   うう。 簡単すぎる。 食べてくれるひとがいないので、サボります。。 

Tiny Lives

Tiny Lives Four swallows born beneath my roof, ten Japanese rice fish gliding through the water. All of them are thriving, and somehow, I feel that happiness is quietly finding its way to me, too. 「小さな命たち」 我が家で生まれた四羽のツバメ。 水の中を泳ぐ十匹のメダカ。 みんな元気に育っている。 そして、ふと感じる。 幸せもまた、 静かに僕のもとへ やって来ているのかもしれない。    

なかったけどな

大概元気なぼく様ですけど。 夏バテ気味。。 6時間も休みなしで働くと後半、足元に力が入らない。 ? ナトリウム欠乏か。 塩と水分で元気にはなる。 でも朝しんどいなと起きる。 いままでそんな事はなかった。 目覚めるとすぐに行動も思考も出来ていた。 こうやって歳とるんだなあ。 事実は事実で受け止めて対処か変更しながら目標まで到達する方法を考えよう。 

What, really, is art?

現代アートは、いつも新しいものを要求される。 新しい表現。 新しい考え方。 誰もやっていないこと。 でも、僕はそれが、どうもつまらない。 「新しいものを作らなければならない」ということ自体が、すでに一つの型になっているように思う。 僕は、同じことを続けるほうが面白い。 写真でもそうだ。 同じ海を、何十年も撮っている。 田んぼも同じだ。 毎年、稲を植える。 水を見る。 草を見る。 稲を見る。 やっていることは、たいして変わらない。 それでも、毎年違う。 天気が違う。 水が違う。 土が違う。 稲の表情も違う。 同じことを繰り返しているからこそ、その小さな違いが見えてくる。 僕は、そのほうがずっと深いと思う。 新しいものを次々に作ることよりも、 同じことをやり続けること。 その中で、自分の見方が変わり、 世界のほうも少しずつ変わっていく。 稲作とて同じだ。 僕は、そう考えている。