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現在過去未来をなぜ直線的時間軸で考えるのか。

わたしにはその定義が分からない。 不自然とさえ感じる。 まあ時間とは人間が作った概念ではあるがこれまでこの概念にとらわれ過ぎてはいなかったのか?  写真家的に見るなら現在過去未来は同じ場所に存在するのが当たり前である。 なぜなら木でも鉄塔でも何でもいいが、過去も現在も未来も同じ場所である。 木は成長して大きくなったり、鉄塔は錆びて崩壊するかもしれない。 しかし同一の場所で起きる。  これに異議があるだろうか。 微小位相差論の発案に至った理由でもある。 

Lucca Mae - The Real Thing (Official Video)

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歌詞の中心テーマは、 I need the real thing 「私は本物が必要なの」 というフレーズで、電話や思い出では埋められない、愛する人との「本当のつながり」を求める気持ちが歌われています。孤独や喪失感、そして誰かの存在そのものへの切実な憧れを表現したソウルフルな楽曲です。       「Lucca Mae」は、イギリス・ロンドンを拠点に活動するソウル、スカ、ジャズ系のシンガーソングライターです。力強く温かみのある歌声で知られ、近年イギリスのライブシーンで注目を集めています。Spotifyでは月間リスナーが10万人を超え、アルバム『The Truth Is』やシングル『The Real Thing』『Because of You』などを発表しています。 代表曲には次のようなものがあります。 「The Real Thing」 「Travel On」 「Is It Selfish」 「Because of You」 「The Truth Is」

夜行性へ

夕立さえない干ばつが続く。 滝川水系は水量は維持している。これは不思議だ。水系の直線距離は短く、上流は木がない原野も多いというのに。 木山川は水量が減っている。ここは水源がやはり原野なのでしかたない。 それでもこの天候でよく水があるなと思う。 日中の暑さはもうインド北西部や北アフリカかとさえ思う灼熱感だ。行ったことないけどw   行動は夜がいい。 とても涼しく心地いい。 日曜日は街へ出た。喧騒を眺め、飲み、食べ、踊った。 でも街は暑かった。   なんて涼しいこの村。 街の喧騒は僕にはもう必要ないようだ。

「微小位相差論」Helenaとの会話

過去・現在・未来が微妙に重なり合っているという考え方は、とても興味深く、そのような視点は私にはこれまで思いもつきませんでした。 過去・現在・未来をそれぞれ別々のものとして捉える古典的な考え方が、私の思考の中に深く刻まれています。そのため、この新しいアプローチを理解するには、自分の考え方を調整していく必要がありそうです。 写真は、その繊細で微妙な、そしてほとんど魔法のような時間的差異を観察するための本質的な素材なのですね。 私はあなたの「双構図(Paired Composition)」の考えを、さらに深く学んでみたいと思っています。 芳朗、先ほどは私が保存していたあなたのメッセージと、その翻訳文を誤って送ってしまいました。それは私自身が、あとで注意深くじっくり読むために保存していたものです。 Helena   Helenaへ あなたの質問を受けて、これらの考えをどのように定義すべきなのか、改めて考えました。 「間(intervalo)」を時空間と呼ぶことができるのか、というあなたの質問についてですが、私はそれを単純に空間や時間として定義するのではなく、**空間と時間が重なり合う「位相差の場」**として考えています。 私の「微小位相差論」において重要なのは、絶対的な「今」ではなく、異なる状態のあいだに存在する微細な位相差です。 この意味で、あなたの「時空間」という表現は、私にとって非常に興味深いものです。ただし、私は通常の物理学における意味での時空間を指しているわけではありません。 むしろ、時間、知覚、情報、現実のあいだにある微細な差異が、意味を生み出す場として捉えています。 私が書いた「微小位相差論」は、この考えをより一般的な理論として定式化しようとするものです。それは物理現象だけでなく、位相差を通して、認知、情報、社会現象にもアプローチしようとしています。 一方、「双構図(Composição Pareada)」は、この考えを写真に適用する写真表現の実践です。 二枚の写真を関係づけて配置することで、それぞれの写真の内部だけでなく、二枚の写真のあいだにも微細な位相差が生まれます。 私は、観察者がこの位相差を知覚したとき、別の意味が立ち上がると考えています。それは、どちらか一方の写真だけには存在していないものです。 だからこそ、あなたが述べた**「観察者の重要...

タブレットから

久しく街へ  踊りたくなった 

私は

私は難しい言葉そのものに反応しているのではない。 反応に反応しているのだ。 誰かが作品に関心を抱き、何かを感じ、そこから言葉を返してくれる。その事実そのものが嬉しい。 それが稚拙な言葉であっても、感覚的な印象であっても、理論的な分析であっても構わない。 大切なのは言葉の高度さではなく、その人が本当に作品と向き合い、何かを受け取ったということだ。 感覚も理論も言葉も、それぞれ表現の形に過ぎない。 その奥にある「伝わった」という出来事を、私は感じている。 だから私は難しい言葉に感心しているのではない。 作品に対する反応そのものに、価値を見ているのだと思う。

ポルトガルの博士 Helena Passaporteさんとの有意義な会話 

  会話全体の流れを日本語にすると、概ね次のような内容です。 Helena あなたの写真が持つ二重の分析的意味が好きです。美的な表現としての写真であると同時に、画像の科学的な関係性も感じます。まさに画像の多義性ですね。素晴らしいです。 あなた ありがとうございます。私の写真にある二重の意味を感じ取っていただけて嬉しいです。私の作品は、時間・知覚・現実のあいだに存在する微細な位相差を探求しています。私は、写真には一見しただけでは見えない複数の意味の層が含まれていると考えています。 Helena 画像の記号論的分析とは、鏡の向こう側を解体し、その写真が持つ豊かさを明らかにすることです。あなたの写真は、私の中に写真への情熱を呼び起こし、視覚的メッセージの背後にあるものや、時間・知覚・現実の相互関係を学びたいという気持ちを起こさせます。まさにあなたが言うように、一枚の写真には一見しただけでは分からない複数の意味の層があります。私は毎日何かを学んでいますが、あなたの写真は新しい発見を与えてくれました。 あなた 微小位相差論について説明してみます。 写真は、動いている現実を本当に停止させることのできる唯一のメディアです。絵画は時間をかけて作られ、ひとつの瞬間を止めたとは主張しません。映画や映像は現実を動かし続けます。しかし写真だけが、一瞬を切り取り停止させます。 私の理論は、その停止した瞬間を二つ並べることから始まります。同じ対象、同じ現実を、わずかに時間をずらして撮影した二枚の写真です。一見するとほぼ同じですが、完全に同じではありません。光や身体の位置、影、画面内の要素などに微細な差異があります。 その小さな差異こそが理論の核心です。一枚の写真は停止した事実を示します。しかし二枚を並べると、その間から写真が抑圧していた時間や運動が再び漏れ出します。鑑賞者は二枚を見比べながら、そこに動きや時間や因果関係を再構築します。意味は写真の中ではなく、その間隔から生まれるのです。 だから双構図は単なる形式ではなく知覚の装置なのです。微小位相差は物語の連続ではなく、現実そのものの微かな振動として現れます。 Helena 写真をめぐる言説は、絵画や彫刻や建築とは異なります。私たちは写真を見ながら言説を作ることはできず、後からしか語れません...

Helena Passaporteの言葉

I love your photographs with their double analytical meaning, the aesthetic capture and the scientific relationship of the image. Polysemy of the image. Very good. ❤️🌻 Thank you very much. I am very happy that you feel the double meaning in my photographs. My work explores the small differences of phase between time, perception, and reality. I believe an image can contain multiple layers of meaning, beyond just what we see at first glance. 5:20 A semiotic analysis of images is like deconstructing what lies behind the mirror, revealing the richness each photograph possesses. Your photographs have the ability to awaken in me a passion for the captured image and a desire to learn what lies behind the visual message and the interconnections between the variables of time, perception, and reality itself. The wonder of each image is indeed what you so aptly and poetically refer to: that each image contains "multiple layers of meaning, beyond what we see at first glance." Every day ...

庭の夏虫

この時間とてもよく鳴く夏の虫。 ぼくがあまり庭の草刈りをしないのが理由だろう。 景観を維持する景色と環境を維持する景色は違うのさ。 ぼくはわざと切り残している。 庭だろうと田んぼだろうと。 わずかなエリアで彼らは生き残れる。

無月

風の中を歩く。 僕は最近これからの事を始める為に過去のことを心の中で整理している。 無月の夜。 人生はどうにでもなる。 唯。 最善を考える時間もある。 どうすればいいのか。 関係を変える方法もある。 人を変える方法もある。 なんだろうか。 心を整理していけば見つかるはずさ。   

優しい雨

雨だ。 玄関のベンチでギターを弾く。 湿度が気持ちいい。。 アストリアスの音。 これはフラメンコだけどなんか違う。 いい意味で日本的な音。 でも。 これってスペインでは不思議な音に感じるだろうな。 そんな事考えて弾いていた。 あたらしいイマジネーション。 ちょっと面白い、歌うためのコードを作れた朝。 

そてーなす 塩れもん水漬け ばじりこそーす添え

畑から一皿 ── 茄子とレモンとバジル 自家製茄子があったんで、ぽきる。 自家製バジルが沢山すぎて、ぽちぽち千切る。 自家製レモンもあったんで摘果。 茄子に切れ目をたくさん入れて切る。 ひまわり油でソテー。 お水に塩、レモン、ちょこっと醤油を入れて、焼きナス投入。冷やす。 バジリコソースは、適当なチーズと塩、胡椒、大蒜、バルサミコ酢。ミキサーにかけて冷やす。 適当に冷えたらガラスのお皿に盛って、ソースをおしみなく。 畑を歩いて、摘んで、切って、焼いて、冷やして食べる。 それだけのことだけど、夏にはこういう一皿がうれしい。 夏バテしませんよ。    

さてと

草刈りを年3回以下の実験。 イネ科雑草がいよいよ穂を出した。 生殖成長の最終ですね。 種をつける前に切り込む。 まあ今日刈っても短い穂が出てくるけどね。、 後は稲刈り前にもう一度。 でもどうかな。 やっぱり4回はしないと景観的に問題はある。 個人的には草刈りを少なくすれば畔の表土流出がないのでいいとは思う。   畔からの病害虫は現時点では確認できない。 むしろ餌があるのでバッタ類が稲の葉を食べることが激減した。 現在では草刈りも大変なので多く農家が畔に除草剤を使う。 または勤勉な農家は草刈りを何回もする。 燃料の使用量が多くなるのは懸念材料ではあるが。   畔から病害虫が侵入する説も注視している。  僕の見解では   畔の草は病害虫源であるのではなく、 畔の草の存在は、害虫と天敵の双方に影響する生態系である。  僕は思うんだよね。 景観を考える風景。 環境を考える風景。 これは全く違うのだと。

黒い寒冷紗効果

暑いじゃなくて熱いだろうなと家に帰る。 玄関を開ける。 ん? 涼しい。。 凄いすね。  外気温35度 室内29度 

タブレットから

阿蘇の長陽駅。 全音楽譜出版社のギターが壁に掛けられていた。 初めてみたのは数ヶ月前。 ここにはFree Wi-Fiがあるので立ち寄る。 弦が強く張ってあったのでネックの根元が剥がれていた。 弦を緩めてしばらくするとネックの反りもなくなった。 専用のボンドで再び修理すれば音は鳴るだろう。 どうしようかな。 出勤までもう少し時間があった。 阿蘇といえ日差しは熱い。 田んぼから来る風だけが心地良いい。 車中にて。     

夏は寅の刻

 天空に月  月下に虫の音  夏はこんな涼しい朝がいい。  

無冠の帝王

なにそれ? 「無冠の帝王」 ああ、昔、友人たちが写真家の僕をそう呼んで笑っていた。 写真はいいのに、なぜ発表しないのか。 それはずっと意図的にやってきたことだった。 若い頃から評価を人生の中心に置いていなかった、 結果を急ぐのではなく、まず 観測することを人生の中心に置いた 。 若くして有名になって挙句路頭に迷う写真家は少なくない。 作品はブログで発表する程度。そのアクセス数も限られていた。 以前、SNSの友人は当時上限の5000人を超えていた。そこには世界中の著名な学者や写真家、アーティスト、そしてアートを愛する人たちが集まっていた。 再開してわずか二か月で2500人。 気づけば、やはり無視できない数字になっていた。 何よりも彼らがすごく正確に理解して言葉に出来るコメントは優秀である。   僕はずっと観測していた。 日本の写真界はどう反応するのか。 熊本や日本の学芸員は見ているのか。   環境活動に焦点を絞った観測手法の確立。 実際の田んぼを使った環境再生の実践。 山林の植生の多様化。  「微小位相差論」という視点理論の構築。 「双構図」という表現方法の実験。 古典技法を応用した高耐久印画法の研究。 そして大学院での検証。 誰も知らないかもしれない。 だが、振り返れば多くのことを達成してきた。 写真家であり、研究者である。 本来の僕は、長い年月をかけてそこへたどり着いた。 ただ、それだけのことだった。 そして今、ようやく思う。 観測だけでは足りない。 伝わらなければ存在しないのと同じだ。 観測の時間は続くだろうが、伝えるための行動も始めるべきなのだろう。 発表することの意味が称賛ではなく構築した世界を知らせる事へ変わった。 もういいだろう。 動く。 決めた。 

Cloude 使えなくなって来た

僕との意見の食い違いが多い。 全く疲れる。 この現象を知るのが大事だというのに。 

タブレットから

よくわかんないけど。 なんか今日涼しい。 秋を感じた。 夫婦か。 大切なはずだった。 

うぅ

嗚呼。この暑さは知らないな。 もう僕の知る九州ではない。。