今は無き
子供のころから親しんだ椋木。
椋の実を頬張って食べていた少年時代。
500年前からあるなら、新川家がこの地に来た時からあったと思われる木。
あっけなく切り倒された。
私は感情的にならないよう常に自制しているが。
やはり私は消滅した景色を見ても悲しくはなかった。
そう言う視点でものごとを捉える訓練をしてきたからだろうか。
人からは無常だと言われても、私はなんとも思わない。
養鶏場で働いていた頃、私はうつ病から克服した時期だった。
狭い鶏舎のゲージの中に鶏が6羽入っていた。
窮屈な世界。
一般的には可哀そうだとか動物虐待と言われる世界だ。
ただ仕事しながらそれを見て、自分と照らし合わせてみた。
景色はやがて頭上はるか彼方から俯瞰して私と鶏の風景を見ていた。
私は思ったな。
なんだ、俺と鶏君は何も変らないな。。と
養鶏場の朝一番の仕事はゲージの中で死んでいる鶏を探して捨てる作業から始まる。
殆んどが他の鶏から踏まれた圧死である。
時に生きてるが足を折って動けない鶏もいる。
そいつを掴んで床に叩きつけて殺す作業は日常茶飯事であった。
可哀そうではない。楽にして挙げただけだ。
そうでなければ、仲間と言うか同類から踏まれつづけ、憐れむ姿も声も無視され、せんべい見たいにぺちゃんこにされ、ゲージの中で腐り果てる末路だ。
さて
皆さまはどう思われるかな、
私はそうして今まで生きてきた。
悲しいとか泣いてられっか。
環境を変え、整えるしかない。